三分で学ぶアメリカギャングスター ボニーとクライド編
三分で学ぶアメリカギャングスター
ボニーとクライド編
目次
今回はあの有名なコンビの強盗
これまでの三分で学ぶギャングスタ―
ボニー・エリザベス・パーカー
1910年、ボニー・エリザベス・パーカーはテキサス州に生まれた。
ボニーがまだ幼い頃に父が死去し、母子家庭だった。
1926年9月25日、15才の時に二歳年下のロイ・ソーントンと結婚した。
ソーントンもなかなかのワルですぐに強盗で捕まり服役、その間にボニーは運命の相手と出会うことになる。
クライド・チェスナット・バロウ
1909年、クライド・チェスナット・バロウもテキサス州に生まれた。
家庭は貧しい農家だった。
幼い頃から動物を殺すなどの異常な行動をとることで知られており、また同性愛者でもあった。
クライドは少年ギャング団に加入し、17歳の時に車を盗み逮捕されると、そこから犯罪行為を重ねて行く。
22才~25才までの間は堅気の仕事の傍ら盗みに励んでいた。
ちなみに人生二回目の逮捕は七面鳥を盗んだ罪でした
1930年1月、クライドは友人の紹介でウェイトレスをしていたボニーと出会い意気投合する。
しかし間もなくの1930年4月、クライドは自動車の窃盗で逮捕され刑務所農場に送られた。
刑務所での性的な虐待に耐えかねたクライドは脱獄を試みるも、すぐに捕まり終身刑を宣告されてしまう。
そこでクライドはわざと農作業中に斧で爪先を切り落とす。
これにより情状酌量が認められたクライドはシャバに戻った。
ボニーとクライド結成
釈放されたクライドはボニーとその他の仲間を集めて“バロウギャング”を結成。
次々に商店やガソリンスタンドを襲撃し始めた。
1932年4月19日、武器を盗もうと銃砲店を襲ったボニーは逮捕されてしまう。
しかし運良く不起訴となり、すぐにバロウギャングに復帰した。
4月30日、クライドは強盗の最中、店主を撃ち殺してしまう。
これにより警察はクライドをより警戒するようになった。
8月5日、駐車場で酒を飲んでいたバロウギャングは警官に見つかり銃撃戦に。
この戦いで警官9人が死亡している。
新メンバー
1933年3月22日、強盗で服役していたクライドの兄 バッグが釈放された。
クライドと再開したバッグは自首を進めた。
しかし一緒に酒を飲む撃ちに昔を思いだし、バロウギャングに加入する事を決意。
自動的にバッグの妻ブランシュもバロウギャングと行動を共にすることとなった。
証拠品
4月13日、警察は酒密輸業者が潜伏していると聞きつけ5人の部隊を出動させた。
しかし隠れ家にいたのはバロウギャングであった。
激しい銃撃戦となり警官4人が死亡。
残されたアジトからは興味深い品々が見つかった。
武器や有名な2人の写真。
それからボニーのポエムである。
ボニーはポエムを趣味にしていたのだ。
「ジョン・デリンジャーは二枚目俳優の美貌を持ち、プリティー・ボーイ・フロイドは最高のニックネームを持ってる。
クライドバロウとボニーパーカーはワイルドで若く、いつも一緒に寝ている」
ポエムはさておき、銃撃戦で自信を得たバロウギャングは全米各地を転々としながら銀行を襲撃し始めた。
バロウギャングは決まって人質をとり、人里離れた所で解放するという手法を用いていた。
またボニーとクライドはよく冗談を言って、人質を楽しませていたという。
追い詰められるバロウギャング
1933年7月、バロウギャングはクライドの爪先を治療するためペンションに滞在した。
しかし窓に張られた新聞や柄の悪い服装を不審に思ったオーナーが通報。
警察が到着するもバロウギャングは激しく抵抗。
辛くも逃げ延びた。
この際にバッグは頭に被弾、ブランシュは両目にガラス片を浴び重傷を負った。
ボニーとクライドは重傷の二人を連れアイオワ州に逃げ延び、野宿をすることに。
しなし地元住民の通報により居場所がバレ、100人あまりの警官に包囲されることとなった。
もちろん、ただでは捕まらないボニーとクライドは激しく抵抗。
二人は逃げきったもののバッグとブランシュは逮捕され、バッグは間もなく死亡した。
二人旅
ボニーとクライドはそれでも強盗を続けた。
8月20日には軍の兵器庫を襲いマシンガンなどを強奪。
9月にはテキサス州の家族を訪ねるなどの余裕ぶりも見せていた。
11月22日、またしても家族を尋ねたボニーとクライドだったが、実家は警察に見張られていた。
クライドは異変を感じ、実家の前を通りすぎようとした。
隠れていた保安官はクライドを確認すると車目掛けてマシンガンを連射。
ボニーとクライドは二人とも足を撃たれたものの無事だった。
復讐
1934年1月16日、クライドは復讐と友人の解放を目的にテキサス州の矯正施設を襲撃した。
やはり銃撃戦となり見張りだった看守を射殺。
事態を重くみたFBIと警官はボニーとクライドの打倒を決意、フランク・ハマーに協力を依頼した。
ハマーは元にテキサスレンジャーで、53人のギャングを捕らえた実績を持っていた。
1934年4月1日、高速道路パトロール隊が偶然バロウギャングと遭遇。
クライドが二人の隊員を射殺したことは全米で大々的に、誇張されて報じられた。
ハイウェイパトロール隊がボニーとクライドの死体に1,000ドルの報償金を掛けたことも相まって報道は加熱。
二人は一躍、有名人となった。
さらに5日後、クライドは再び警官を射殺。
ここから世論はボニーとクライドを英雄ではなく殺人犯として非難するようになっていった。
ハマーvsボニーとクライド
ボニーとクライド逮捕の匿名を受けたハマーは闇雲な捜索ではなく、情報を分析する事から取りかかった。
そこでハマーはボニーとクライドが強盗の後は州の境を越えて逃走するという行動パターンを見つけた。
州を超える管轄の警察が変わるからである。
5月23日午前9時15分、州境の草むらで待機していたハマーと武装部隊は異常な速度で走ってくる車がいると報告を受けた。
そこでハマーはトラックを停めて道を塞ぎ、草むらに隠れて待機した。
最期
山道をかっ飛ばしていたボニーとクライドは放置されたトラックを見つけ停車。
クライドは車から降り、トラックの持ち主を探そうとした。
その時、部隊の一人が独断でクライドの頭を撃ち抜いた。
悲鳴をあげるボニー。
その悲鳴を合図に動揺した部隊はボニーに向って130発もの弾丸を発射した。
ハマーは意図せぬ幕引きに困惑するしかなかった。