クラッチハンド事件

クラッチハンド事件

今回はあまり知られていないクラッチハンドギャングについてご紹介。

クラッチハンドギャングを率いる謎めいた男の正体とはー!?

銃声

1931年9月12日、ブルックリンは買い物客で賑わっていた。

そこに突如、銃声が轟く。

撃たれたのはジョセフ・マニーノという男。

マニーノは頭に一発、胸に四発、右腕に三発、計8発もの弾丸を撃ち込まれ死亡した。

警察はこの手の“ギャング同士の争い”に慣れていたため、ろくな捜査もせずに遺体を回収した。

捜査

幸か不幸か警察はおざなりな捜査の末、目撃者を発見した。

目撃者は事件当時についてこう語った。
「15時少し前でした。マニーノは三人の男と揉めていました。
それから男達は拳銃を抜いて、マニーノは1走って逃げようとしたんです。
でも捕まって撃たれました」

こうして犯人像を掴んだ警察は仕方なく本格的に捜査を開始。

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禁酒法時代のシカゴ、ニューヨークではギャングが撃たれるのはよくあることだったのです

また、マニーノの遺体は兄のアンソニーによって身元が特定された。

さらに現場近くからは路上駐車されたリンカーンが発見された。

事件の背景

殺人事件の捜査を始めた警察はすぐにマニーノを殺す動機のある者を絞り混んだ。

第一にマニーノは近所の女性と手当たり次第に関係をもっていた。

第二にマニーノは酒の密売に関与していた。
マニーノは野心家で勢力拡大を目論んだためライバルに殺されたという可能性が最も高そうだった。

マニーノの経歴

当時の新聞記事

捜査を進めるうちに警察はマニーノには禁酒法違反の前科があることを発見。

そこから警察はマニーノがサルヴァトーレ・マランツァーノ殺しに関与し口封じされたに違いないとして捜査を続けたが、これは見当違いであった。

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という訳で警察は一から捜査をやり直しました。

以前の禁酒法違反でマニーノは親友のジュゼッペ・ピライノと共に逮捕されていた。

ピライノは手が麻痺しており、それを皮肉って“クラッチングハンド”とあだ名をつけられていた。

ピライノは“クラッチハンドギャング”という酒密売組織を結成していて、ブルックリンを掌握するほどの実力者。

しかしピライノはマニーノと共にアルコールを盗んだとして有罪判決を受ける。

そしてマニーノには執行猶予付き判決が、ピライノは刑務所に送られた。

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ピライノが投獄されている間、マニーノは酒密売を続けた。

1923年、マニーノと仲間達は大規模な蒸留所を運営していたとして逮捕されている。

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この蒸留所は廃墟を改築したものでした。

マニーノは3回目の逮捕だったものの、250ドルの罰金で済んだ。

やがてピライノが刑務所から釈放されると、マニーノは再びピライノの下につきビジネスを再開。

クラッチバッグギャングはさらに勢力を拡大し、ブルックリンのブラックハンドを率いるフランキー・イエールとも激しく争った。

1928年、イエールがアル・カポネに殺害されると後、ピライノはイエールの残党を吸収。

ブルックリンの帝王となった。

それもつかの間、1930年3月にピライノは敵対ギャングに撃たれ死亡してしまう。

親友でありボスを失ったマニーノは、クラッチハンドギャングをまとめあげ復讐を誓う。

マニーノは武闘派のギャングを集め「敵を皆殺しにするぞ」と息巻いた。

しかし、宣戦布告は敵の知るところとなりマニーノは命を狙われることになった。

マニーノの正体

警察はなぜマニーノを知らなかったのか?

それはマニーノの私生活に起因している。

マニーノは妻と共にアパートで慎ましい暮らしをしており、普段は義父と共に肉屋で働いていた。

マニーノの家族は裏家業を知らなかったし、ギャング仲間もマニーノの正業を知らなかったという。

また、彼の死後に警察が書類を調べ直し33才だという事を突き止めている。

余波

警察は捜査の結果、マニーノの正体を突き止め、さらにグリエル・モギカとティト・バルサモというギャングを逮捕した。

しかし、その後二人は証拠不十分で釈放された。

それから二週間後の1931年11月16日、レストランを訪れたモギカは何者かに10発以上も撃たれ死亡。

復讐劇の後、指導者を失ったクラッチハンドギャングは緩やかに解散し姿を消した。

ちなみに1949年3月に逮捕された逃亡犯が取り調べで「元クラッチハンドギャングだ」と語った。

恐らく彼がクラッチハンドギャングの最後の生き残りと思われる。

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