三分で学ぶ! ニッキー・バーンズ

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ニッキー・バーンズ

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今回は映画「アメリカンギャングスター」にも登場したニッキー・バーンズをご紹介します

ニッキー・バーンズ

ニッキー・バーンズの生い立ち

1933年10月15日、バーンズはニューヨークのハーレムで誕生した。

野蛮なイメージに反して成績優秀な学生だったバーンズは、アルコール依存症の父から逃れるために家を出た。

そして明晰な頭脳を活かして大金を稼ぐべく麻薬ビジネスの世界に足を踏み入れる。

やがて自らも麻薬に溺れ1965年に逮捕、刑務所に収監された。

そこでバーンズはあのマフィアと出会うことになる。

マフィアとギャング

刑務所に収監されたバーンズは数々のマフィアと顔見知りとなった。

その中でも特筆すべきなのがクレイジー・ジョーである。

クレイジー・ジョーは仲間内との対立が絶えなかったためイタリア人以外の仲間、加えて大きなビジネスを欲していた。

そこでクレイジー・ジョーは組織運営などのノウハウをバーンズに授け、自分の変わりにハーレムを仕切らないかと持ちかける。

バーンズもこれをのしあがるチャンスと捕らえた。

ほどなくしてクレイジー・ジョーの雇った弁護士の働きで釈放されたバーンズは友との約束を果たすべく、新たな組織作りに乗り出す。。

黒人ギャングのコミッション

ニッキー・バーンズ

バーンズは以下のような命令系統を作り、自分が極力逮捕されないような仕組みを編み出した。

バーンズ→幹部→兵隊→末端の売人

このように本格的な組織作りを行ったことでバーンズの稼ぎはどんどん増えて行く。

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当たり前と思われるかもしれませんが、当時のギャングは仲間同士が集まっただけの緩い組織がほとんどでした。

バーンズは増えた稼ぎをマネーロンダリングし、合法的なフロント企業に投資した。

このやり方こそクレイジー・ジョーのアドバイスであった。

次にバーンズは縄張りをカナダまで拡大、果てしなく大きい帝国を築く。

バーンズは自らの組織を拡大するだけでなく、マフィアの全国会議“コミッション”の黒人版“カウンシル”を発足。

参加者はハーレムのギャングのボス7人で、カウンシルは未然争いを防ぐ手段として大いに役だった。

ちなみにフランク・ルーカスはこの誘いを「下らん」と断っている。

崩れ去る帝国

ニッキー・バーンズ

あまりに大物となったバーンズは当然、DEAに目をつけられた。

バーンズは人一倍、尾行に気をつけ、度々車を停車するなどの工夫をしていた。

しかし1976年、バーンズは逮捕されフロント企業は次々と手入れを受けてしまう。

オーダーメイドのスーツや車、宝石類などバーンズの財産は根こそぎ差し押さえられ、その額は700万ドルにも上った。

マスコミはバーンズに“アンタッチャブル”とあだ名をつけ連日、報道。

1977年6月5日発売のニューヨークタイムズにはこんな写真が掲載されている。

こちらは逮捕時の写真が気にくわなかったバーンズがわざわざ撮らせたものである。

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芸能人みたいですね。

一方、カウンシルはバーンズを殺すために殺し屋を雇っていた。。

獄中のバーンズ

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1978年1月19日、バーンズには釈放なしの終身刑が下された。

失意にくれるバーンズに追い討ちをかける出来事が次々と起こる。

まずシャバに残した資産は全て奪われた。

次にカウンシルはバーンズに弁護士を付けるのを取りやめる。

さらにカウンシルメンバーの一人、ガイ・フィッシャーがバーンズの女と寝ているとの噂を耳にした。

絶望したバーンズは司法取引を望み、自分に関わった女からカウンシルのメンバーまで153名について密告。

うち16人を刑務所送りにした。

刑務所でのバーンズ

司法取引によりバーンズの刑は35年に短縮された。

その後は勉強に励み通信大学を卒業するなど至って真面目に刑期を勤めた。

よく仲間の受刑者に英語の読み書きを教えていたと言われている。

その後人生

1998年8月、バーンズは遂に釈放された。

証人保護プログラムを受けながらも、メディアのインタビューに答えるなどしながら生活。

2012年6月18日、癌によりひっそりと息を引き取った。

バーンズは証人保護により名前を変えていたため、2019年まで死んだことにマスコミも気づいていなかった。

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