アルバート・アナスタシア暗殺事件
アルバート・アナスタシア暗殺事件
今回はアルバート・アナスタシア暗殺事件の詳細をお届けしていきます。
1921年の春、アナスタシアは殺害の罪で死刑判決を受けた。
1921年7月3日にシンシンの電気椅子で処刑される予定だったが仲間達の証拠隠滅により無事釈放された。
その後アナスタシアは1951年に自らのボスだったヴィンセント・マンガーノを排殺害し、マフィアのボスにまで上り詰める。
しかし結局の所、アナスタシアは椅子の上で処刑される運命にあった。。
アナスタシアと四番目の椅子
1957年10月25日朝7時、アナスタシアはニュージャージー州フォートリーにある自宅を運転手兼ボディーガードのアンソニー・コッポラの運転で出発した。
この朝のアナスタシアの行動のほとんどは謎に包まれている。
やがて車は、マンハッタンのウェスト54番街124番地にあるコーバンガレージに9時28分頃に駐車された。
アナスタシアは、パークシェラトンホテルのアーサーグラッソの理髪店に10時15分に入店。
目的は勿論、散髪である。
店の常連だったアナスタシアは、入り口近くのレジにいたオーナー グラッソと挨拶を交わす。
それから床屋のジョセフ・ボッチーノが働いていた4番の椅子に向かって移動。
アナスタシアはトップコート、茶色のスーツジャケット、帽子を掛け4番の椅子に着席し散髪を依頼した。
ボッチーノは散髪を開始。
彼がアナスタシアの頭の左側の髪を切っていた時、パークシェラトンのロビーにつながる出入り口から二人の男が理髪店に入ってきた。
男の一人は小声でグラッソに「頭を吹き飛ばされたくなきゃ口を閉じおけ」と命令。
グラッソはそれに従った。
男は拳銃を抜きアナスタシアの後ろに陣取り発砲。
最初の銃撃で、アナスタシアは椅子から飛び上がった。
それからアナスタシアは前の鏡に突っ込み、それから横に倒れた。
倒れたのは2番と3番の椅子の間あたり。
倒れたの時には既に息絶えていた。
倒れるまでに発射された弾丸は10発で、5発が命中。
うち2発は身を守ろうとして上げた左手とその手首に、残りの3発は右腰、背中後頭部を捉えていた。
アナスタシアの死亡を確認すると男達は静かに店を後にした。
使われた拳銃の1丁は.32口径で、もう1丁は.38口径。
1つはパークシェラトンの玄関ホールで、もう1つは近くの地下鉄の駅のゴミ箱で発見された。
マスコミは〝アノールド・ロススタインが死亡したホテルが現場〟と報じました。
事件の捜査
警察はアナスタシアのビジネスパートナを中心に尋問を開始した。
10月25日の夕方、警察はアンソニー・コッポラを拘束。
コッポラはアナスタシア暗殺の約40分後にパークシェラトンに戻った事を認めた。
さらに興味深い説明をしている。
「理髪店でアナスタシアに会うつもりだった。
だが、そこへ行く途中で暗殺を知って引き返した。
その後戻って車を回収してニュージャージー州まで戻りました」
この暗殺については以下の説が有力とされている。
・フランク・コステロへと攻撃として、仲の良かったアナスタシアが狙われた。
・暗殺の立案者はカルロ・ガンビーノ
・キューバの利権を巡って揉めていたマイヤー・ランスキーやサント・トラフィカンテが暗殺した。
・実行犯はジョーイ・ギャロ
以上が有力ですが、実はその他の説も
1958年、FBIはアナスタシアがアイルランド系の犯罪組織とトラブルを起こして殺害されたとの情報を入手している。
また、1963年にはアナスタシア殺害の実行犯はジョー・ジェリー・ジョレッリとラルフ・マフリチという男だという情報を掴んだ。
この二人はジョーイ・ギャロの手下で、1961年頃から行方不明になっている。