三分で学ぶ! ルイス・バカルター
ルイス・“レプケ”・バカルター
目次
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今回は、マーダーインクのボスにして狂暴な男。
でも腰の低いルイス・“レプケ”・バカルターを紹介していきます。
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ルイス・バカルターの生い立ち
1897年2月、ルイス・バカルターはマンハッタンのスラム街 ローワーイーストサイドに誕生した。
可愛らしく小さな子供で、母親は彼を「レプケ」と呼んだ、
レプケとは「小さな」という意味である。
この可愛いあだ名は殺し屋となった後も付きまとうことになった。
両親はロシア移民のユダヤ人で、父は金物屋の店主。
兄弟は歯科医に教授、薬剤師と決して荒れた家庭ではなかった。
バカルターも兄弟と同じように学校では優等生だった。
怪物の誕生
小学校を卒業したバカルターは演劇用品の販売を始める。
その間も働きながら熱心に勉強していたという。
しかし、12才の時に父が病死。
母も体調を崩してしまい小さなレプケは伯母さんの家に預けられた。
だが家庭環境の変化の反動からかバカルターは非行に走り始め、15才の時には暴行と強盗で初の逮捕を経験している。
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バカルターを手に負えなくなった伯母は、叔父の元へ預けることにした。
しかしバカルターの非行は収まらず、再び強盗で逮捕され少年院へ。
さらに叔父とも喧嘩し一人ニューヨークへと舞い戻った。。
ギャングの道へ
ニューヨークでも強盗を続けたバカルターはやはり逮捕され服役。
翌年22才になっていたバカルターは釈放されたが、再び強盗で逮捕。
次に出所したのは25才の時だった。
さすがに懲りたバカルターは方針を変え、仲間を作り組織的に活動してゆく。
バカルター一味は衣類業界の労働組合を暴力で支配し、衣類工場から莫大なアガリを得るようになった。
放火や殺人を容赦なく行うバカルターの悪名は暗黒街にたちまち知れ渡った。
ユダヤ人のマフィア
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そんな折、バカルターに転機が訪れる。
イタリアマフィアと最も親しいユダヤ人 の一人 マイヤー・ランスキーにスカウトされたのだ。
ランスキーはバカルターにより効率的に、暴力を使わず稼ぐ方法を伝授した。
さらにイタリアマフィア トミー・ルッケーゼとも知り合い、共同で労働組合ビジネスを行うように。
バカルターの取り分率は減ったが、金額は増えた。
バカルターは豪邸を購入し結婚。
妻はロシア系の未亡人 ベティ・ワッサーマン。
二人は養子を取り幸せに暮らした。
こうして長かった反抗期は遂に終わったのだった。
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殺人株式会社
30代になったバカルターは幾分か落ち着きのある大人になっていた。
口数は少なく、腰の低い紳士、部下には優しく彼の組織は言うなればホワイト企業だった。
その企業の名は殺人株式会社。
イタリアマフィアの為の殺しを請け負うプロの殺し屋集団である。
この組織はサラリー+出来高制で福利厚生も充実しており、さながら大企業のようだった。
殺人株式会社を通してバカルターは無数の殺しに関わった。
その数は100件とも400件とも800件以上とも。
バカルターはカリスマ性と面倒見の良さで多くの個性豊かな殺し屋達を従え、依頼に応じて全国へ派遣していた。
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最も有名な仕事は1935年のダッチ・シュルツ暗殺。
シュルツは当時ニューヨーク地方検事だったトーマス・デューイに目をつけられ困り果てていた。
そこでシュルツはデューイを殺すことに決める。
しかしこれでは騒ぎが大きくなると感じたマフィアはシュルツの処刑を決断。
バカルターに依頼したのだった。
バカルターはシュルツを暗殺しデューイを救ったが、これは大きな間違いだった。。
バカルターの調査報告
1935年、政府は殺人株式会社について調査を始めた。
そこで以下の事が判明したとされている。
・バカルターの部下は250人ほど。
・年収は100万ドルを越えている
・衣類業界、製パン業界に加えトラックの労働組合を支配している。
・マンハッタンにナイトクラブを所有している。
これらの事実に目を付けたのは他でもないトーマス・デューイであった。
指名手配
1936年 バカルターは市場を独占した罪で逮捕された。
しかし保釈中に逃亡、指名手配犯に。
逃亡期間中にバカルターに麻薬密売の容疑が加えられた。
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これによりバカルターは最も有名な指名手配犯となってしまった。
警察とFBIは血眼になって捜査を開始。
しかし全米とヨーロッパを汲まなく探すもバカルターは見つからない。
実はバカルターは警察の目と鼻の先、マンハッタンに潜伏していたのだ。
バカルターはアルバート・アナスタシアなどの仲間に支えられ二年もの間逃げ続けた。
だが世間を騒がし続けるバカルターはマフィアのボス ラッキー・ルチアーノに見限られてしまう。
「自首をすれば、罪が軽くなるよう取引をした」と言われたレプケは信じて自首。
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だが実際には44年もの刑を宣告された。
殺人株式会社裁判
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1941年、殺人株式会社のメンバーだったエイブ・レルズが逮捕され証人に寝返った。
レルズが明かした殺人株式会社の実態は世間を騒がせ、バカルターは再び時の人に。
バカルターと部下は裁判にかけられ、死刑判決が下った。
死刑になる前、バカルターは「私は死刑を回避する為に、情報を提供したりしていない」と声明を出した。
これは言うまでもなくマフィア達へのメッセージである。
バカルターは裏切られてなお、仲間への忠誠を守ったのだ。
死刑当日
レプケは最期の昼食に、ステーキ、フライドポテト、サラダ、パイを。
夕食には、ローストチキンとサラダなどを頼んだ。
同時に処刑された仲間達は電気椅子を前に狼狽えたが、バカルターは電気椅子を目の当たりにしても冷静だったという。
こうしてバカルターは死刑になった最初で最後のマフィアのボスとなった。
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ヒットの語源
現在、広く知られる「ヒット」という言葉。
「ヒットマン」「ヒットした」など幅広く使われているが、これはレプケが創った言葉である。
当時、ヒットと言い換えておけば、殺しの事だとバレずに済んだのだ。