三分で学ぶフランク・コステロvsヴィトジェノベーゼ
フランク・コステロvsヴィトジェノベーゼ
目次
今回はマフィアを崩壊に導いた、空前の覇権争いを紹介していきます。
ここまでの流れを詳しく知りたい方は「三分で詳しく学ぶフランクコステロ 」をご覧ください。
マフィア戦争の始まり
1946年、捜査から逃れるためにイタリアへと渡っていたヴィト・ジェノベーゼがアメリカへと帰国した。
ヴィト・ジェノベーゼが留守にしている間、ファミリーはフランクコステロが仕切るようになっていた。
元々、ジェノベーゼはアンダーボス。
コステロはコンシリエーレ。
ジェノベーゼは自分がファミリーを仕切ってしかるべきだ。と考えるように。
さらにルチアーノがいない今こそ‘‘ボスの中のボス’’の座につき、マフィア界のトップに立つチャンスだと考えていた。
ボスの中のボスとは、マフィアのボスを束ねるボス。
このシステムは争いを招くとして廃止され、長らくボス同士の合議制(コミッション)がとられていた。
現れた厄介者
ボスのルチアーノがコステロを代理に指名して以来、ルチアーノファミリーは不自由なく運営されてきた。
コステロは他のファミリーやシカゴマフィアからも信頼されていた。
加えて、古くからの友人マイヤーランスキーからのアドバイスに耳を傾けるなど聡明さも。
コステロは帰国したジェノベーゼに幹部のポストを与えた。
アンダーボスの座はコステロのいとこウィリー・モレッティに渡っており、ヴィトにとって満足出来るものではなかった。
次に軋轢を産んだのは麻薬。
コステロは麻薬を嫌い、「麻薬ビジネスは一切、禁止する」とした。
しかしジェノベーゼは進んで麻薬取引に手を出し始めたのだった。
この争いは映画ゴッドファーザーのモデルにもなっていて、コステロはヴィトコルレオーネ。ジェノベーゼはバルジーニのモデルである。
ハバナ会議
1946年12月20日、ルチアーノの呼び掛けにより、全国のマフィアのボスがハバナに集まった。
ジェノベーゼは誰よりも早くハバナに降り立ち、ルチアーノと面会。
「そろそろ引退してはどうだ?」と申し入れた。
ルチアーノは断固拒否。
ここにきてルチアーノはジェノベーゼが大きな野望を抱いている事に感づいた。
この頃からアメリカのマフィアはコステロ派とジェノベーゼ派に分断された。
両派はどちらがマフィア界に影響力を持つかを競い始める。
影響力とは‘’コミッションの過半数‘’を指す。
前述したように当時のマフィアは合議制で、ルールを定めるにはコミッションでの決議が必要不可欠。
仮にコミッションで過半数を得ればジェノベーゼが‘’ボスの中のボス‘’になることも、コステロを追放することも出来るわけである。
激化する覇権争い
先手を打ったのはコステロだった。
コステロは旧友アルバート・アナスタシアを出世させることにした。
アナスタシアは所属していたマンガーノファミリーに所属していたものの、ボスではない。
アナスタシアをボスにするにはマンガーノを消すしかなかった。
1951年4月19日 マンガーノはアンダーボスだった弟と共に行方不明に。
アナスタシアはマンガーノファミリーのボスに、アンダーボスにはフランク・スカリーチェが就任した。
優しいケア
アナスタシアの暴挙を受けてジェノベーゼも反撃に出る。
まず、コステロのいとこでアンダーボスのウィリー・モレッティに目を付けた。
モレッティは梅毒の影響で、口が軽くなっていたので、それを口実に「モレッティは安楽死させなければ危険だ」とコミッションに提案した。
実際にキーフォーヴァー公聴会で口の軽さを証明していたので、モレッティを消す事に多くの者が納得し1951年10月14日、モレッティは殺害された。
ただし苦しまないように殺害され、葬式も盛大に行われた。
マフィアはこれを「優しいケア」と呼んだ。
これによりコステロはアンダーボスを失ってしまった。
この空いた席には繰り上がりでジェノベーゼが就いた。
コステロ暗殺未遂
1956年にはコステロ派のジョー・アドニスが国外追放に。
そして1957年5月2日にはコステロ自身が狙われる。
23時頃タクシーで帰宅したコステロは自宅マンションのロビーで頭を撃たれた。
しかし弾丸は奇跡的に骨と皮膚の間を貫通。
しかし焦ったコステロは救急車を呼び、事件は大事になった。
マフィアのメンバーシップ
勢いに乗るジェノベーゼは、「アナスタシアはマフィアに入会する権利を売って儲けている」と告発した。
これはマフィアの名誉を汚す行為で、処刑される類いの罪。
ただし、これは事実ではなくジェノベーゼの策略に過ぎなかった。
対応に苦慮したアナスタシアは協議の末、「アンダーボスのスカリーチェが勝手にした事だ」と言い切る事にした。
1957年6月17日、果物屋で買い物を楽しんでいたところを、スカリーチェは射殺された。
ゴッドファーザーのヴィト暗殺未遂はこの事件をモデルにしています。
アナスタシアは空いた席に扱いやすそうなカルロ・ガンビーノを据えた。
しかしこれは大きな過ちだった。。
怒れるアナスタシア
コステロ暗殺未遂は旧友のランスキーやアナスタシアを大いに怒らせた。
特にアナスタシアはコステロ派のメンバーにジェノベーゼを始末しようと持ちかけるほど。
さらに他のファミリーのボス達にも中立でいてほしいとメッセージを出した。
しかしこの水面下ではアナスタシアのアンダーボス カルロ・ガンビーノがジェノベーゼのスパイとして働いていた。
ガンビーノはジェノベーゼに「アナスタシアを殺して私をボスの座につけるべきだ」と提案。
このアイデアは承認された。
1957年10月25日、アナスタシアは床屋で散髪していた所を襲撃され死亡。
これを受けてコステロは引退を発表した。
アパラチン会議
覇権は争いに勝利したジェノベーゼは、全国からマフィアを集め「私がボスの中中のボスだ」と宣言しようとした。
しかしこの集まりには一部のギャングは現れなかった。
旧コステロ派の人間は既に、何が起こるかを知っていたのだ。
ジェノベーゼの振る舞いに怒り心頭だったランスキーはこの会議を警察にたれ込むという、思いきった決断をする。
匿名の通報を受けた警察は、前科者が会合を開いている屋敷を包囲。
半数は逃亡したものの、多くのマフィアが逮捕された。
この摘発は屈辱的でジェノベーゼは大恥をかいた。
さらに‘‘マフィア’’なる物が存在すると初めて証明されることにも。
マフィア界自体も大きな打撃を受けたのだった。
ちなみにこの時ガンビーノはコステロ派に鞍替えしていました。
その後の二人
部下のジョセフ・バラキが政府に寝返った事をきっかけにジェノベーゼは麻薬取引の罪で逮捕。
ジェノベーゼは死ぬまで刑務所におり、ついにボスの中のボスになる事は出来なかった。
コステロは引退後もマフィア達の良き相談役として影響力を持ち続けた。
カルロ・ガンビーノやサム・ジアンカーナ、ジェノベーゼ派だったトミー・ルッケーゼの相談にものっていたそう。
またランスキーとは生涯、友人同士だった。
しかし違法な活動は行わず、もっぱら園芸に性を出していて、地域のコンクールに出品もしていた。
最期は1973年2月18日に心臓発作でこの世を去った。
享年82歳はマフィアの中ではかなりの長生きでした。