三分で学ぶ ラッキー・ルチアーノpart1

三分で学ぶ ラッキー・ルチアーノpart1

始めに

今回からチャーリー・“ラッキー”ルチアーノの生涯を詳しくお届けしていきます。

基本の内容はルチアーノ自身が語ったことを真実と位置付けており、なるべく多くルチアーノ自身の言葉を挿入しています。(「」内の言葉がルチアーノ)

その為、今までお伝えした記事とは異なる内容も含まれますが、それはルチアーノのいい分だから、ということです。

また、今回の記事制作にはクラウドファンディングで集まった資金の一部を使用しております。

この場を借りてお礼申し上げます。

では、貧しい移民の少年はいかにして最強のマフィアへと成り上がったのかご覧ください。

ラッキー・ルチアーノの生い立ち

1897年11月24日、後の“ラッキー・ルチアーノ”ことサルヴァトーレ・ルカーニアはシチリアの貧しい村 レルカラ・フリッディで産まれた。

家族は父、母、兄と妹の五人家族。

ルカーニアは母に大変可愛がられて育った。

一家はその後、さらにふたりの子宝に恵まれている。

ラッキールチアーノ

父が働いていた硫黄鉱の匂いを今も覚えている。 
服に染み付いて母がいくら洗ってもとれなかった。
俺にとってこの匂いは貧しさとひもじさと匂いだった

父は硫黄鉱で働きながら、いつもアメリカへ渡り裕福な暮らしをすることを夢見ていた。

父はアメリカへの船賃を貯めるために必死に働いていたが金は貯まらず、母がこっそりと借金をして船賃を工面した。

こうして1906年、ルカーニア一家はアメリカへと旅立つ。

船はいまにも沈みそうな難破船に見えたが、ルカーニア一家はなんとかアメリカへたどり着いた。

ニューヨークへ

ニューヨーク、ローワーイーストサイドにたどり着いた一家を待ち受けていたのはアメリカンドリームではなかった。

住まいはボロボロで、治安は最悪。

父は稼ぎのよい日雇いの仕事をみつけ喜んだが、すぐにシチリアとは物価が違うことに気がつき落胆した。

とはいはえ一家は正式に市民権を獲得し、アメリカ国民として新たな生活をスタートさせた。

ラッキールチアーノ

小学校の始めの2.3年が人生で最悪の時期だった。
英語をひとことも知らずにアメリカの学校へ通うのは辛かったよ

9歳になる頃には、ルカーニアは学校に見きりをつけていた。

教師が英語を話せないルカーニアを立たせたり、叱るからである。

やがてルカーニアは学校にはほとんど通わなくなった。

当時、学校ではユダヤ系やアイルランド系の年上の子供が幅を利かせており、ルカーニアは帰り道に絡まれよく殴られたという。

しかしルカーニアはこれをチャンスと捉える。

彼は同じように殴られている同級生の用心棒をかってでたのだ。

報酬はひとり1ペニーほどだったが、ルカーニアにとって初めて稼いだ金だった。

やがて、稼ぐことの素晴らしさを知ったルカーニアは地域のなんでも屋を始める。

このなんでも屋というのはは平たくいうと使い走り、お使いのようなものだった。

チビッ子ギャング

やがて14歳になったルカーニアはブルックリンにある問題児ばかりを扱う学校に転向させられてしまう。

ここはルカーニアにとって、スリや泥棒の手口を常習犯から学べる素晴らしい場所だった。

ラッキールチアーノ

この時期の隔離された経験は屈辱的で、私はブルックリンが嫌いになった

ブルックリンから戻ったルカーニアはさっそく学んだ技術を駆使して泥棒稼業を始めた。

ラッキールチアーノ

周りは泥棒だらけだった。しかも彼らは地主だったり政治家だったり警官だったりした。
口ひげを生やした立派な人々だよ。
彼らには金があり我々にはない、違いはそれだけだ。
それだけだが大事なことだ。
金さえあればなんでも手に入るのだ

あるとき、シチリアに住むいとこからルカーニア家に豪勢なハムが送られてきた。

一家はこれを食べるのを大層、楽しみにしていた。

しかし、ルカーニア家に借金取りが現れ、利子としてハムを持ち去ってしまう。

ルカーニアはこれ以上、世間から食い物にされてたまるかと怒りに震えた。

二ヶ月後、借金取りの家に空き巣が入り金目のものを全て持ち去った。

犯人はルカーニアである。

ルカーニアの悪評は次第に広まり、やがて近所の悪ガキを従えるリーダーへと成長。

リーダーとなったルカーニアは類い稀なリーダーシップの片鱗をみせ始める。

ギャングへの道

ルカーニアは15名ほどの仲間を集め、盗みの技術を教え、ギャング団を結成した。

そしてルカーニアはいくつかのルールを定めた。

・盗んみは交代で行い金は毎回分配する。

・派手に金を使ってはなならない

・正業を持つ

・服を買うときは会議で誰が買うか決める。一斉に買い物をしてはならない。

ルカーニアを始め多くのメンバーには家庭があり両親がいた。

当然、子供の羽振りが急に良くなれば親は怪しく思う。

そこでルカーニアはこのようなルールを定めたのだ。

しかしある日、メンバーのひとりが勝手にズボンを買い、しかも親に感ずかれてしまう。

さらに悪いことに彼の父親は警官だった。

メンバーと親は署に連行され、こっぴどく叱れた。

この時ルカーニアは悟った。

あまりに狭い縄張りで活動し過ぎたのだ。今後は活動の舞台を広げなければならない。

それに近隣にはイタリアから来た大人のギャングやマフィアがうようよおり、いつ目をつけられるとも限らない。

その後、ルカーニアのギャング団はローワーイーストサイドの外でも盗みを働くようになってゆく。

そして外の世界へと進出したルカーニアは運命の出会いを果たす。

2人のリーダー

ルチアーノと仲間たちは劇場で映画を観賞する事を楽しみとしていた。

当時の映画は無声で字幕がついたものが多く、英語を学ぶのには最適だったのだ。

とはいえルカーニア達は金がなく、スクリーンから遠くはなれた二階席にはいるのがやっとだった。

ある晩、ルカーニア達は騒ぎをお越し劇場を追い出されてしまう。

と同時に別のグループも劇場を追い出されているのを見つけた。

ラッキールチアーノ

奴らの一人に“百四丁目ギャング”を仕切っている男がいた。
彼はカラブリア人でフランチェスコ・カスティリャといった。
後のフランク・コステロだよ。
このとき初めて彼と話したが、ガラガラ声で言葉はとっても聞き取り辛かったな

フランク・コステロ

コステロは当時から頭脳派の犯罪者として一目おかれており、ルカーニアよりはいくつか年上だった。

だが二人はすぐに意気投合し、お互いのギャング団の同盟を結ぶことに決めた。

二人の友情はその後のマフィア界で大きな意味を持つことになる。

帽子屋ルチアーノ

1914年、17歳のルカーニアはグッドマン帽子会社で働き始めた。

ルカーニアは熱心に働き、店主夫妻にもえらく気に入られ、時には夕食に招かれるようになる。

賃金は相場より1ドル多い週給6ドルだった。

ラッキールチアーノ

週に1ドル違う事の重みを説明するのは難しい。
当時の1ドルはひと財産だったんだ。俺はこの一ドルの違いが誇らしかった

だがルカーニアにとって帽子屋の仕事は腰掛けのバイトに過ぎなかった。

ルカーニアは帽子屋で働きながらも夜は泥棒をするという生活を長らく続けた。

そんな頃、友人のフランク・コステロが銃の不法所持で逮捕される事件が起こる。

ルカーニアは自分も気を付けなければと思った。

ルカーニアはあまりに稼ぎすぎたので家族や近所の人々から怪しく思われ始めていたのだ。

麻薬ビジネス

ルカーニアはジョージ・スキャロンという男の存在を知る。

彼は麻薬の売人で地域ではちょっとした有名人。

この頃、麻薬は違法とされてから10年しか経っておらず、世間も警察も寛容な時代だったのだ。

スキャロンは警察も買収しており毎週、莫大な稼ぎをあげていた。

ある日、帽子屋から帰宅したルカーニアは、アパートの前にスキャロンの車が止まっているのを見つける。

ルカーニアは急いで自宅からナプキンを取ってきてせっせと車磨きを始めた。

そしてアパートから出てきたスキャロンは、ルカーニアに25セントもの駄賃をくれた。

しかしルカーニアは駄賃を返し、雇ってほしいと申し出た。

ラッキールチアーノ

俺が帽子を運んでいると言ったら、彼はじゃあ他のものも運べるなって言ったんだ

肝の据わったルカーニアに感心したスキャロンは使い走りとして雇ってみることに決めた。

ルカーニアは客先へ届ける帽子に麻薬を忍ばせることで、運びやとして上手く立ち回ってゆく。

次第に稼ぎは増えて行き、週に10セントを越えた。

ルカーニアにとって麻薬の売買は、いつ失業するとも限らない帽子屋よりも安定していて、それでいてデカく儲かる仕事だった。

だが麻薬を運んでいたルカーニアはある日突然、失業することになった。

ルカーニアの成功を妬んだギャング団の仲間が警察にたれ込んだのである。

1916年6月26日、ルカーニアは麻薬不法所持罪で有罪判決を受け刑務所へ送られた。

ラッキールチアーノ

もう二度と捕まるまいと心に誓ったよ

六ヶ月後、シャバに戻ったルカーニアには厳しい現実が待ち受けていた。

人間のグズ

ルチアーノと母

刑務所に入ったルカーニアは回りからサリーとよばれ、穴を貸せと迫られた。

サルヴァトーレを縮めて“サル”そこから“サリー”とあだ名されたのだが、これは女の名前でバカにする意味が込められていた。

シャバの家族はルカーニアが捕まると母は嘆き悲しみ、父は一家の恥だとののしった。

両親は面会に一度も訪れなかったが、ただひとり、くる日くる日も刑務所を訪れる男がいた。

帽子屋のグッドマンである。

ラッキールチアーノ

彼は言ったよ『なんでこんなことを?息子のように可愛がっていたのに』と。

私は泣いた。 彼を父のように思っていたし慕っていたんだ。
俺は答えた『金がほしかったんだ』
すると彼は『金が全てじゃないだろ』って。
私は言った。『金がないやつはそう思わないのさ』

その後もグッドマンは面会にやって来てはルカーニアを更正させようと説得し、出所後は再び雇うと申し出た。

ルカーニアはグッドマンとの約束を守り表向き模範囚として刑期を勤めることに。

服役から六ヶ月後、ルカーニアは1916年のクリスマスにシャバに戻った。

ルカーニアが家に帰ると、あまりに痩せた姿を見た母は泣き出した。

しかし周囲の想いとは裏腹にルカーニアはこう考えていた。

グッドマンの言うとおりにしていたら人間のグズのままだ。

僅かな給料の為に奴隷のように働くのはクズだ。

クズになるのなら死んだ方がマシだ、

と。

そういう訳でルカーニアは泥棒稼業に戻った。

刑務所に入った事でルカーニアはちょっとした有名人になっており、さまざまなギャングからオファーが舞い込んだ。

しかし人に使われるのは結局グズと変わらない、と思った通りルカーニアは全てのオファーを辞退した。

1917年の始め、ルカーニアの父は家で金のバックルを発見、近所に訪ねて回ったところ泥棒が入ったという宝石店にたどり着く。

父は激怒しルカーニアを問い詰めた。

そしてベルトのバックルでルカーニアを殴り付け、家から出ていくように告げた。

ラッキールチアーノ

殴り返したかったがやめた。シチリア人はぜったいに父を殴ったりしないのだ

こうしてルカーニアは母に別れをいい初めて実家を出たのだった。

ルカーニアは友人と共にボロアパートを借り暮らし始めた。

家賃は3ドルでお湯は出なかったが、ルカーニアにとっては“自分の城”だった。

ラッキールチアーノ

一番良かったのは女を連れ込めた事だな。
だが女が結婚を求めてくると俺はうんざりしてしまった
私はロマンスを求めるタイプじゃなかったし、ほかにやりたいことが山ほどあった

グッドマンはこのルカーニアのアパートにも足しげく通い、働けと説得し続けた。

やがてルカーニアはグッドマンの熱意に負け働くことに同意、実家へと戻る。

ルカーニアが実家へ戻ると母が好物のザラニアを用意して出迎えてくれた。

父はルカーニアの高級そうな服装をみて眉をしかめていた。

夕食に最中、父がその服はどうしたのだと尋問を始めた。

ルカーニアは帽子屋で働いて買ったんだよと申し開きをしたが、この日の昼グッドマンが“またルカーニアが働くことになった”と両親に伝えていたことを知らなかった。

これを聞いた母は泣き始め、ルカーニアは、『おい、黙ってろよ』と言った。

ラッキールチアーノ

私はゆるしがたい罪を犯した。
母に黙れと言ったのだ。
父はテーブルごと私をぶっ飛ばし、お気に入りの服はザラニアまみれになった。
そのあとしばらく家には戻らなかったね。
父がいない時に隙をみて実家にもどったけれど。
ラザニアのしみは落ちることはなかったよ、ずっとね

運命の出会い

1917年はルカーニアにとって厳しい一年だった。

泥棒で生計を経てようと、懸命に働いたが稼ぎはスズメの涙ほどだった。

泥棒や強盗で稼げる金はたかが知れている。もっと大きなことをやらねば。

そう考えていた矢先、コステロが出所してきた。

ルカーニアとコステロは再び同盟を結び、より大きな獲物を探し始める。

やがてルカーニアにはもう二人、親友が出来た。

ユダヤ系のマイヤー・ランスキーとベンジャミン・シーゲルである。

マイヤーランスキー

ランスキーはロシア移民で数学の天才だった。

ランスキーは小柄だが喧嘩っ早く、工場でバイトをしていた。

そのランスキーと、いつもつるんでいた4つと年下の子どもがシーゲル。

通称バグジーだった。

バグジー・シーゲル

バグジーは背が高く、ハンサムで、凶暴だった。

ラッキールチアーノ

ベニーは誰にでも好かれる子供だったな

バグジーは度胸を示すためなら、あらゆるリスクを厭わない男で、しかも常に銃を持ち歩いていた。

そのため最年少ながらもキチガイ(バグジー)と呼ばれたのだった。

ラッキールチアーノ

わたしは初めてランスキーとシーゲルに出会った。
わたしはチビのランスキーに用心棒になってやるよと声をかけた。
するとランスキーは『ふざけんな!』って。
わたしは思わず笑ってしまって、それから言った。『ok、お前はタダで守ってやるよ』
するとランスキーは『余計なお世話だ、うせろ』と。

大した度胸だったな。
それにこれは事実だった。
ベニー・シーゲルを除くと、私が出会った中で一番タフな男はランスキーだった

特にルカーニア、コステロ、ランスキーの三人は色々な共通点がありすぐに打ち解けた。

ラッキールチアーノ

我々三人は分析家だった。
考えがまとまるまでは軽はずみに決断を出さない。感情も出さない。
バグジーはまったく正反対だったが、逆にこの組み合わせは相性がよかった

ユダヤ人二人とイタリア人二人で構成されたこのグループは、やがてアメリカの歴史を大きく変えてゆくこととなる。。

ラッキールチアーノ

我々4人は最高のチームだったんだ

初仕事

四人が組んだ最初の仕事は倉庫からの盗みだった。

この時、バグジーが真っ先に警備員を制圧しようと動いたのだがランスキーが待ったをかけた。

“なんでユダヤ人が先頭なんだ。イタリア人二人はリスクを冒さないのか?”とランスキー。

そこで怒るランスキーにルチアーノはこう答えた。

「イタリア人は俺ひとりさ、こいつ?
こいつはアイルランド野郎のフランク・コステロさ」

ルチアーノの冗談に四人は笑った。

これ以降、これまでフランチェスコ・カスティリャと呼ばれていた男はフランク・コステロと名乗るようになる。

結局、四人は仲良く警備員を制圧し、難なく品物を頂戴した。

追い風に乗る

精力的に活動する四人の噂は瞬く間に広まり稼ぎも手下の数もどんどん増えていった。

ここで四人は稼いだ金をどこに保管するのかを悩み始める。

ラッキールチアーノ

あまりに金額が増えたもんで、ランスキーでさえ時折、混乱していたよ

四人はローワーイーストサイドの銀行に金を預けようと決め、まずコステロが下調べへと出掛けていった。

その結果わかったのだが、この銀行はロクに警備が行われておらず見張りはヨボヨボのじいさんだけだった。

四人は金を預ける替わりに、金庫の金を根こそぎ強奪した。

淋病とルカーニア

1917年、第一次世界大戦が始まるとルカーニアは徴兵されることとなる。

ちなみにランスキーとバグジーは兵役年齢に達しておらず、コステロはのどの病気で免除されていた。

ルカーニアはなんとか徴兵を逃れようと、仲間を集め作戦会議を始めた。

「殺されるのが怖いんじゃない。戦争をしている間、ビジネスが止まってしまうだろ」とルチアーノ。

解決策を思い付いたのはまだ14歳のバグジーだった。

「淋病にかかればいいさ」

ルカーニアは必死にこのアイデアを拒んだが、コステロがいい医者を紹介するから心配ないというので渋々、承諾した。

数日後、バグジーがルカーニアを訪ねてきて「淋病の女を見つけたぞ!」と報告してきた。

ルカーニアはやっぱり辞めておくよと言ったが、無理やり連行されてしまう。

ラッキールチアーノ

相手は色っぽい女の子だったが、私の息子は元気がなかった。 
そういう知識もなかったしな。
で、確かに淋病を貰った。

それからの一年は最悪だった。

ルカーニアは二日に一回、病院へ通うという生活を一年以上続けねばならなかったのだ。

ラッキールチアーノ

戦争でドイツ野郎と走り回る方がマシだったね。
医者は息子をゴムで縛り上げ、金属の棒を尿道に突っ込むんだ。
それで息子の中が詰まらなくなるらしかった

開幕

ルカーニアが徴兵を逃れた意義は充分にあった。

終戦までに四人は縄張りをダウンタウン、イーストハーレム、ミッドタウンにまで拡大、次々と強奪を繰り返した。

やがてひと財産を築いた四人は資金を有効活用し始めた。

まず競馬のノミ屋の開設、次に“買収銀行”を設立。

ノミ屋はランスキーが、買収銀行はコステロが主に取り仕切ることとなった。

買収銀行とは四人が考えた買収システムで、利益の一部を積極的に買収に使おうというもの。

ラッキールチアーノ

コステロは実際よりずっと年をとって見えたし、立ち振舞いに品があった。
彼は買収すべき相手を見つけ出し、次々とコネを作っていった

コステロは主に警察官を買収し、これによりノミ屋稼業はずっとやり易くなるのだった。

そして1920年、遂にアメリカは禁酒法時代へと突入する。

禁酒法時代はまさに群雄割拠で、ありとあらゆる後の大物達が一旗揚げようと目論んでいた。。

禁酒法時代

禁酒法が始まる少し前の1919年、ルカーニアには何度か仕事を共にしたアル・カポネという友人がいた。

カポネには警察の手が迫っており、ルカーニアはその情報をいち速く掴み知らせようとしていた。

ラッキールチアーノ

バグジーの叔母がやっている乾物屋でカポネと待ち合わせた。
俺は「すぐにニューヨークを出た方がいいぜ」と伝えてやった。
あんな顔のカポネはその時始めてみたな

ルカーニアはシカゴにいるジョニー・トーリオに連絡しカポネを雇ってくれと頼み、電車賃も工面してやった。

ルチアーノとカポネ

1920年の終わりごろ、アル・カポネはシカゴからニューヨークへと舞い戻る。

カポネはトーリオの右腕として出世し、大物への道を歩み始めた所だった。

そんなカポネの近況を聞こうと界隈のギャング達はリトルイタリーのレストランに集まった。

カポネは皆にこう挨拶したという。

『ニューヨークの王となる、いとこのルカーニアに乾杯』

いとこではなかったが、カポネはよくルカーニアを“いとこ”だとか“いとこのサルヴァトーレ”と呼んでいたという。

ルカーニアはこの時、改めて自身の目標を再確認した。

目指すのは玉座である。

新しい時代の主役達

禁酒法時代を待っていたかのように、後の大物達が次々とルカーニアの前に現れ始めた。

1920年、カポネが現れた少しあと、ルカーニアはジョー・アドニスと名乗る男から電話を受け、リトルイタリーのアイスクリーム屋で待ち合わせた。

アドニスは酒密売の大物 ワクシー・ゴードンからトラック一台分の極上のウィスキーを仕入れるチャンスを得たのだが、資金に困っていた。

そこでルカーニアに共同のビジネスを提案したのだった。

ジョー・アドニス

ルカーニアはランスキー、コステロ、バグジーと話し合いを行い、アドニスを仲間にひき入れるまず最初にという結論を出す。

ラッキールチアーノ

それから一年以内に、我々はマンハッタン全域からジャージーまで縄張りを広げた

酒は仕入れた分だけ売れる。

あまりの需要に供給が追い付かないのは明白で、ルカーニアは何らかの対策を考えなければならなかった。

多くの密造酒は限界まで薄めてから販売されていた。

そのような粗悪品でも飛ぶように売れたのだ。

真似をすればある程度、供給を増やすことができる。しかしルカーニアは別の道を選ぶことに決める。

当時、裁縫業界は接待に使う極上のー、薄められていないウィスキーを求めていた。

それに目を付けたルカーニアは純度100%の状態で、高級品として自分達の酒を販売することに決めたのだ。

やがて評判は広まり、“よい酒はあそこで買える”と言われるようになってゆく。

それに伴い増えるトラブルに対処すべくコステロはこれまで以上に賄賂を配って回り、ランスキーとバグジーは警備担当として武装部隊を組織し酒運搬に目を光らせた。

この武装部隊は“バグジー&マイヤーズギャング”として知られ、後に多くの殺し屋を排出することとなる。

アドニスの次に仲間に加わったのはヴィト・ジェノベーゼだった。

ヴィト・ジェノベーゼ

彼は腕利きのギャング、殺し屋として既に噂の人となっていた。

そんなジェノベーゼに目を付けたルカーニアは勧誘し、彼を仲間にくわえた。

ラッキールチアーノ

彼の事は好きじゃなかったが、使える男だったし、私に忠実だった

さらにルカーニアはアドニスに紹介され、フランク・スカリーゼとカルロ・ガンビーノと知り合った。

スカリーゼはブルックリンの根城にギャング団を率いていた。

ブルックリンにはもう一人、評判の男がいた。

死刑を宣告されたものの、証人を殺し無罪放免を勝ち取ったアルバート・アナスタシアである。

アルバート・アナスタシア

アナスタシアは殺人狂で誰にも手がつけられなかったが、ルカーニアだけは慕うようになり、“ルカーニアの懐刀”となった。

ルカーニアの仲間達も方々から強者をスカウトしてきた。

ランスキーが発掘したのはユダヤ人のルイス・“レプケ”・バカルター

ランスキーが初めてルカーニアとバカルターを引き合わせた時、バカルターは「レプケと呼んでくれよな」と言った。

レプケとは“小さな”という意味であり、見た目とのギャップにルカーニアは笑ってしまった。

レプケは恥ずかしそうに、お母さんがそう呼んでくれたんだ。と話してくれた。

ラッキールチアーノ

お母さんが好きなやつは憎めないなと思った

一方、フランク・コステロはアーサー・フレーゲンハイマーという男を見つけてきた。

フレーゲンハイマーは通称ダッチ・シュルツとして知られるようになる男である。

ダッチ・シュルツ

ジェノベーゼはユダヤ人を毛嫌いしたが、ルカーニアとシュルツは五分の同盟を結んだ。

同盟を結んだ相手は他にもいる。

ニュージャージー北部を統治していたアブナー・“ロンギー”・ツウィルマンとウィリー・モレッティである。

ツウィルマンとモレッティはタッグを組んで活動していて、既に自分達の王国を築きつつあった。

そして最後に出会った、最もルカーニアに影響を与えた人物がアーノルド・ロススタインだった。

アーノルド・ロススタイン
ラッキールチアーノ

彼は最高の先生だった。
私に服装の事や食事のマナーなど紳士の振る舞いを教えてくれたんだ

本当の大物

1923年、大規模なギャング団を率いるようなったルカーニアは“真の大物”達からさそいを受けるようなった。

当時、勢いに乗っていたルカーニア一味を配下に加えることは誰にとっても魅力的であった。

まず、サルヴァトーレ・マランツァーノがルチアーノに接触してきた。

ラッキールチアーノ

マランツァーノがいずれ連絡してくる事はわかっていた。
何を言われようと断ると決めていたがね。
マランツァーノはよく街を練り歩き法王のように振る舞っていたな。
彼には教養があって、彼と話すといつも惨めな思いをさせられた

マランツァーノとルカーニアの会談は小さなイタリアレストランの小部屋で行われた。

サルヴァトーレ・マランツァーノ

マランツァーノは両手を広げルカーニアを迎え入れた。

そして話し始めた。

これ程までに饒舌で、知的な話し方をするマフィアは珍しかった。

「サルヴァトーレ、私の名前とおなじだ。若きシーザーよ」

シーザーとはマランツァーノが愛してやまないジュリアス・シーザーのことである。

そしてルカーニアが若きシーザーなら、マランツァーノはシーザーということである。

それからマランツァーノはラテン語で何やら話したがルカーニアはさっぱりだった。

マランツァーノは五ヶ国語を操り、歴史にも通じていた。それは些か鼻につく嫌な印象を醸し出していた。

「なぜ俺に話すのに英語で言ってくれないのでしょう?」とルカーニアは不満を露にした。

するとサルヴァトーレは笑いながら説明した。

「褒め言葉は偉大な人間に向けられる。お前は偉大な男になるだろう、だ。

これから世の中は変わって行く。

チャンスを掴む気概のある男と自分より強い人間と協力する気のある男には、チャンスがやってくる。

サルヴァトーレ、君が私の組織に入るなら幹部の席を用意するよ。

結論は急がない。じっくり考えるといい」

最後に二人はワインで乾杯しお開きとなった。

後日、ルカーニアは使いを送り丁重に申し出を辞退した。

その理由はマランツァーノがシチリア人以外は組織に入れないという方針をとっていたからである。

ランスキー、バグジー、コステロ。ルカーニアにとって彼等を切り捨てるなど到底考えられなかった。

関連記事:三分で学ぶラッキー・ルチアーノpart2

関連記事:三分で学ぶ!ラッキー・ルチアーノpart3

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