マフィアのアーティチョークキング
マフィアのアーティチョークキング
“アーティチョークキング”と呼ばれたチロ・テラノヴァ。
彼についてジョー・バラキは
「彼は傷心したまま亡くなりました。」と公聴会で語った。
彼の傷心の理由とはー!?
チロ・テラノヴァの生い立ち
1888年、テラノヴァはシチリア島に生まれ、その後アメリカに移住。
兄弟や周囲の影響を受けすぐにギャングの道を歩み始める。
強盗や暴行、殺人で幾度となく逮捕されながらも、テラノヴァはやがてマフィアの仲間入りを果たした。
そんなテラノヴァのメインの仕事はアーティチョークの密売。
アーティチョークとはヒマワリの仲間で、果物や野菜ではないそうです。
ニューヨークのイタリア街でアーティチョークはよく売れたそうで、テラノヴァは1925年から毎年100万ドルを稼いだと言われている。
テラノヴァはアーティチョークの販売で得た利益をギャンブルビジネスや密造酒ビジネスに投資。
巨万の富を産み出していった。
大豪邸に住み、移動は特別防弾仕様の高級車。
ラッキー・ルチアーノの友人としても知られていた。
マフィアの抗争
1931年、アメリカマフィアを二分したカステランマレーゼ戦争が勃発。
テラノヴァはマッセリアを支持したが、これに怒ったマランツァーノ派によりテラノヴァの甥が殺害されてしまう。
テラノヴァはマンラツァーノ殺害を心に誓ったが、実際にはそうはならなかった。
テラノヴァは私怨よりも将来の為に苦渋の決断を下す。
ラッキー・ルチアーノのクーデターに協力にマッセリア暗殺に手を貸す事にしたのだ。
運命の日
テラノヴァは殺し屋達を現場まで送り届けるドライバーの役を任された。
現場に到着したテラノヴァと殺し屋達はマッセリアを射殺。
殺し屋達は急ぎ車に戻ってきた。
そこでテラノヴァは緊張から手が震えてしまいハンドルを握ることが出来なくなってしまう。
殺し屋の一人、ベンジャミン・“バグジー”・シーゲルは業を煮やし、テラノヴァを無理やり運転席から避け、運転を変わった。
この大一番での失態はテラノヴァのプライドと評判を著しく落とすことになってしまったのだった。。
失意のテラノヴァ
この失態は尾を引き、ラッキー・ルチアーノを中心とした新政権が誕生した際にもテラノヴァの席は用意されなかった。
大きな役目を担ったにも関わらず、仲間らずれにされた屈辱はかなりのモノだったと思われる。
さらにテラノヴァのアーティチョーク事業は他のギャングに奪われてしまう。
それに呼応するかのように酒やギャンブルのアガリも減少していった。
最終的に収入源を全て失ったテラノヴァは高級マンションを退去し、田舎で慎ましく生きることに。
1938年2月、最後は脳卒中によりひっそりとこの世を去った。
「あの時運転出来ていれば。。」と思い長ら亡くなったことは想像に難くない。