三分で学ぶ アニエロ・デラクローチェ
三分で学ぶ アニエロ・デラクローチェ
目次
今回は実力に反して知名度の低いデラクローチェをご紹介。
彼はジョン・ゴッティの師匠でもあります。
マフィアの師弟関係といえば、マイヤーランスキーとアーノルドロススタイン、アルカポネとジョニートーリオなどが有名。
果たしてデラクローチェはどのようにしてゴッティを育てたのでしょうか?
アニエロ・デラクローチェの生い立ち
1914年3月15日、アニエロ・デラクローチェはニューヨークでイタリア移民の息子として誕生した。
治安の悪いローワーイーストサイドで逞しく育ったデラクローチェは10代の後半から肉屋で働き始める。
しかし稼ぎは良くなく、不足分を窃盗で補うようになり逮捕、収監された。
いつからか「アニエロ」をもじった「ニール」と呼ばれるようになっていました。
マフィアになる
1930年後半、出所から程なくデラクローチェはマンガーノファミリーに加わった。
アンダーボスのアルバート・アナスタシアはよくデラクローチェはを可愛がってくれたという。
やがてボスのヴィンセント・マンガーノが行方不明になるとアナスタシアがファミリーのボスに。
同時にデラクローチェは幹部に昇進した。
デラクローチェは部下をまとめる立場になったのだ。
そこでデラクローチェは粗っぽく野心溢れるマフィア志望の若者と出会った。彼こそが後のジョン・ゴッティである。
アルバート・アナスタシア暗殺
1957年10月25日、アルバート・アナスタシアが暗殺された。
その後ボスの座はカルロ・ガンビーノに渡る。
1965年、組織の若返りを図っていたガンビーノはデラクローチェの能力と若さをかってアンダーボスに指名。
デラクローチェはガンビーノの期待に応え部下たちを統率した。
デラクローチェは下の者達を締め付けず、むしろ尊敬され粗っぽいマフィア達から懐かれていたという。
ビジネスセンスも優れており、経営に参加していたゲイバーはかなりの売り上げをあげていた。
オニール神父
デラクローチェは警察を撹乱するためによく“オニール神父”という偽名を使い、神父の格好までしていた。
ある時は神父の姿で暗殺を行ったという。
それは後世まで語り継がれる伝説になっている。
揺れるガンビーノファミリー
1971年、デラクローチェは法廷侮辱罪によって一年の服役を言い渡された。
これ自体は大した事ではなかった。
しかし翌年、再び脱税で逮捕され、五年の刑期を追加されてしまう。
この影響は計り知れなかった。。
1976年ボスのカルロ・ガンビーノには死期が迫っていた。
本来なら後任にはアンダーボスが選ばれる。
しかしデラクローチェは檻の中。
熟慮の末ガンビーノはいとこのポール・カステラーノを後任に指名した。
カステラーノは頭脳明晰な人物だったが人望に欠けており、この決断がガンビーノファミリーに大きな危機をもたらすこととなる。。
ポールカステラーノとデラクローチェ
1976年11月24日、デラクローチェが出所するとファミリーは会議を開きカステラーノを正式にボスに任命した。
デラクローチェは波風を立てないよう大人しくしていたが、ゴッティ等部下は違った。
ファミリーは血気盛んなデラクローチェ支持派とカステラーノ支持派に二分され、大きなわだかまりを残すことに。
また、カステラーノは麻薬ビジネスを禁止していたがゴッティはこっそりと麻薬ビジネスに手を染めていた。
その事がカステラーノなバレてしまい、ゴッティはカステラーノを打倒せざるを得ない状況に追い込まれてしまう。
デラクローチェは師として、年長者としてゴッティにはない政治的な知恵を提供。
着々とクーデターの準備を進めてゆくのだが。。
デラクローチェとゴッティ
デラクローチェが先頭に立ってクーデターを行わなかった理由の一つに寿命があった。
デラクローチェの身体はガンに犯されており、余命は僅だったのだ。
1985年12月2日、71才だったデラクローチェは計画半ばでガンにより死亡した。
しかしその二週間後、ゴッティは計画を引き継ぎクーデターを実行。
カステラーノは射殺され、ゴッティはガンビーノファミリーのボスへと出世した。。