ラスベガスのブラックリスト

ラスベガスのブラックリスト

ラスベガスのカジノに出回る“ブラックリスト”。

カジノ関係者が何よりも恐れるようになったブラックリストの歴史とはー!?

ラスベガスのマフィア

マーシャル・カイファノ

1950年代初頭以来、マーシャル・カイファノはラスベガスのカジノで過ごすことを何よりも楽しみにしていた。

マーシャル・カイファノはシカゴマフィアの“ラスベガス責任者”で、全科を誤魔化すためにこれまで13回も改名をしていた。

逮捕歴は35件。
そこには殺人、窃盗、銀行強盗が含まれていた。

そんなカイファノに思わぬ悲劇が起こってしまう。。

ゲーミング委員会

グラント・ソーヤー知事

グラント・ソーヤー知事の政治指導の下、1959年3月に州議会はネバダゲーミング管理法を承認した。

ゲーミング管理法はラスベガスに巣食うマフィアを追い出し“平和な観光地”を作るべく制定された法律で大きな力を発揮することとなる。

この法律の主な内容は、以前はネバダ州税務委員会が果たしていた役割を引き継ぐ、新しい機関ネバダ州ゲーム委員会の創設だった。

パートタイムの素人で構成される委員会の目的はギャンブルの方針を設定し、ライセンスの最終承認を与えゲーム規制委員会を監督することにあった。

新法の下で知事は委員会メンバーを任命した。

委員会メンバーは絶対的な権限を与えられ、ゲームライセンスの申請者とライセンシーを調査しライセンスの一時停止、取り消し、制限、条件付け、取り消しなどを決定することができた。

ブラックリスト

当時のラスベガス

委員長に任命された元FBIエージェントのレイ・アバティキオ・ジュニアは改革を始める。

まず彼はマフィアがカジノで豪遊し上客として持て囃されるのは許せないと考えた。

そこで、1960年2月20日、委員会は規則5.010を発行し“カジノ運営者は社会的に悪名高いまたは不快な評判の人と関わりを持つ、支援を受ける、雇用するなどした場合にゲームライセンスを失う可能性がある”とのルールを制定。

加えて“ブラックリスト”の制作に取りかかった。

対象はラスベガスに頻繁に滞在することが知られている組織犯罪メンバー。

このブラックリストに名前が乗るとネバダ州のカジノへの立ち入りを禁止されてしまうのだった。

暗黒街の紳士録

委員会は最初の11人のマフィアをリストアップした。

・サム・ジアンカーナ

・マレー・ハンフリーズ

・トニー・アッカルド

・マイアミのマイケル・コッポラ

・カンザスシティのギャング モーテル・グレゼ・ブレナシー

・カール・シヴェラ

・シヴェラ・ニコラス

・ロサンゼルスのボス、ルイス・トム・ドラグナ

・ドラグナ部下のジョセフ・シカ

・ジョンルイス・バッタリア。

・カリフォルニア州のロバート・ガルシア。

作られたブラックリストは簡易な作りのもので、各ページには写真、名前、説明、活動エリアが記されているだけだった。

雑な作りとは裏腹にブラックリストはさっそく効力を発揮し始めた。

標的となったドラグナ

2月7日、ラスベガスの保安官代理は、デザートインのスカイルームでドラグナとバッタリアを発見。

彼らは妻と共にダンスを楽しんでいただけなのだが、浮浪罪で逮捕され全国ニュースで晒されたのだった。

逮捕した警官はこう述べている。
「ラスベガスが地下世界のランデブーにならないようにするためにドラグナとバッタリアを拘留した」

警察は翌日二人を釈放した。

しかし警察は釈放後、すぐにバッタリアをスピード違反で逮捕し、“車が彼のものかわからない”として窃盗の疑いで再逮捕した。

明かされたメンバー

1960年3月29日、ブラックリストのコピーが13の主要なラスベガスのカジノに送付された。

委員会はリストの名前を秘密にしようとしたがマスコミに漏れ、リストに載ったメンバーは全国ニュースに晒された。

リストにはこう記されていたことも明らかとなった。

「ネバダ州のゲーム施設を訪れた際の悪評は、ゲーム業界だけでなく、州全体の信用を傷つける可能性がある。
ライセンス取消の可能性を回避するために…上記の個人および、その後リストに追加される可能性のある個人を含むすべての悪名高い、または不快な評判の人の侵入を防ぐために即時の協力が要求されます。」

広がる対象マフィア

ブラックリストにはゲーム業界にとって危険であると考えられる、あらゆる人物が追加されていった。

リストに載った人物はゲームエリア、ホテル、ショップ、ラウンジ、ショールーム、レストラン、スイミングプールなどの一切のカジノ施設に立ち入ることを禁じると明言され、これを聞いた多くのマフィアがラスベガスを後にした。

そんなブラックリストに異議を唱える者が現れた。

バッタリアとドラグナである。

弁護士を連れてラスベガスへと舞い戻った二人はブラックリストへの掲載をめぐって州を訴えるつもりだったのだ。

ドラグナはブラックリストの効力を否定すると明言し、サンズ、トロピカーナ、スターダストなど主要カジノでのライブショーを鑑賞した。

その間ずっと3人のエージェントが彼を追いかけ各カジノに警告を与えた。

しかし誰もドラグナを追い出す事は出来なかった。

一方ドラグナ達はこれに満足し、訴訟は起こさずにラスベガスを後にした。

カイファノとブラックリスト

委員会は新たにラスベガスに居住し、事業と不動産を所有していたカイファノに目を付けた。

彼は前述した通り、ガチガチのマフィアである。

やがて委員会はカイファノがカジノで王族のような待遇を受けている事を突き止めブラックリストにその名を加えた。

1963年、カジノが生き甲斐であるカイファノはネバダ州に対するブラックブックをめぐる訴訟を起こした。

裁判でカイファノはこう証言した。

「ブラックブックが1960年の初めに作られた後、私は常にどこでも委員会に見張られていた。
私たちはお互いをかなりよく知るようになりました。
彼らはゲーム業界の警官であり、警察であり、おそらくFBIでもありました。どこへ行っても同じでした。
彼らは人権を侵害している」

しかし裁判に破れたカイファノは町を離れることに同意した。

しかし彼はすぐにラスベガスへと舞い戻りブラックリストが本当に効力を発揮しているか試してみることにした。

カイファノは美女と共にトロピカーナホテル、デザートイン、フラミンゴ、ラストフロンティア、リビエラ、サハラ、サンズ、シルバースリッパーなどラスベガスのカジノをはしごし、その全てで温かい歓迎を受けたという。

カイファノの帰還は直ぐ様委員会の知るところとなる。

20人の委員会エージェントはカイファノが訪れたばかりのカジノに現れ事実を確認。

そして嫌がらせとしてカイファノが座った賭博場のテーブルやトランプ、サイコロを調べ押収してしまった。

どのカジノも従順と言うわけではなく、中には委員会エージェントと喧嘩になるカジノも。

さらに騒ぎを聞きつけたマスコミがラスベガスに殺到し大事件へと発展してゆく。

そんな騒ぎは意にも介さずカイファノは、友人のモー・ダリッツが運営するデザートインで忙しい夜を終えリラックスしていた。

やがて騒音に気がついたカイファノはデザートインのカントリークラブに行き、そこで委員会エージェントとホテルの従業員が“誰がカイファノを追い出すか”について争っているのを目撃した。

カイファノはその足で飲み物を求めてラウンジに行き、酒を注文したがウェイトレスにサービスを拒否されてしまった。

次にバーに行ったがウェイターは入店を拒否。

さらに警備員とホテルの幹部であるアラード・ローエンが現れカイファノに懇願した。

「彼らはカードとサイコロを押収しました。
そしてあなたが去らなければ免許を剥奪するという」

ショックを受けたカイファノは「君たちは困らせるつもりはなかったんだ」と話しカジノを後にした。

再びドラグナ

1960年後半、ブラックリストによって課された制裁が彼らの公民権を侵害したと主張してドラグナは訴訟を起こした。

さらにカイファノも同時期に訴訟を起こし「デザートインを去るように強制することは、合衆国憲法修正第14条の適正手続きと平等保護条項の下での彼の権利を侵害した」と主張した。

1960年12月、2つの訴訟に思わぬ味方が現れる。

ネバダ州司法長官が公式に声明を出したのである。
「ブラックリストについつ合憲であることを確認できるように私に確認すべきだった。
また、トランプを没収するなどの野蛮な圧力は許されるものではない」

この騒ぎにより委員長のアバティキオは解任、新たな委員長が選出された。

フランク・シナトラのカジノ

サムジアンカーナ

次に騒動が巻き起こったのはタホ湖だった。

歌手フランク・シナトラはマフィアのフロントマンとしてカジノ カルネバロッジを運営していた。

しかし委員会はブラックリストのメンバーであるサム・ジアンカーナがカルネバクラブに滞在しているとして、シナトラのゲームライセンスの取り消しを求めた。

これはブラックリストが原因でライセンスが剥奪された最初の事件となった。

弁護士や取締役会の関係者と話し合った後、シナトラはカルネバとラスベガスのサンズホテルの9%の権利を350万ドルで売却することを決定した。

裁判のその後

1966年、最高裁判所はカイファノの訴えを退けた。

ドラグナは“急に逮捕したお詫び”として100ドルの賠償金を得たがブラックリストから名前が消えることはなかった。

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