三分で学ぶ!ラッセルブファリーノ
三分で学ぶ!ラッセル・ブファリーノ
ブファリーノといえば映画「アイリッシュマン」でジョー・ペシが熱演した彼。
偉大なマフィアの生涯とはー?
ラッセルブファリーノの生い立ち
ラッセルは1903年9月29日、シチリアに誕生。
同年12月、先にアメリカへ渡っていた父を追って、母と共に渡米した。
しかし1904年、父が事故で亡くなってしまいラッセルと母は再びシチリアへと戻った。
次にアメリカへ渡るのは11歳の時。
母が病死した事をきっかけに、ラッセルはいとこと共にアメリカへと旅立った。
その後、家族はニューヨーク バッファローに定住。
14歳頃からラッセルは不良仲間とつるむようになっていった。
禁酒法時代
禁酒法時代にはジョセフ・バーバラと共にビジネスを行った。
バーバラはあのアパラチン会議のホストを勤める人物です。
ラッセルはシチリア出身という事が幸いし、スムーズにマフィア達と繋がりを作ったと言われている。
1940年代には活動拠点をペンシルベニアに移動、そこからニューヨーク北部までを仕切るほどの大物になった。
アイリッシュマン
映画「アイリッシュマン」の主人公 フランク・シーランと出会ったのは1955年頃だった。
1950年頃から政府はラッセルを国外追放しようと画策。
ラッセルは法廷で長きに渡って争っていた。
そこに「イタリアに引き受けを拒否させればいい」とシーランがアドバイスした事で悩みは解決し、ラッセルはシーランを信頼するようになった。
映画とラッセルブファリーノ
映画を見た方には説明不要かもしれないが、ラッセルはシーランを「私のアイリッシュマン」と呼び大層可愛がった。
ラッセルについてはシーランが多くの事を語っているので少しご紹介。
・ラッセルからは成功者特有の自身がにじみ出ていた。
・基本的に親切で紳士
・フランク・シナトラの事は毛嫌いしていた
・ラッセルはゴッドファーザーのヴィト・コルレオーネに一番近いマフィア
ちなみにラッセルには映画ゴッドファーザーの撮影現場にマーロン・ブランドを訪ねるという、お茶目な一面も。
ブランドと共にラッセルは‘‘ジェンコオリーブオイル’’のセットを見学したそう。
その他ラッセルはゴッドファーザーのキャスティングに口を出すなど、色々と映画に関連を持っている。
アパラチン会議
ニューヨーク内の権力争いに勝利したヴィト・ジェノベーゼはバッファローのマフィアに全国会議の段取りを依頼した。
結果、マフィアの全国会議はジョセフ・バーバラ邸で行われることに決まった。
最終的にメンバーを召集したのは、バーバラとラッセル。
アイリッシュマンでシーランが「ラッセルがマフィアのボス達を集めた」と語るが、それはこの事である。
しかし会議は警察に摘発されてしまった。
摘発はジェノベーゼと敵対するフランク・コステロ、マイヤーランスキーの仕業と言われている。
ラッセルとランスキーは共にハバナでビジネスを行っていて関係も良好だったので、もしかするとあらかじめ摘発を知っていた可能性もある。
中にはジェノベーゼ疑われないよう摘発を知りつつ出席したマフィアもいました。
ちなみに、会議までラッセルを送り届けたのはシーランだった。
アパラチンの余波
アパラチン会議をきっかけに始まった警察の捜査の影響でバーバラは体調を崩してしまう。
そして1959年6月17日に心臓発作で死去。
コミッションはバーバラが率いていたファミリーをラッセルに委ねることを決定した。
その後ラッセルはジミー・ホッファ殺害やケネディ大統領暗殺に関わったとされている。
私生活では1928年に結婚していて、子供はおらずシーランの娘を可愛がっていた。
映画冒頭で語られたとおりジミーブルーアイズ・アロと賭けをしたことをきっかけに禁煙。
しかし妻はヘビースモーカーだった。
FBIの捜査
1973年4月20日、ナイトクラブにいたラッセルは盗品の輸送などの罪で逮捕された。しかし保釈金のみで済んだ。
次に逮捕されるのは1977年。
事の発端はジャック・ナポリという宝石商がラッセルから宝石を購入したものの金を支払わなかったこと。
そこでラッセルはナポリに「支払わなければ殺すぞ」と脅したのが、ナポリはFBIの協力者でマイクを付けていた。
1978年8月8日、ラッセルは恐喝の罪で四年の服役を宣告された。
模範囚だったラッセルは1981年5月に早期釈放。
しかしすぐさま、ナポリ殺害を企てた罪で再逮捕され刑務所に戻された。
今度はラッセルがナポリ殺害を持ちかけたマフィア、ジミー・フラチアーノが寝返り証言したのだった。
最期は1994年2月25日。
90歳のラッセルは刑務所で息を引き取った。
ラッセルの死後、ファミリーは急速に衰退していった。