三分で学ぶ カルロガンビーノ

三分で学ぶカルロ・ガンビーノ

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今回は、最後のゴッドファーザーと呼ばれたカルロ・ガンビーノを紹介!

とにかく狡猾で切れ者なんです

カルロ・ガンビーノ

ガンビーノの生い立ち

1902年8月24日、カルロ・ガンビーノはイタリアのシチリア島パレルモに誕生した。

家族の多くはマフィアだったがガンビーノは犯罪とは無縁の生活を送る。

1921年12月23日、ガンビーノはアメリカへ密入国を果たす。

アメリカへの道のりは過酷なもので乗っていた船は何度も転覆しかけた。

その後、ガンビーノはニューヨークに定住し、叔父が経営していた肉の配送会社で真面目に働き始めた。

カルロ・ガンビーノ

しかし禁止法時代が始まるとガンビーノは一攫千金を夢みて酒の密造を始める。

ラッキー・ルチアーノとはその頃知り合い友人になった。

1930年、ガンビーノはマサチューセッツ州ローレンスで不審者として逮捕されてしまう。

罰金のみで釈放されたもののガンビーノの初の逮捕歴となったのだった。

私生活では1932年にいとこのポールカステラーノの妹であるキャサリン・カステラーノと結婚し、4人の子宝に恵まれた。

戦争後

カルロ・ガンビーノ

やがてジョー・マッセリとサルヴァトーレ・マランツァーノが争ったカステランマレーゼ戦争が勃発

最終的に両者が死亡しラッキー・ルチアーノがマフィア界を再編するとガンビーノはマンガーノファミリーに配属された。

ラッキー・ルチアーノが国外追放されると、フランク・コステロvsヴィト・ジェノベーゼ戦争が勃発。

マンガーノのファミリーのボス フィリップ・マンガーノがアンダーボスでコステロ派のアルバート・アナスタシアに殺害される事件が発生する。

これによりマンガーノファミリーはアナスタシアに乗っ取られることに。

当時ガンビーノは臆病な男と思われており、アナスタシアは扱いやすさの面からガンビーノをアンダーボスに出世させた。

この頃の逸話として、ガンビーノはアナスタシアに殴られてもヘラヘラするのみで、腰の低い臆病者だった、と伝えられている。

しかしガンビーノは燃えるような野心を隠し持っていた。。

ガンビーノの策略

ガンビーノはアナスタシア(コステロ派)と敵対するヴィト・ジェノベーゼに取り入った。

1957年10月25日、ガンビーノはジェノベーゼの後援を得てアナスタシアを殺害。

ファミリーの名称をガンビーノファミリーへと変更した。

ちなみにアンダーボスにはジョセフ・ビオンドが任命され、後にアニエロ・デラクローチェに交代した。

アパラチン会議

続いてガンビーノは最大のライバルになるであろうジェノベーゼを追い落としにかかる。

ガンビーノは引退を表明したフランク・コステロ、マイヤー・ランスキー、シカゴのサム・ジアンカーナと手を組み“アパラチン会議事件”を仕組んだ。

アパラチン会議とはマフィアの全国会議のひとつで、ジェノベーゼはその場で自身が“ボスの中のボス”の座に就くと宣言しようとしていた。

しかし会議はガンビーノ達の密告により警察に摘発され、主催したジェノベーゼの名声は地に落ちた。

また、ガンビーノはアパラチン会議でジェノベーゼに「ガンビーノは正式にボスの一人だ」と発表させ、摘発の際には消えていた。

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なんとも上手い立ち回りです。

次にガンビーノはルチアーノと共謀し、プエルトリコの麻薬の売人に10万ドルを支払い、ジェノベーゼと麻薬取引をしたと密告させた。

1959年4月17日、ジェノベーゼは麻薬密売で15年の刑を宣告された。

栄光の時代

公聴会で掲示された組織図

1960年代はガンビーノにとってもマフィアにとっても栄光の時代だった。

ルチアーノ、コステロ、ジェノベーゼと有力なボスが消えた後、ガンビーノはマフィア界のトップに躍り出た。

ガンビーノはコミッション(マフィアの議会)を掌握。

ファミリーのメンバー数も全国最多の1000人以上に膨れ上がった。

1962年、カルロ・ガンビーノの長男であるトーマス・ガンビーノは、トミー・ルッケーゼの娘フランシスと結婚した。

ルッケーゼファミリーのボス トーマス・ルッケーゼは親愛の知るしとしてケネディ空港の上がりを献上。

強固に結ばれたガンビーノ-ルッケーゼ同盟はニューヨークの大部分を支払するまでになった。

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ケネディ空港でのビジネスは映画「グッドフェローズ」でも描かれています。

右から二番目カルロ・ガンビーノ、4番目はフランク・シナトラ

さらにスーパーへの卸売業や建設業など合法的なビジネス面でも次々と勢力を拡大。

一文無しで命かながら密入国をしたガンビーノは押しも押されもせぬ最強のドンとして君臨したのだった。。

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リスの様な弱虫と罵られ、殴られていましたが、最後に勝ったのはガンビーノでした。

さらなる戦い

1963年、旧コステロ派でボナンノファミリーのボス ジョゼフ・ボナンノとプロファチファミリーのボス ジョゼフ・マリオッコは敵対するファミリーのボスを皆殺しにする計画を建てた。

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ボナンノはゴッドファーザーのヴィト・コルレオーネのモデルであり、この作戦は映画ラストのモデルになっています。

しかし、ガンビーノ殺害を担当するはずだったマリオッコの部下 ジョー・コロンボがガンビーノに告発。作戦は頓挫した。

マリオッコはコミッションに呼び出され、全てを白状した。

ガンビーノはマリオッコに罰金5000ドルと引退を命じ、後がまにはコロンボを据えた。

一方ボナンノは行方をくらまし戦いを続行。
ガンビーノもボナンノファミリーを切り崩し、身内で争わせることで反撃した。

最終的にボナンノは話し合いの末引退。

もはやマフィア界にガンビーノの敵はいなくなったのだった。。

その後のガンビーノ

カルロ・ガンビーノ

1953年、移民帰化局はガンビーノの強制送還を目論んでいた。

対するガンビーノは体調不良を理由にのらりくらりの逃れ続ける。

1970年、遂にガンビーノの強制送還が決定しまう。
しかしガンビーノは心臓発作で倒れ難を逃れたのだった。。

倒れたカルロ・ガンビーノ

1971年6月28日、ジョー・コロンボが撃たれ植物状態に陥った。

この黒幕もガンビーノ。

コロンボは何かと目立ちたがる性格で、コミッションはそれを疎ましく思っていた。

そこでガンビーノはコロンボと敵対するクレイジー・ジョーをけしかけ暗殺させたのだった。

カルロ・ガンビーノ

1962年1月26日、旧友のルチアーノが追放先のナポリで死去した。

これについては暗殺説も根強いが、少なくともガンビーノは無関係だった。

アメリカ政府の許可の元、ルチアーノはニューヨークで埋葬されることに。

ガンビーノはルチアーノの埋葬に立ち会った数少ないマフィアの一人だった。

ガンビーノの最期

年老いたガンビーノは死後の事を憂いていた。

時代は変わり、若いマフィアはルールを守らず、敬意を払わない。

ガンビーノはマフィアはやがて滅ぶと預言し“新規メンバーの採用を行わない”などの措置をとった。

この預言は正しく、ガンビーノファミリーはこの後、急速に衰退してゆく。。

1976年10月14日、自宅で野球の試合を観戦したガンビーノは床に入るとそののままこの世を去った。

死因はやはり心臓発作だった。

最期のゴッドファーザーと呼ばれたガンビーノの葬式にはマフィアやFBIが詰めかけた。

遺体は13のリムジンを引き連れた霊柩車で墓地まで向かい、その様子はさながらパレードのようだった。

余談

カルロガンビーノ

ある日、殺し屋が老いたガンビーノを舐めきって罵倒した。

ガンビーノは黙って聞いていたが、翌日殺し屋の遺体が通りに転がっていた。

ガンビーノは何事にも動じず、対処する男だったのだ。

趣味は果物市場での買い物。
映画 「ゴッドファーザー」で、ヴィト・コルレオーネが果物を買うシーンは、ガンビーノがモデルとなっているという説もある。

またガンビーノはゴッドファーザーの撮影現場を覗いた際に、服装についてあれこれダメ出しをしたと言われている。

関連記事:最後のゴッドファーザーの予言

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ガンビーノと映画ゴッドファーザーのエピソードはこちらに色々と!

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