三分で学ぶ! ダッチ・シュル

三分で学ぶ!マフィア暗黒史 ダッチ・シュル編

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今回は向こう見ずなマフィア ダッチ・シュルをご紹介していきます。

ダッチ・シュルツの生い立ち

ダッチ・シュルツことアーサー・フレーゲンハイマーは、1901年8月6日にユダヤ系ドイツ人の両親の元に産まれる。

父親が他界してしまうと、15歳の頃から働きに出たシュルツはやがてトラック強奪や違法賭博に手を出し始めた。

18歳のダッチ・シュルツ

若きダッチシュルツ

青年へと成長したシュルツは怖いもの知らずのギャングとなってゆく。

特に向こう見ずだったのは違法賭博場を襲い、金を奪うというビジネス。

敵を作ってしまったうえに、逮捕され刑務所へ送られてしまった。

一度は脱獄したものの、再び逮捕。

結局、1920年12月8日まで刑務所で過ごすこととなった。

禁酒法時代のダッチシュルツ

出所したシュルツは、スピークイージーの警備員として働き始める。

やがてスピークイージーのオーナーに、その凶暴さを認められ、出世の道を歩み始めた。

ある時シュルツに対抗する、ジョンとロックという兄弟ギャングが現れた。

ある夜、シュルツはジョンを誘拐し、袋叩きに。

それから肉フックに吊り下げ、さらに淋病による膿を塗った包帯で目を覆った。

仲間が身代金を支払いジョンは解放されたが、その後、失明した。

この事件は、〝ダッチ・シュルツはとにかくヤバいヤツ〟という噂を広めることとなった。

ダッチシュルツ

ブロンクスの王はダッチ・シュルツ

イタリアマフィアによる五大ファミリーが制定された後も、ダッチ・シュルツは押しも押されもせぬギャングのボスとして、ブロンクスを支配し続けた。

やがて縄張りの拡大に乗り出したダッチ・シュルツは、アイリッシュギャングのボス レッグス・ダイアモンドと激しい戦争を始める。

レッグスダイアモンド

レッグス・ダイアモンドは〝暗黒街の動く標的〟と呼ばれた男で、幾度となるマシンガンの雨をかいくぐった武闘派。

ちなみにダイアモンドの本名はジョン・ノーランといい、逃げ足の速さから〝レッグス〟と呼ばれるようになりました。

レッグス・ダイアモンドはアーノルド・ロススタインの配下に入っており(資金提供を受けていた)、ロススタイン暗殺は、シュルツの仕業という説も。

とは言えダッチ・シュルツはレッグス・ダイアモンド以上に凶暴な男だった。

結局、レッグス・ダイアモンドはニューヨークから撤退し、シュルツはより名声を高めた。

ヴィンセント・〝マッドドック〟・コール

次に現れたシュルツの敵は身内だった。

部下のヴィンセント・コールは〝狂犬〟とあだ名されるほどの凶悪な殺し屋。

ヴィンセントマッドドックコール

コールは、シュルツを殺害し組織を引き継ごうと計画する。

しかしシュルツが先手を打ち、コールは蜂の巣にされた。

ちなみにマッドドックコールは、サルヴァトーレ・マランツァーノがルチアーノやコステロの暗殺を依頼した殺し屋。

エルズワース“バンピー”・ジョンソンとの抗争

禁酒法が終わると〝ビール男爵〟とも呼ばれたダッチ・シュルツは新たな収入源を求め、ハーレムへ侵攻。

関連記事:ダッチシュルツの地下道

目当ては〝ナンバーズ賭博〟(ロトシックスのようなもの)

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ちなみにナンバーズ賭博を考案したのはマイヤーランスキーと言われています。

シュルツの部下には数字にめっぽう強いオットー・バーマンという者がおり、彼がナンバーズの当選金を抑え、より多くの収益を産むように細工を施していました。

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ちなみにバーマンは「ビリーバスゲイト」にも登場しています。

特にナンバーズ賭博は黒人街で流行っており、シュルツはその上がりを狙っていた。

そんな訳で繰り広げられた、黒人ギャングのボス エルズワース“バンピー”・ジョンソンとダッチシュルツの抗争は「奴等に深き眠りを」で描かれています。

バンピージョンソン

ちなみに史実でははっきりとした決着はつきませんでした。。

トーマス・デューイの追及

1930年代初頭、マフィア撲滅に燃える検察官のトーマス・デューイは、ダッチ・シュルツに目をつけた。

デューイはありとあらゆる手を使い、シュルツを脱税で起訴しようとする。

対してシュルツは陪審員の買収で対抗、しかしデューイも決して諦めない。

しかしシュルツは決着を付ける方法を思い付いた。。

ラッキールチアーノとシュルツ

シュルツはコミッション(マフィアの全国会議)で、トーマス・デューイを処刑する許可を求めた。

しかし裏ではコミッションのメンバーは、シュルツが逮捕された暁には、シュルツの縄張りを分配する取り決めをしていた。

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シュルツは日頃の横暴な行いから嫌われていたのです。。

さらにトーマス・デューイの殺害は、世間の反感を招き、マフィア摘発を加速させる恐れも。

コミッション内でも意見が別れ、6時間に及ぶ話し合いが行われた。

そしてコミッションは殺人株式会社へ〝これ以上、騒ぎが大きくなる前にダッチ・シュルツを殺害しろ〟と指令を出した。

ダッチシュルツ

ダッチシュルツの最期

1935年10月23日。

部下とレストランで食事をしていたシュルツを二人の殺し屋達が襲った。

殺し屋は、シュルツをトイレで銃撃した。

駆けつけたシュルツのボディーガード、二人は首を撃たれたものの、立ち上がり反撃。

殺し屋達は逃走したが、既にシュルツと部下達は重症を負っていた。

シュルツはフラフラと立ち上がりトイレからテーブル席まで歩き、座ってから意識を失った。

撃たれたダッチシュルツ
ダッチシュルツ

やがて救急車が到着しシュルツ達を病院に運び込んだが、助からなかった。。

シュルツは死ぬまでの48時間、病院のベッドでうわ言を呟いており、これが走馬灯発見の瞬間とも言われている。。

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