マフィアの帝王 ラッキールチアーノとキューバ
今回はラッキー・ルチアーノの晩年を解説していきます。
ラッキー・ルチアーノについてはこちらもご覧ください
ラッキールチアーノの追放
強制売春の濡れ衣を着せられ服役していたルチアーノだったが、1946年に第二次世界大戦での活躍により、恩赦を認められる。
だがアメリカに在住する事は許されず、同年2月10日にイタリアへ強制送還された。
アメリカ当局はルチアーノは2度とアメリカへ近づかないと思い安堵した。
しかし10月29日、ルチアーノはアメリカに程近いキューバの首都ハバナに飛行機で舞い降りた。
ルチアーノがキューバに現れた理由は、親友のマイヤー・ランスキーから〝12月 ホテルナショナル〟とだけ書かれたメッセージを受け取ったから。
この言葉足らずなメッセージの意味をルチアーノは瞬時に理解した。
12月、ハバナでマフィアの全国会議が開かれるのだ。
ルチアーノがチャーター機を使ってハバナへ飛ぶと、そこにはランスキーが待ち構えていた。
ランスキーはマスコミを避けるため、〝ルチアーノのイタリア行きを見送る会〟に参加していなかった。
故に親友にもかかわらず、他の誰よりも長らく会っていなかった二人は、抱き合って再開を喜び再起を誓う。
ルチアーノは会議までの期間を、ランスキーが用意したホテル ナショナルで、日光浴をしたり女を漁って過ごした。
マフィアのコミッション
やがて、マフィアのボス達が続々とハバナへやってきた。
ボス達は飛行機を降りると、まずルチアーノの元へ向かい敬意の印に金を渡した。
その金はランスキーに渡され、ハバナのカジノ開発資金となった。
12月22日、いよいよハバナのホテルナショナルで14年ぶりの全国会議(コミッション)が開催された。
わざわざハバナで会議が開かれた理由は2つ。〝アメリカへ入国出来ないルチアーノが参加できるように〟と〝ランスキーの力でハバナでの安全が保証されていたから〟。
会議の初日は、堅苦しい話を抜きにして宴会が催された。
料理は海産物やフラミンゴの胸肉で、かなりの美味。
宴会を終えると、ボス達は高級ナイトクラブに行くグループ、ホテルに留まるグループなど何チームかに別れて夜を楽しんだ。
その翌日、ナショナルの最上階フロアが貸しきられ、武装した警備部隊が厳重に警備する中、会議が始まった。
議題は、〝ハバナのビジネス〟と〝バグジーの処遇〟についてでしたが、その裏には〝ラッキー・ルチアーノは健在〟という事を示す意図もあった。
参加者は、以下の通りの豪華なメンバー
アンソニー・アッカルド
ジョー・アドニス
ジョゼフ・ボナンノ
フランク・コステロ
モー・ダリッツ
トーマス・ルッケーゼ
カルロス・マルセロ
ラッキー・ルチアーノ
マイヤー・ランスキー
などなど。。
この会議で、バグジーの処刑がほぼ決まったと言われています。
この会議は、「ゴッドファーザーpart2」のハバナでの会議の元ネタとなっています。
米国麻薬局長、ハリー・アンスリンガー
会議は滞りなく終了し、ルチアーノはハバナから再びアメリカ暗黒街を支配する気満々だった。
しかしルチアーノは、米国麻薬局長のハリー・アンスリンガーに目を付けられてしまう。
アンスリンガーはルチアーノの天敵で、ルチアーノがアメリカに近いキューバで、アメリカでの麻薬ビジネスを指揮すると見ていた。
ルチアーノはアンスリンガーを恐れ、ハバナ会議の席で「麻薬に手を出すべきではない、手を出したら奴等の思うつぼだ」と呼び掛けた。
一方ランスキーは、派手な私生活を好むルチアーノに、「あまり目立つ事もよくないぞ」と忠告するも、ルチアーノは女を侍らせ、豪遊三昧だった。
そんな折、ハバナでのルチアーノとフランク・シナトラとの交遊がマスコミに報じられてしまう。
フランク・シナトラは歌手兼金の運び屋としてハバナへやって来ていたのでした。
後にホテルの従業員は「シナトラはマフィア達だけの為に、歌を披露していた」と話している。
シナトラは歌を披露するだけではなく、ルチアーノやラルフ・カポネ(アルカポネの兄弟)と共に乱交パーティーに参加していて、 その事は大スクープとして扱われた。
さらにそのスクープから、ルチアーノがハバナに自宅を購入し居住している事が明るみに出てしまう。
アンスリンガーはニュースを知ると、国務省に直行し、キューバにルチアーノを強制送還するよう要請させた。
さらに〝ルチアーノが麻薬をアメリカへ輸出している〟と、さも真実のように語り、マスコミはそれをそのまま報道。
キューバ政府が要求を拒否すると、アンスリンガーはトールマン大統領のところに行き、あることないことを吹き込んだ。
大統領は、ルチアーノを追放しなければ医薬品の輸出をストップすると、キューバに圧力をかけた。
その頃、ルチアーノは無実の罪での追放を防ぐために、ランスキーとコステロを集め作戦会議を開いていた。
そこで、砂糖の輸出をストップするとアメリカへ圧力をかけようという作戦が立てられたが、うまくいかなかった。。
ふたたび追放
1947年2月23日の午後、ルチアーノはホテルナショナルとリビエラがあったハバナのヴェダード地区のレストランで食事している際に逮捕された。
キューバの秘密警察の責任者であるベニート・エレーラはマスコミに、「ルチアーノは、混乱を引き起こす可能性があるので、逮捕された」と語っている。
対してルチアーノは、マスコミに「もし私がここで問題を起こしたなら、イタリアに戻ります。
私はただ静かに暮らしたいだけです。理由もなくこのよう追放されたくない」と語った。
しかし、2月の終わりにルチアーノを強制送還が決まり、出入国管理キャンプに収用される。
そこについてルチアーノいわく「クソ暑かった」そう。
ルチアーノにとって収用された事はかなり屈辱だった。
そして3月20日にルチアーノはトルコの貨物船に搭乗し、ヨーロッパへ。
それからというもの、ルチアーノがアメリカに近づく事は二度となかった。
追放されたルチアーノはイタリアで暮らし、1962年に心臓発作で亡くなりました。
ルチアーノ追放後、マイヤーランスキーが本格的にハバナを支配するようになります。