三分で学ぶ ジョン・ゴッティ
三分で学ぶ ジョン・ゴッティ
目次
今回は「最後の映画向きなドン」と言われるジョン・ゴッティを紹介。
その呼び名の通りマフィア至上最後の映画化されたマフィアだと思われます。
良くも悪くも派手好きなゴッティの生涯とは?
ジョン・ゴッティの生い立ち
ジョン・ゴッティことジョン・ジョセフ・ゴッティ・ジュニアは1940年10月27日ニューヨークに産まれた。
13人兄弟の五番目で、他の兄弟建ちと共にマフィアの道へと進むことになる。
父は日雇い労働者として働いていて、ゴッティはそれに対して「なぜ稼げないんだ、なんて惨めなんだ」と幼心に思っていた。
アルバート・アナスタシア
そんなゴッティが憧れたのはマフィア達。
特にアルバート・アナスタシアを尊敬していたという。
12歳頃から不良としてマフィアの使い走りを初め、マフィアになる日を夢見ていた。
14歳のとき、ゴッティは建設現場で盗みを働こうとして誤って足を潰してしまう。車に挟まれた足は回復せず、生涯足を引きずることとなつた。
学校には真面目に通わず問題ばかりを起こし、16歳で高校を中退。
本格的にマフィア稼業に専念し始め、その過程でアンジェロ・ルッジェーロとウィルフレッド ・ジョンソンと出会う。
この二人とは生涯を通して親友だった。
ちなみにアルバート・アナスタシアが暗殺されるのは1957年。
ゴッティが17歳の時までアナスタシアは健在で、割りと身近にいる憧れの存在だったのだのだ。
私生活
22歳の時、ビクトリア・ディジョルジオと結婚。
ビクトリアはバツイチだったが、二人は子宝に恵まれ五人の子供を授かり幸せに暮らした。
グッドフェローズとゴッティ
映画「グッドフェローズ」で描かれた空港からの強奪やトラックのハイジャックなど。
ヘンリー・ヒル達が活動していた同時期にゴッティもケネディ空港からの強奪に勤しんでいた。
強奪チームはゴッティ、兄のジーン、ルッジェーロの三人。
彼らは多くの稼ぎをあげ名を馳せて行く。
ゴッティは‘’ブラック・ジョン‘’、‘’クレイジー・ホース‘’とあだ名されるように。
そしてそんなゴッティに目を付けたのが、ガンビーノファミリーのアンダーボスだったアニエロ・デラクローチェだった。
デラクローチェはファミリーの荒っぽいマフィア達を取りまとめていた人物。
彼は若く無鉄砲なゴッティの師匠となり、彼に様々な教えを授けることに決めた。
ちなみにヘンリー・ヒル達が殺害するビリー・バッツはゴッティの部下である。
トミー殺害はゴッティが報復として指示したものだった。
また、ゴッティはルフトハンザ強奪にも関与したと言われている。
強奪と服役
28歳にして大金を稼ぐようになったゴッティだったが窃盗の罪で逮捕されてしまう。
その2ヶ月後、保釈中に再び窃盗で逮捕され刑務所に送られた。
四年後、仮釈放されたゴッティはすぐにマフィア稼業へ復帰し、これまでの働きを認められいくつかのビジネスを任される事になった。
この頃のマフィア界はカルロ・ガンビーノの呼び掛けにより新規のメンバーを増やすことを禁止されていた。
その為、ゴッティは正規のマフィアには慣れなかったものの、ファミリーから‘‘カポ相当の人物’’と認定され、大物の仲間入りを果たした。
出世の道
1973年、ボスのカルロ・ガンビーノの甥であるエマニュエル・ガンビーノが誘拐、殺害されるという事件が勃発した。
ガンビーノはこの件の後始末をゴッティに託すことに。
ゴッティは犯人と思われるギャングを捜索し、とあるバーにいる事を突き止める。
ゴッティ、ルッジェーロとラルフ・ガリオーネは三人でバーへと乗り込み犯人を射殺したのだが、あまりにあっさりと殺したのでカルロ・ガンビーノは満足しなかったという。
1974年6月、この殺害でゴッティは逮捕。しかし司法取引によりなんとか刑期を短くする事ができた。
揺れ動くガンビーノファミリー
1976年、一つの時代が終わろうとしていた。
長年ファミリーを率いていたカルロ・ガンビーノは死期が近いことを覚り、誰にファミリーを託すかを思案していた。
候補の一人はゴッティの師匠 アニエロ・デラクローチェ。
デラクローチェはファミリーの‘‘ブルーカラー層’’に慕われており、誠実な男だった。
基本の流れから言ってもアンダーボスのデラクローチェが繰り上げるのが自然である。
もう一人の候補はポール・カステラーノ。
彼はカルロガンビーノのいとこで、ファミリーの‘‘ホワイトカラー層’’に慕われていた。
人望はあまりないものの、ファミリーをより知能的な犯罪で潤わせるのではと思われた。
結局ガンビーノはカステラーノをボスに指名する。
この選択はガンビーノの人生で唯一の失敗だった。。
対してデラクローチェはこの時服役中で意義を申し出ることも出来ず、成り行きを見守るに止まった。
デラクローチェ派のゴッティ
1977年7月、ゴッティは出所と共に正式なマフィアの幹部に任命された。
ガンビーノファミリーはデラクローチェ派とカステラーノ派に二分されていて、ゴッティはもちろんデラクローチェを支持した。
しかしデラクローチェ自身は「争いを起こすな」と部下に口を酸っぱくして、いつも話していたという。
カポとなったゴッティはヤミ金や建設業、強奪などを取り仕切りデラクローチェに大金を納めるように。
1978年12月にはルフトハンザ強奪事件にも関与している。
ゴッティの役目は犯行に使ったバンを始末すること。
映画で描かれたようにスタックス・エドワードが車を放置して女と耽ったためゴッティの出番はなかった。
エドワードは映画と同じように口封じされました。
ゴッティは出世した後も、基本的には荒っぽい部類のマフィアで、駐車場で堅気の男と喧嘩をして逮捕されたり、息子をひき殺した男をバラバラにしたりとエピソードには事欠かなかった。
カステラーノvsゴッティ
早い段階でゴッティはカステラーノ政権に不満を抱くようになった。
カステラーノについての不満は
・高い上納金の請求
・二枚舌でケチ
・デラクローチェを軽んじている
など。
やがてゴッティはカステラーノの麻薬禁止令を破り、麻薬ビジネスに手を出し始めた。
1983年8月、FBIはジーン・ゴッティとルッジェーロの会話の録音に成功。
テープには麻薬ビジネスについての会話とカステラーノの悪口が録音されていた。
カステラーノは二人に証拠となったテープを聴かせるように頼んだ。
もし内容が知れたらゴッティとジーン、ルッジェーロが始末される事は明白である。
ルッジェーロはゴッティに迷惑をかけないようにとテープの提出を拒んだが、カステラーノは「テープを渡さないとゴッティを降格させる」と脅迫した。
ゴッティの反撃
1984年、カステラーノは部下ロイ・デメイオの失敗から起訴されてしまう。
カステラーノは終身刑の可能性が高まってきたことから、部下をフロントボスに任命し自身はファミリーと距離を置くことに。
これを好機と見たゴッティとデラクローチェは、カステラーノを追い落とすべくファミリー内に根回しを始める。
この時ゴッティが抱き込んだ中にはカポのフランク・デチッコとその部下 サミー・グラヴァーノがいた。
加えて重要だったのは古株のジョセフ・アルモーネとコンシリエーレのジョセフ・ガロを抱き込んだこと。
ガロとアルモーネはファミリー内の人望も厚く、有能なマフィアだった。
しかし計画の途中である1985年12月2日、アニエロ・デラクローチェがガンにより死去。
ゴッティは師匠のアドバイスを得られなくなってしまった。
ポールカステラーノ暗殺
「ポールカステラーノがステーキハウス
で会合を開くらしい。しかもそこでゴッティを排除すると発表するとか」
この情報を得たゴッティは直ぐ様ヒットマンを手配、先手を打つことに決めた。
1985年12月16日、ステーキハウスに現れたカステラーノはヒットマンにより射殺された。
この様子をゴッティは通りの向かいから監視していた。
この暗殺はマスコミ、マフィア界に大きな衝撃をもたらすこととなった。。
ゴッティ政権誕生
カステラーノ暗殺から数日のうちにゴッティは他のファミリーに対して「この事件は我々が解決するから手出し無用である」と発表。
続いてカポから三人を選び彼らに次期ボスを選ぶ選挙を仕切らせることにした。
1986年1月15日、選挙では満場一致でゴッティがボスに選ばれた。
誰もがゴッティが犯人だと覚っていたが、口を出す命知らずはいなかったのだ。
続いてゴッティはコンシリエーレをガロに、アンダーボスにはデチッコを任命するなど万事順調に事を進めた。
しかしマフィア界には「コミッションの決定がある時のみボスを殺せる」との不律文がある。
ゴッティはファミリーを上手く黙らせたが、この殺しはマフィア界を根底から覆す野蛮な行為と捉えたものもいた。。
忍び寄る魔の手
1986年4月13日、コンシリエーレとなったデチッコの車が爆破された。
爆弾はゴッティを狙ったものだったが、犯人は誤ってデチッコを爆殺したのだった。
調査の結果、犯人はルッケーゼファミリーのメンバーで、ボスのアンソニー・コラーロの命令で行ったと判明。
そしてその裏ではジェノベーゼファミリーのボス ヴィンセント・ジガンテが糸を引いていた。
この事件以後、五大ファミリー間には緊張状態が続くこととなる。
ゴッティは報復は行わず、次のアンダーボスにアルモーネを選出するだけに止まった。
テフロンドンとFBI
ボスとなったゴッティは巧みな運営手腕でファミリーの勢力を拡大していった。
ゴッティはいつも洒落たスーツを着て街を練り歩き、マスコミに手を降るなどとにかく権力を誇示するようになり“粋なドン”とあだ名された。
また、FBIはゴッティに的を絞り何度も起訴したが、ゴッティを有罪にするには至らなかったことから‘‘傷つかないドン’’ともあだ名されるようになった。
サミー・グラヴァーノ
1987年、アンダーボスのガロが引退を申し出た。
ゴッティはそれを許可、代わりに爆殺されたデチッコの部下サミー・グラヴァーノを昇進させた。
立て続けに今度はコンシリエーレのアルモーネが投獄され、代理にフランク・ロカシーオを指名。
組織図が大きく変わることとなった。
この改革の間にグラヴァーノはコンシリエーレ補佐やアンダーボス補佐も勤めました。
アンダーボスとなったグラヴァーノはゴッティに目立たぬよう助言したが、ゴッティは聞き入れず、週に一度カポはボスに面会するなどのルールを制定。
その結果、FBIは用意に組織図を知ることができた。
久しぶりの全国会議
FBIは他のファミリーがゴッティを狙っているという情報を聞きつけ、ゴッティに警告を行った。
1988年後、ゴッティ、ジガンテ、ルッケーゼファミリーの新たなボス ビクター・アムーソの三人は問題を解決するべく、コミッションを開いた。
本来は五つのファミリーで構成されるコミッションですが、この時は三人でした。
話し合いの末、無用な流血は避ける。という結論に至った。
百年続くゴッティ帝国
1990年12月11日、FBIはガンビーノファミリーのアジトを急襲。
ゴッティ、グラヴァーノ、ロカシーオを逮捕した。
ゴッティはいつも裁判で勝ってきたが今回はかなり不利な証拠が揃っていた。
ゴッティが週に一度義務づけたカポとの面会は盗聴されていたのだ。
ゴッティは殺人、詐欺、陪審員の買収、脱税などで起訴された。
さらにテープにはゴッティがグラヴァーノの悪口を言うシーンも含まれていた。
これを聴いたグラヴァーノは激怒し政府の証人になってしまう。
「俺がいる限りコーザ・ノストラは続く。一時間後も、今晩も100年後も」
ゴッティはこうスピーチをしたことがある。
だがゴッティの100年帝国は5年で壊滅することになってしまった。。
ゴッティの刑務所暮らし
1992年6月23日、ゴッティに終身刑が下る。
ゴッティは収監後も刑務所の中から兄のピーターに伝言しファミリーの指揮を取り続けた。
1996年7月18日には他の囚人に殴られた腹いせに、ギャングに金を払い報復させようとする。
さらに服役中のロカシーオの殺害も依頼したが、どちらも実行はされずじまいだった。
その後は息子のジョン・ジュニア、兄のピーターが組織を指揮したと言われている。
ジュニアは1999年の逮捕を機に引退、その後はピーターが組織で大きな影響力を持っていた。
1998年、ゴッティは咽頭癌と診断を受ける。
治療に専念したものの、2002年6月10日に61歳で死亡した。
ガンビーノファミリーはカルロ・ガンビーノの時代に勢力を伸ばし、ゴッティの時代に衰えたと言われている。
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