三分で学ぶ バンピージョンソン

三分で学ぶ バンピージョンソン

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今回はフランク・ルーカスの師匠 バンピー・ジョンソンを紹介します。

バンピージョンソンの生い立ち

1905年10月31日、サウスカロライナ州でバンピーは誕生した。

本名はエドワース・レイモンド・ジョンソン。

バンピーとは『デコボコ』の意味で、彼の後頭部に突起が合ったことからあだ名されたという。

成長に連れ、バンピーは白人を激しく憎むようになった。

時には暴力沙汰を起こすことも。

それを危惧した両親はバンピーが人生をやり直せるようにとニューヨーク ハーレムへと送った。

しかし鎖を解かれたバンピーは高校を中退しギャングの道へ進んで行く。

暗黒街の女王

25才になったバンピーはハーレムを支配した女ギャング ステファニー・セントクレアの元で幹部となっていた。

セントクレアは‘‘黒衣の未亡人’’と呼ばれた黒人ギャングのボス。

主にナンバーズ賭博をシノギとしていた。

ステファニー・セントクレア

やがてハーレムに危機が訪れる。

ユダヤ系マフィアのダッチ・シュルツがナンバーズ賭博のシノギを狙って戦争を仕掛けてきたのである。

ダッチ・シュルツ

セントクレア率いる黒人ギャングは武力で劣り、勝機はないと思われた。

しかしセントクレアとバンピーのみは降伏に断固反対。

戦う道を選んだ。

戦争は40人以上が死傷する激しいものに。

バンピーは警察に賄賂を渡すことで黙らせつつも、シュルツ配下の店を襲撃していった。

やがてシュルツはラッキー・ルチアーノによって暗殺され戦争は終結。

警察にマークされていたセントクレアはバンピーに組織を譲り引退することに決めた。

その後、セントクレア、バンピー、ルチアーノの三者の話し合いをもち、そこで以下の取り決めがなされた。

・ハーレムのビジネスはバンピーが仕切る

・ルチアーノがそれをバックアップする

・ハーレムのトラブルはまずバンピーに話を通す

またラッキー・ルチアーノが国外追放された後は、フランク・コステロがバンピーのパートナーとなった。

ハーレムの帝王

ボスとなったバンピーは地域に愛される
‘‘ゴッドファーザー’’として親しまれた。

クリスマスには七面鳥、寒い日には石炭を惜しみ無くハーレムの住民に配ったという。

フランク・ルーカスはバンピーについてこう話している。

「みんなバンピーに金を払ってた。
でも父ちゃん母ちゃんだけでやってるみたいな店からは絶対に取らなかったよ」

私生活では1948年10月に結婚。

2人の娘を授かり、家族を愛していた。

しかし、一方でバンピーは麻薬ビジネスに関与していた。

1952年、47才の時、バンピーは麻薬ビジネスに関わった罪で懲役15年を宣告され、アルカトラズ刑務所に服役し1963年に仮釈放された。

人生を通して40回以上逮捕されたが、長期の服役はこの一回のみである。

バンピーからルーカスへ

アルカトラズのバンピー

1968年7月7日、62歳のバンピーは心不全で死亡した。

死亡する少し前、バンピーはハーレムのレストランでコーヒーを飲んでいた。

一緒に注文していたチキンレッグが到着し、掴んだ瞬間に発作を起こして倒れたという。

フランク・ルーカスの話によると、彼はバンピーを抱き抱えて病院に担ぎ込んだ。

バンピーの幼馴染みが駆けつけると、バンピーは少し微笑んでそれから意識を失った。

最終的にバンピーは救急車でハーレム病院に運ばれ、そこで死亡が確認された。

最後にフランク・ルーカスがバンピーを語った言葉を紹介したい。

「バンピーは紳士の中の紳士、王の中の王、殺人者の中の殺人者、彼自身が一冊の本であり、聖書だった」

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明日もバンピー特集をお送りします

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