ヴィンセント・”ザ・スキーマー”・ドルッチ
ヴィンセント・”ザ・スキーマ”・ドルッチ
ヴィンセント・ドルッチは、シカゴ ノースサイド・ギャングのリーダーの一人。
彼はイタリア人であるにも関わらずアイルランド人、ドイツ人、ポーランド人のギャングを率いてて、アル・カポネと死闘を繰り広げた。
あだ名のスキーマーには“妄想狂”という意味があり、彼が奇想天外なことを思いつく策士だったことに由来している。
ドルッチの生い立ち
ドルッチことディアンブロ・ジオの出生はほとんど謎である。
第一次世界大戦中、彼は2年間海軍に所属し、名誉除隊。
戦後は他のノースサイドギャングのリーダー ダイオン・オバニオンの部下として働き始めた。
ドルッチがオバニオンの部下になったのは、彼の面倒見の良さに惹かれての事だった。
彼はは鉄砲玉として、オバニオンの為に多くの殺しを実行したと言われている。
オバニオン
ダイオン・オバニオンは、人懐っこく、陽気で、カリスマ性にあふれる男だった。
また、花屋を営むという可愛らしい一面も持っていた。
そんなオバニオンはサウスサイドギャング(後のアウトフィット)を率いるアル・カポネと敵対。
激しい抗争を繰り広げていた。
1924年11月10日、オバニオンはフラワーアレンジメントを取りに来たという名目で花屋に入ってきた3人のガンマンに射殺されてしまう。
オバニオンの葬式は、腹心の部下 ドルッチ、バグズ・モラン、ハイミー・ワイスが取り仕切ることに。
その際、オバニオンの墓を挟んで立つカポネは、三人を睨みつけていた。
この時、ドルッチは復讐を誓うのだが。
ノースサイドギャング戦争
1925年1月12日、ドルッチはステート・ストリートのレストランの外でカポネの車を銃撃。
弾丸は外れたものの、ボディガードのシルベスター・バートンが背中に命中していた。
この襲撃事件をきっかけに、カポネは有名な3万ドルの防弾キャデラックを注文した。
そのわずか12日後、ワイス、ドルッチ、モランの3人組は再び襲撃を試みる。
次のターゲットはカポネの師匠 ジョニー・トーリオ。
三人は、妻とのショッピングから帰宅したジョニー・トリオを銃撃。
しかし、あと一歩の所で弾切れを起こし、逃走した。
この襲撃では、ドルッチは逃走ドライバーを勤めていたという。
5月25日、今度はカポネが反撃。
ドルッチとモランがカポネの仲間 トニー・ジェンナを待ち伏せるとの情報を仕入れたカポネは、2人を返り討ちに。
モランの車に銃弾を浴びせ、ドルッチに軽傷を負わせた。
ドルッチの反撃
傷を負ったドルッチはさらなる復讐に打ってでる。
7月8日、ドルッチはトニー・ジェンナの背中に5発の弾丸を撃ち込み殺害。
11月13日には、同じくカポネの仲間床屋でサモーツ・アマツナを射殺した。
その後10ヶ月の間、抗争は静まり返った。
これは、カポネがクック郡の州検事補ウィリアム・H・マクスウィギンを殺害した後、シカゴから逃走したからである。
ドルッチはカポネの行方を掴もうと、躍起になっていた。
1926年8月3日、2人の少年が貯水槽に浮かぶ男の遺体を発見した。
男の名前はアンソニー・キュリングローン。
彼はカポネの運転手で、1ヶ月前から失踪していた。
そして遺体の顔は殴られ過ぎて原形を止めていなかった。
死因は頭部に受けた一発の銃弾。
ドルッチはキュリングローンを1ヶ月に渡り拷問し、カポネの居所を聞き出そうとしていたのだ。
しかし、幸か不幸か彼はカポネの逃亡先を知らされていなかった。
この残酷な行いにカポネは激怒。
逃亡先のシカゴハイツから舞い戻り、弔い合戦を始めた。
襲撃の朝
ドルッチはサウスミシガン通りのコングレス・ホテルに住んでいた。
1926年8月10日の朝、彼はワイスと朝食をとっていた。
午前10時頃、二人は衛生地区評議員で20区の政治家でもあるモリス・エラーに会うため、スタンダード・オイル・ビルディングまで歩いた。
ドルッチとワイスがミシガン・アンド・ニンス・ストリートを横断していとき、黒塗りの車が猛スピードで現れ、二人の横に停車。
車に乗っていた3人の男は2人に向かってトンプソンマシンガンを乱射し始める。
ワイスは周囲の一般人同様、逃げ惑い、近くに停車していた車ほダッシュボードの下に潜り込んだ。
対照的にドルッチは郵便受けの後ろに陣取ると、オートマチックを取り出して応戦し始めた。
行き交う弾丸は周囲の自動車や店を蜂の巣に。
だが奇跡的に、怪我をしたのは足をかすめた一般人だけだった。
パトカーのサイレンが鳴り響く中、ワイスはその場から走り去った。
暗殺者の車の運転手は、2人を残して走り去り、残った二人も徒歩で逃走。
ドルッチは一般人が乗る自動車に押し入ると、運転手に銃を向け「俺を連れて行け、キッチリやれ」と命令した。
だが車は警察に取り囲まれ、ドルッチは逮捕された。
ドルッチは、取り調べで自分の名前をフランク・ウォルシュと告げた。
だがポケットにある1万3千2百ドルが、彼は小物ではないことを物語っていた。
警察は暗殺者の一人も逮捕した。
カポネの部下である彼はルイス・バルコは、ポール・ヴァレリーと名乗った。
刑事たちはすぐにこの2人が誰であるかを理解した。
バルコはドルッチの前に引き出されたが、ドルッチはこのように答えたという。
「見たこともない奴だ。ギャングの喧嘩じゃないんだ。強盗だったんだ、それだけだ。奴らは俺を狙ってたんだ」
また、バルコは事件と無関係を主張。
「流れ弾に当たりたくなかったから逃げただけだ」と説明した。
その夜、ハイミーの母メアリー・ワイスが5000ドル(武器の所持で1000ドル、殺意による暴行で4000ドル)の保釈金にサインし、ドルッチは釈放された。
ドルッチが持っていたお金については、完全には説明されなかった。
彼は、不動産取引の決済をするところだったと語ったが、苦しい言い訳だった。
総攻撃
銃撃事件の5日後、ドルッチとワイスはスタンダード・オイル・ビルの前を車で走っていた。
そこへ再び暗殺者の乗る車が現れる。
ドルッチの車が縁石に突っ込み、停車すると激しい銃撃戦が勃発。
ドルッチとワイスは車から飛び降り、肩越しに発砲しながらビルの中に逃げ込み、無事だった。
この襲撃の報復の為にドルッチが建てた計画は、壮絶なものであった。
9月20日の午後、ドルッチは全軍を招集。
ホーソーン・イン・レストランでカポネに総攻撃をかけた。
現れたノースサイドギャングの車列は、レストランを蜂の巣に。
数千の弾丸が打ち込まれたものの、負傷したギャングは右肩を打たれたルイス・バルコだけであった。
しかし、この襲撃に危機感を覚えたカポネはノースサイドギャングに和平を持ちかける。
だがドルッチらノースサイドギャングはこの申し出を断固拒否した。
10月11日、カポネは聖名大聖堂の前でハイミー・ワイスを待ち伏せし蜂の巣に。
ここに来てドルッチも危機感を覚え、和平を結ぶことに。
ホテル・シャーマンに集まったシカゴギャング達は、酒を酌み交わし、お互いのシマを置かさないという条約を結ぶ。
これ以降、シカゴには禁酒法が始まって以来、最も長い平和が期間が訪れた。
殺人が70日間も起きていないという事実は大々的に報じられ、カポネも得意気にマスコミに「私が平和を創った」と語った。
街に平和が訪れ、ニュースの焦点は現職のウィリアム・E・デーバー市長と前市長のウィリアム・ヘイル・”ビッグ・ビル”・トンプソンとの間で行われる市長選挙に向けられた。
シカゴ警察は、以前の選挙の日に起こった暴力事件を防ぐために、トラブルを起こすと思われる人物を見つけ次第逮捕するよう、警戒態勢をとる。
選挙の前夜、ドルッチはデヴァーの支持者である市会議員ドーシー・クロウを誘拐して、トンプソンに貢献しようと考えていた。
トンプソンはギャングとズブズブの関係にあり、彼の当選はノースサイドギャングの利益にも直結していたからである。
選挙日の午後、警官はディバーシー通りとクラーク通りで、ドルッチと仲間のヘンリー・フィンケルシュタインとアルバート・シングルを発見した。
3人を取り調べるた警官はドルッチが45口径のオートマチック銃を持っている事を発見。
3人は刑事局に連行された。
すぐにドルッチの弁護士モーリス・グリーンが呼ばれ、釈放令状を作成。
4人の警官が、3人をグリーンの待つ刑事裁判所ビルに連れて行くことになったのだが、道中でヒーリーとドルッチの口論が始まった。
ヒーリーはドルッチの腕をつかむと、罵声を浴びせる。
ドルッチも怒鳴り返すと、ヒーリーはドルッチを殴り、リボルバーを抜いた。
そうこうしつつも、二人は口論を続けながらパトカーに乗り込んだ。
ヒーリーの供述によると、ドルッチは 「お前を捕まえてやる、玄関先で待っているぞ」と息巻いたという。
これにヒーリは「黙りやがれ」と反撃。
ドルッチは、「やれやれ、このガキンチョ、この借りは返してもらうぞ」と応じた。
それからドルッチはヒーリーの顔を殴り、”お前を撃ち殺してやる “と叫んだ。
ドルッチは警察官から銃を奪おうとした。
その瞬間、ヒーリーはリボルバーを抜いて4発発砲。
3発がドルッチに命中していた。
ヘンリー・フィンケルシュタインの供述は、ヒーリーのものの異なっている。
「ヒーリーが最初にドルッチ氏を殴った。
車内で乱闘が始まり、運転手はクラーク通りで停車した。
警察官1人が車から降り、次いでヒーリー膝の上に両手を置いて座っていたドルッチを撃った」
一方、警官はヒーリーが「銃を外せ、降りて戦おう」と殴り合いを申し出た後に、銃を抜いたと話している。
その後、ドルッチはイロコイ病院に運ばれた。
彼は左腕と右足、そして腹部に傷を負っていた。
イロコイ病院では手に負えないと判断した医師は、彼は郡病院に搬送することに。
しかし搬送途中にドルッチは死んでしまった。
刑事裁判所ビルで待機していたドルッチの弁護士 グリーンは事件を知らされると、急いで刑事部長のウィリアム・シューメーカーに会いに行き、ヒーリーを殺人罪で逮捕するように要求した。
刑事部長はグリーンに、「ヒーリーには勲章を用意している」と答えたという。
その夜、ドルッチの妻セシリアは、遺体確認のために死体安置所に呼ばれた。
ドルッチの死体を見て、彼女は “私の大きなベイビー “と泣き叫んだとか。
ドルッチの葬儀
翌日、1万ドルの国旗模様のアルミと銀の棺が、北ウェルズ通りのスバルバロ&カンパニー葬儀場に安置された。
棺の周りには、オバニオンの花屋でのパートナー、ウィリアム・J・スコフィールドから届いた3万ドル相当の花々が飾られていた。
葬儀はスバルバロで行われ、司祭はいないが、親族と親しい友人数人が葬儀屋の先導で祈りを唱えた。
参列者は1,000人と推定されている。
アメリカ国旗をつけた霊柩車は、12台の車に積まれた花に先導されて墓地へ向かった。
ドゥルッチの遺体はマウント・カルメル墓地に埋葬されたが、そこはカポネの最後の休息地となるところであった。
墓地では、ライフル隊が21門の銃で礼砲を打ち、ラッパ隊がタップを演奏すると、弔問客は頭を下げた。
未亡人は、40万ドルの遺産を相続することになっていたが、悲しみに暮れていた。
葬儀の帰り際、記者のインタビューに「警官に殺されたのよ。でも、盛大な葬儀をしたわよ」と語っている。
もしかすると、ドルッチ射殺事件はカポネと買収された警官、そしてヒーリーによる計画殺人だったのかもしれない。