バグジー・シーゲルpart1
バグジー・シーゲルpart1
目次
バグジーの生い立ち
1906年2月28日、ベンジャミン・シーゲルはニューヨークのブルックリンでユダヤ人の両親の元に、5人兄弟の2番目として生まれた。
両親はオーストラリアからアメリカへ移住したばかりで、家庭はとても貧しかった。
やがて小学校に通い始めたシーゲルは、学校をサボり悪さを働くようになる。
喧嘩、窃盗、賭博、恐喝など、あらゆる犯罪を経験したシーゲルはやがて、ローワーイーストサイドを拠点とするラファイエットストリートギャングに加入。
だが、組織というものが性に合わなかったのかすぐに脱退してしまう。
それからは、友人のモー・セドウェイと共に“行商の恐喝ビジネス”を始める。
このビジネスは押し車をおす商人を見つけ次第金を要求し、払わなければ商品に火をつけるというもの。
10才にも満たない少年とは思えぬ冷酷さだった。
10代になると武装強盗、レイプ、殺人など、さらに凶悪な犯罪に手を染め、シーゲルは“狂った奴”として有名になってゆく。
ランスキーとの出会い
後にマフィアの金庫番となるマイヤー・ランスキーと出会ったことで、シーゲルの人生は大きく代わり始める。
二人が出会ったとき、ランスキーは15才、シーゲルは10才だった。
ランスキーは運命的な出会いを果たした日のことをこう振り返っている。
「シーゲルに初めて会った時のことは忘れられない。
ベニーはその時、喧嘩をしていた」
街角でサイコロ賭博をしていたシーゲルは、ディーラーと大乱闘を起こしていた。
やがて、ディーラーが拳銃が一丁、地面に落とす。
シーゲルはすぐに拳銃を広い、ゆっくりとディーラーに向けた。
その時、警笛が鳴り、辺りにいた不良たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
だが、その中でシーゲルは銃を向けつつをけていた。
警官など気にもしていなかったのだ。
と、そこへ一人の小柄な少年が走ってきて、銃をはたき落とし、シーゲルの手をとって逃げ出した。
「あの銃は俺のものだったのに!」
シーゲルはなぜ邪魔をしたのかと少年を責めたが、彼は呆れるばかりだった。
この少年の名前はマイヤー・ランスキー。
二人は同じユダヤ人だが、シーゲルは活発で向こう見ず、ランスキーは大人しく計画的。
正反対の二人は、口論するうちに仲良くくなり、いつもつるむようになってゆく。
ルチアーノとの出会い
シーゲルはランスキーと共にギャング団を結成した。
名は“バグズ&マイヤーギャング”
二人はサミュエル・レヴィンやジョセフ・スタチャーなどユダヤ系の仲間を集め、勢力を拡大してゆく。
主な活動はユダヤ系を目の敵にするアイルランド系に喧嘩を仕掛けることだ。
シーゲルはギャング団の中でも一番の年下だったが、とにかく喧嘩が強く恐れられた。
その為シーゲルはヘブライ語で「飼い慣らされていない獣」を意味するチェイとあだ名されることに。
「とにかくチェイはクレイジーだ」と仲間達はよく噂したようだ。
やがてシーゲルのあだ名はチェイから、よく知られる「狂った」を意味する〝バグジー〟に変わっていくこととなる。
シーゲル、改めバグジーはランスキーの紹介でイタリア系と同盟を結ぶことになった。
そのギャング団のリーダーはチャーリー・“ラッキー”・ルチアーノ。
副リーダーはフランク・コステロ。
ちなみにコステロとルチアーノも当初は別のギャング団を率いていたのだが、話が長くなりすぎるので、詳しくは「三分で学ぶ!バグジー&マイヤーズギャング団」を参照して欲しい。
少年時代のバグジーをルチアーノはこう振り返える。
「ベニーは男前で誰にでも好かれたな。
彼は度胸を示すためなら、あらゆるリスクを厭わない男で、しかも常に銃を持ち歩いていた」
また、仲間のジョセフ・“ドク”スタチャーもこう回想している。
「バグジーは危険が迫ると決して躊躇しない奴だった。
私たちが最善の手を考えようとする間、バグジーはすでに銃を撃っていた。
行動に関しては右に出るものはいない。これほどガッツのある男を私は知らない」
こうしてギャング団の中で“特攻隊長”的な地位を確立したバグジーは、暗黒街でも大物として扱われるようになった。
アル・カポネとバグジー
あまり知られていないが、バグジーはシカゴのギャングスター アル・カポネとも友人だった。
カポネがニューヨークに住んでいた頃、彼は殺人容疑で警察に追われる身となってしまう。
そこでシーゲルはカポネを叔母の家にかくまってやったそうだ。
そのお陰でカポネは警察から逃げ切り、大物としてのしあがる事が出来た。
禁酒法とバグジー
禁酒法が始まるとバグズ&マイヤーギャングは大物たちの酒を運ぶ運送業者となった。
当時、違法とされていた酒を港から倉庫へ輸送するのはかなりリスクのある仕事だった。
というのも、ライバルギャングによるハイジャックが横行していたからである。
そこでバグジーはユダヤ系の荒くれものを集め酒の輸送を買ってでたのだ。
バグジーに輸送を依頼したのはアーノルド・ロススタインやラッキー・ルチアーノなど。
ルチアーノとは相変わらずの友人だったが、“マフィアに入れるのはイタリア人のみ”というルールから、二人は距離をとらざるおえなかった。
つまりルチアーノとコステロは酒を販売するビジネス元。
バグジーとランスキーはその外注先という具合だった。
この時代のマフィアの中にはユダヤ系を嫌うボスたちが多く、若手のルチアーノがバグジーの付き合うだけでもリスクのあることだったのだ。
21歳になる頃には、バグジーは大金持ちになっていた。
ウォルドーフ・アストリア・ホテルのアパートや、ニューヨークのスカースデールに家を購入。
ド派手なスーツを着て、毎晩違う女とベッドインしていた。
おまけにアヘンにも手をだし、その密売も始めた。
だが、これについてはランスキーに諌められ、早々に止めている。
アトランティックシティ会議
1929年5月13日から16日にかけて、バグジーとランスキー、ルチアーノはアトランティックシティ会議に出席した。
この会議は各組織の争いを無くすことを目的としたもので、全米から大物たちが集まった。
ただし、ルチアーノのボス ジョー・マッセリアは呼ばれなかった。
彼はイタリア系以外を敵と見なしていたからだ。
この会議でバグジーはこう述べたという。
“これから先、ユダヤ系とイタリア系が戦うことはないだろう “
バグジー、家庭を持つ
1927年、三十を間近に控えたランスキーは、腰を落ち着けようと考え始めた。
家庭に癒しを求めたのである。
そして、毎晩遊び歩いていたバグジーも、そのアイデアを真似てみることにした。
1二人はローワー・イースト・サイドの出身であるアン・シトロンとエスター・クラッカワーと付き合い始めた。
二人はいずれも家族は東ヨーロッパのユダヤ系の出身で品のある女性。
ランスキーとバグジーは育ちの悪さを隠し、現金と新車を武器に二人を口説いたのだった。
努力の甲斐あってエスターがバグジーの、アンがランスキーの恋人となった。
エスターは家庭的な女性で、バグジーとの相性はバッチリ。
エスターと付き合い初めてからのバグジーは毎晩の女遊びを辞めたほどだ。
1929年、二つのカップルは結婚。
バグジーとランスキーはお互いの仲人を務めた。
結婚から二年後には娘ミリセントとバーバラが誕生。
バグジーはすっかり家庭人となったのだが。。