三分で詳しく学ぶ! フランク・コステロ

三分で詳しく学ぶ!フランク・コステロ

今回は以前配信した「三分で学ぶフランクコステロ」よりも詳しく、彼の人生を解説していきます。

フランクコステロ

コステロは映画「ゴッドファーザー」のヴィト・コルレオーネのモデルにもなったマフィア。

紳士的な振る舞いとしゃがれ声で知られたコステロの生涯とはー!?

フランクコステロの生い立ち

1891年1月26日、コステロはイタリアのカラブリア地方で誕生した。

当時の名前はフランチェスコ・カスティリア。

四歳の時に母と弟と共に海路でニューヨークへと渡ったが。

コステロ家族はかなり貧しかったので船はボロボロ、命がけの航海だった。

ニューヨークでは先に移住していた父が食料品店をオープンしており、家族は一緒に暮らし始めた。

少年ギャング

フランクコステロ

コステロは13歳の時に学校を退学した。

その後は、工場や輸送船で働いたものの重労働に耐えかねて退職。

多くのマフィアと同じように、コステロも貧困から脱するためにギャングの道へ進み始める。

15歳の時にストリートギャングに加入、やがてジュゼッペ・モレロというマフィアの部下になった。

この頃から‘’フランク・コステロ‘’と名乗り始めたという。

その後は窃盗や暴行の罪で17歳、21歳、26歳の時に服役した。

27歳には結婚を果たすも、武器の所持により新婚早々刑務所へ送られた。

ラッキールチアーノ

フランクコステロはビジネスを通して、ギャングのチャーリー‘‘ラッキー’’ルチアーノと出会った

彼らはすぐに意気投合し友人に。

当時のマフィア、ギャングは同じイタリア系でも出身地ごとに派閥が出来ていた。

その為、シチリア出身のルチアーノとカラブリア出身のコステロの友情はかなり珍しいものだった。

そしてコステロは、ルチアーノの友人マイヤー・ランスキーとバグジー・シーゲルとも知り合う。

二人はユダヤ人で二人はイタリア人。 この四人のパートナーシップは異例中の異例だった。

禁酒法時代

禁酒法時代が始まると、四人はアーノルド・ロススタインの支援を受けて、酒密売ビジネスに参入。

他のギャングが安っぽい密造酒を売る一方、四人はカナダ直輸入の高級品を売ることで財産を築いた。

この時代は他にも後の大物となる若手が活躍していた。

ヴィト・ジェノベーゼ

トミー・ルッケーゼ

ルイス・バカルター

この三人はコステロと同じチームとして働くことに。

ブロンクスの王として名を馳せていたダッチ・シュルツとは、五分の同盟を結ぶことになった。

ビール戦争

フランクコステロ

1926年11月19日、コステロとウィリアム・ドワイヤーというギャングは酒密輸容疑で起訴された。

具体的には、酒の荷降ろしがスムーズに行くようにと沿岸警備隊に賄賂を贈った事で起訴されていた。

翌年、常習犯のドワイヤーには懲役刑が。
コステロは無罪放免となった。

ドワイヤーの後を引き継いだチャールズ・ヒギンズは他の密輸業者の排除に乗り出す。

こうしてコステロとヒギンズの‘‘ビール戦争’’が勃発した。

コステロ側にはダッチ・シュルツとオウニー・マドュンが味方して大規模な抗争を繰り広げた。

こうした背景があり1929年5月にアトランティックシティ会議が開催され、酒密売業者達は争いを辞めることを誓い合った。

会議のホストはイーノック・ジョンソンが。議長はジョニー・トーリオが勤めた。

カステランマレーゼ戦争の後

カステランマレーゼ戦争の後マフィア界が再編されると、コステロはルチアーノファミリーのコンシリエーレの職に就いた。

主に手掛けたのはスロットマシン事業。

バーやレストラン、ガソリンスタンドなどあらゆる店にスロットマシンを設置させた。

これは定期的に金を回収する以外の手間もなく莫大な利益をもたらした。

もう一つ精力的に行ったのが、政治家の買収。

次第に政治的な力を強めたコステロは‘‘暗黒街の首相’’と呼ばれるように。

しかし、1934年にはコステロのスロットマシン事業は大規模な摘発に合ってしまう。

スロットマシンのほとんどは川に投げ捨てられ、コステロは事業の拠点をニューヨークからルイジアナへと移すことにした。

ルチアーノファミリー

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1936年にボスのルチアーノが服役すると、アンダーボスのヴィト・ジェノベーゼが代理ボスに。

しかしジェノベーゼは警察から逃亡する為にイタリアへ渡ったためコステロに代理ボスの座が回ってきた。

コステロはランスキーと共に組織を円滑に運営していった。

コステロは事実上マフィア全体を指揮する立場にまで出世し、ニューヨークのニューヨークのマフィアは勿論、シカゴのマフィアや政治家からも信頼されていた。

コステロの私生活

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私生活では妻と家で過ごしたり、釣りを楽しむことが多かった。

その他の面でもボスらしくない振る舞いが多い。

ボスの立場でありながら公共交通機関やタクシーを使っての移動がほとんど。

ボディーガードを付けることもなかった。

その一方、誰よりも服装や振る舞いに気を使っていて、とてもマフィアには見えなかったという。

ちなみに趣味は動物園に行くことだった。

キーフォーヴァー委員会

1950年5月から始まったキーフォーヴァー公聴会はコステロを召喚。

これでもかと言うほど尋問を行った。

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その模様はテレビでも配信され、マーロンブランドはそれを演技の参考にしたそうです。

「今まであなたはアメリカ人として、何か世の中に貢献してきましたか?」と聴かれ、「税金を払いました」と答えたエピソードはこの公聴会で産まれた。

キーフォーヴァー委員会とコステロの法的な争いは次第に加熱。

コステロは数えきれないほど刑務所と裁判所を行ききする羽目になった。

波乱のマフィア界

キーフォーヴァー公聴会の少し前の1946年。

イタリアへと渡っていたヴィト・ジェノベーゼがアメリカへと帰国した。

ジェノベーゼはコステロにボスの座を奪われたと感じ激怒。
コステロの抹殺を誓う。

これによりカステランマレーゼ戦争以来、平和だったマフィア界に波乱が訪れるのだった。。

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