トロピカーナとフランクコステロ
トロピカーナ
1957年4月、ラスベガスは不況の真っ只中にあった。
主要なカジノの所有者は所有権を売り渡し、売らなかった者のほとんどは破産。
そんな中トロピカーナはオープンした。
トロピカーナは映画「ゴッドファーザー」のロケ地にもなったカジノホテルで、建設には当時としては破格の1500万ドルを費やし、「ストリップのティファニー」と呼ばれた。
フレドがカジノにいるシーンです
勿論料理や内装は一流で、多くの人が熱狂。
この大成功の裏にはマフィアがいたと言われている。。
フランク・コステロとマイヤー・ランスキー
マイアミのホテル経営者 ベンジャッフェがトロピカーナのある土地を所有していた。
トロピカーナの建設と運営は別のコンキスタドールという会社が行っていた。
そしてコンキスタドールの社長であるフィル・カステルは1957年の春にフランク・コステロ出会う。
二人は意気投合し、パートナーとなった。
カステルはコステロの為にニューオーリンズのビバリークラブを運営、ルイジアナではスロットマシン事業に助力。
この二つのビジネスは勿論、違法だったが巨万の富を生んだ。
そしてコステロはカステルのカジノの成功が成功するように、‘‘ギャンブルのプロ’’マイヤー・ランスキーを紹介した。
カステルはランスキーにトロピカーナの運営計画、ラスベガスに対するビジョンを話した。
そこからランスキーとカステルもビジネスパートナーとなる。
ランスキーと言えばラスベガスで最も影響力を持っていたマフィア、願ってもないパートナーだったに違いない。
そんな訳で大きな後ろ楯を得たトロピカーナは大成功を納めた。
あの事件が起こるまでは。。
コステロ暗殺未遂
1957年5月2日、トロピカーナの大成功から僅か一月余り。
フランク・コステロが一日の仕事を終えてニューヨークのアパート帰宅すると、アパート入り口にヒットマンが待ち構えていた。
このヒットマンはコステロのライバル ヴィト・ジェノベーゼが送り込んだ ヴィンセン〝チン〟ジガンテ。
コステロは頭を撃たれて負傷。
実際には頭蓋骨と皮膚の間を弾丸が通り抜けたのだが、致命傷を負ったと思ったコステロは救急車を自力で呼んだ。
病院へ搬送される際にコステロのコートのポケットのから警察は一枚のメモを発見。
そのメモには1957年4月27日のトロピカーナからの収支報告、加えて「L」が30,000ドル、「H」が9,000ドルと記載されていた。
このLはマイヤー・ランスキーを、Hはチームスターズの委員長 ジェームズ・ホッファを指す暗号。
このメモは公にされトロピカーナはマフィアとの繋がりを追及されることに。
さらにはチームスターズの不正融資までも明るみにしてしまったのだった。
このスキャンダルによりネバダ州のゲームエージェンシーはマフィアと繋がりのあるカステルのライセンスを剥奪。
、カステルはトロピカーナを他人に譲り渡すはめとなった。
カステルはキーフォーヴァー委員会からも厳しく追及され、コステロとの関連についてはこう語った。
「トロピカーナ事業にはフランク・コステロは参加していません、本当に」
ニューヨークタイムズの記者ギルバート・ミルスタインのインタビューではカステルは「フランク・コステロと何年も仲良しだったが、評判の高いマフィアのボスは忙しすぎて、トロピカーナにはまったく興味がなかった」と話している。
真相は果たして。。