三分で学ぶ ポールリッカ
三分で学ぶ ポール・リッカ
今回は〝ウェイター〟の異名をもつシカゴマフィアの大物ポールリッカを紹介していきます。
リッカは穏やかな口調で話すことで知られていて、誰かを殺せと言いたい時には「彼には去ってもらってください」と言ったそう。
ポールリッカの生い立ち
1897年11月14日、ポール・リッカはナポリに誕生。
四人の姉妹と育った。
17歳の時、ナポリの犯罪組織のメンバーとなり、18歳の時には婚約を破棄した妹の婚約者を殺害。
その罪で2年間服役、出所後は殺害について証言した目撃者を殺害した。
再び刑務所送りにされる事を恐れたリッカは23歳の時にニューヨークへと移住した。
アメリカでのリッカ
ニューヨークに移り住んだリッカはダイヤモンド・エスポジートというギャングに雇われ酒の密売に関わるように。
やがてエスポジートはリッカにシカゴのレストランでウェイターをするようにと命じる。
この頃からリッカは〝ウェイター〟と呼ばれるようになりました。
レストランで働いていたものの、リッカは仕事に満足していなかった。
そんな折、客としてアル・カポネ達が店に訪れる。
同郷のリッカは気に入られ、カポネの組織に加入するのだった。。
シカゴのウェイター
アルカポネはリッカを非常にかっており、リッカが30才の時に結婚した際に立会人を勤めている。
仕事の面でもリッカは信頼され1929年のアトランティックシティ会議に出席したほか、ニューヨークとの交渉を任されるようになった。
カポネ逮捕後は諸説あるものの、組織内でかなりの権力を握っていたとされ、多くの物事を決定する立場にあったと言われている。
(組織のボスの座はフランク・ニッティに渡った)
1943年、ハリウッドの映画業界への恐喝が表沙汰となると、リッカは恐喝の中心人物ニッティに、責任を取って刑務所へ行くように話した。
そして、ニッティは自殺。
リッカはニッティの空席を埋めボスとなった。
アンダーボスには切れ者のアンソニー・アッカルドを添え、彼と共同で組織を運営してゆく事となった。
マフィアも恐れる刑務所生活
1943年12月30日、リッカは恐喝の罪で服役することになり、アトランタ刑務所へ送られた。
そこはイタリア人は差別され、看守に暴行されるという恐ろしい刑務所だった。
リッカはなんとか他の刑務所へと移れるように人事を尽くしたが、それは1945年5月まで叶わなかった。
その後、仲間のマレー・ハンフリーズの働きかけにより予定よりも早く1947年8月13日に仮釈放となる。
仮釈放の条件は〝犯罪組織のメンバーと関わらないこと〟。
さらにアッカルドも脱税の罪に問われてしまう。
これを受けリッカは組織体制を見直し、フロントボス(見せかけのボス)を建てて、捜査を逃れる事にしたのだが。。
ジアンカーナとリッカ
1957年、リッカは部下のサム・ジアンカーナをフロントボスに指名。
ジアンカーナには「何かを決定するにはリッカとアッカルドの許可を得るように」と言い渡した。
サム・ジアンカーナは大の目立ちたがりでフロントボスとしては願ったりな人物だったが、やがて言うことを聞かないようになってゆく。
これに怒ったアッカルドによりジアンカーナは消されてしまうのだった。
以後、シカゴマフィアはフロントボスを定期的に入れ換えながら運営されてゆく。
警察の追及
フロントボスを建てるのはいいアイデアのように思えたが、リッカを完全に守るとまでは行かなかった。
1957年には不法入国の疑いで国外追放されそうになるものの勝訴。
しかし1959年に脱税で逮捕、服役。
1965年に再逮捕されたが、こちらは無罪となっている。
その後リッカは多くの決定権をアッカルドに預けるようになり半ば引退。
1972年10月11日、入院中に心臓発作で亡くなった。