ラスベガスの歴史

ラスベガスの歴史

開発が進む以前のラスベガスは鉄道労働者やカウボーイが賭博を楽しむ場所だった。

ネバダ州議会は1909年にギャンブルを禁止することを決議、1910年9月30日に施行した。

この措置によりギャンブルビジネスは衰退、合わせて再合法化を求める活動が活発化した。

1913年、ネバダ州議会は規制を緩和し、“景品が飲み物と葉巻、または2ドルを超えない価値の賞品の場合は許可する”と定めた。

しかしギャンブラーにはあまりに物足りない内容であり、カジノの売り上げは下降の一途を辿ってゆく。。

カードゲーム

1915年、当時主流だったスロットマシンに代わりカードゲームが流行り始めると州議会は再び法改正を行った。

しかしこの際には大きな改正は行われず改めて“景品は2ドルまで”というルールが再確認され、“違反した業者は重罪に問われる”と付け加えられた。

つまりほとんどのカードゲームは違法とされたのである。

施行

1919年1月、ネバダ州司法長官は、スロットマシンの使用を禁止すると発表した。

司法長官はの主張はこうである。

「ネバダではギャンブルは合法だが宝くじは違法である。
そしてスロットマシンは宝くじと同類と思う」

当然、この方針にはギャンブル業者から多くの非難が巻き起こった。

1919年7月、ネバダ州は救済措置としていくつかのカードゲームを合法とする事を決める。

しかし1919年10月、ネバダ州最高裁判所は意見を覆し、スロットは合法であるとの判決を下した。

州高等裁判所の判決は、次のように述べている。
「スロットマシンはギャンブルです。
プレイヤーは頭を駆使して葉巻や飲み物を手に入れるために頑張っています。
ただし。。ギャンブル業者は“偶然にも”全てのスロットマシンを失くしてしまうのではないだろうか」

つまりこの段階では違法としないから今のうちに処分しなさい、という訳だった。

こうしたゴタゴタが続きつつも、ラスベガスのギャンブルは非常にグレーなものとして存在し続けて行くのだった。

禁酒法時代

1918年11月、連邦法に先立ちネバダ州はアルコールの販売を禁止することを決議した。

当然これにより、税収は激減。

困り果てたラスベガスは打開措置として“今後合法になるであろうギャンブルは合法”という、かなりいい加減なルールを定める。

これによりカジノではギリギリ合法なギャンブルが横行するようになった。

八百長

1920年頃からイカサマカードやるカジノがあるという告発が多発し始めた。

郡地方検事の報告によるとアルメニア人の客が250ドルを奪われ、メキシコ人の客が300ドルを奪われたという。

さっそく調査が開始され、押収されたカードから7以上のカードには目印がつけられている事が発覚した。

1920年7月11日、警察は初となるカジノへのおとり捜査を決行。

その結果、警察官に八百長を仕掛けた何人かが起訴され、ラスベガスで八百長を仕掛けるカジノは激減した。

こうしてラスベガスはクリーンになったものの、その後長きにわたり多くのゲーム、例えばクラップスやルーレットは違法であり1931年にやっと合法化されるのだった。

また当時、ラスベガスにはフリーモントストリートのラスベガスホテル、ファーストストリートのコロラドホテル、メインストリートのユニオンホテルの三つしかなく、現在とは程遠い状況だった。

砂漠の街が大都会へと発展するのはバグジー・シーゲルが現れてからの話である。

ロマンを追ったマフィアたちへ続く

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