マッドドック・コールpart1
マッドドック・コールpart1
今回は殺し屋でギャングのボスだったマッドドック・コールをご紹介。
マフィアなら多かれ少なかれ人を殺していると思われるかもしれませんが、コールの場合は金で殺しを請け負っていたというレアな人物なのです。
コールのルーツ
19世紀、アイルランドのグウィードアに暴力的な振る舞いで恐れられているカラン一族がいた。
時は流れ1909年4月3日、カラン一族の末裔であるコール一家はデリー港からニューヨーク港に向けて出航したS/Sコロンビア号に乗務員として乗船した。
この時、家族に連れられてアメリカに渡った貧相な少年がいる。
名前はヴィンセント。
後のマッドドックコールである。
専門家の中には、血筋が彼をマッドドック・コールに、つまり殺人鬼に変えたのではないかという人もいるが真相は定かではない。
ニューヨークに到着した後、父は家族への虐待を始め、やがて蒸発してしまう。
さらに母は病死し、コールと弟のピーターはニューヨークの孤児院に預けられることとなった。
孤児院での数年間、コールは暴力的な虐待、性的な虐待を受け続けた。
当時はこうした虐待をしつけの一貫としている孤児院も少なくなかったのだ。
1920年、12才になったコールは孤児院でも手に負えないほどの不良に成長していた。
やがて孤児院はコールを追放するという決断を下す。
コールと弟はメアリー・フリエルという叔母が引き取ることに。
孤児院をスタッフは、兄弟を“普通の生活”に戻すことで改心させられると信じていたのだった。
しかし、それは大きな間違いだった。
兄弟は叔母の家を拠点に、ギャングとしての活動を始める。
少年ギャングには珍しく、コールにはハッキリとした目標があった、
それはラッキー・ルチアーノやジョー・マッセリアなど、当時名を馳せていたマフィアたちを越えること。
つまり、ニューヨークのトップに君臨することだった。
ブルックリンに住んでいたコールの親戚は当時をこう振り返っている。
「コールは近所のイタリア人に導かれて犯罪に手を染めた、
イタリア人のガールフレンドに宝石を買うために強盗をしたことが、始まりだったと思う」
ちなみにガールフレンドは実際はイタリア人ではなくドイツ系ユダヤ人のロッティ・クライスバーガーであったとの説もある。
彼女もまたサイコな人物で、コールが殺された後、自らギャングを結成し、強盗殺人を繰り返すも、刑務所に収監され死亡している。
女が先か野望が先か、どちらにせよコールは程なくして、ゴーファーズストリートギャングに加わった。
そこからコールは瞬く間に前科を重ねて行く。
始めての逮捕は16歳の時、銃の不法所持だった。
そして23歳までに、暴力や盗みなど12回も逮捕されている。
死刑執行人
1927年、19才になったコールは武闘派ギャング ダッチ・シュルツにスカウトされ、彼の右腕に出世した。
主な役割はダッチ・シュルツの暴力装置。
密造酒を運ぶトラックの護衛、邪魔者の排除、借金の取り立てなど、あらゆる面でコールはその狂暴性をいかんなく見せつけた。
コールが担っていたもう一つの重要な役割はエリアマネージャーだった。
仕事の内容はシュルツから酒の供給を受けているニューヨークの酒場が、他のギャングからではなく、シュルツから酒を買い続けられるようにすること。
もし、酒場のオーナーが他のギャングから酒を買ってしまった場合、コルはそのオーナーを“正しい道”に元に戻してやらなければならなかった。
また、改心しない酒場の主人は見せしめに殺さねばならなかった。
コールの働きぶりは凄まじく、わずか数年でシュルツの儲けは3倍に増加した。
しかし、コールは自分が事業を拡大してやったのに、シュルツが分け前を寄越さないことを不満に思うようになる。
シュルツとコールは、ボスと部下という関係ではあるものの、年齢は6歳しか違わなかった。
また、コールはシュルツが成功したのは運によるもので、実力は自身が上回っていると確信していた。
仲違い
なぜシュルツは稼ぎ頭のコールに充分な分け前を渡さなかったのか。
シュルツは他の者に金を渡さなければならなかったからだ。
シュルツが大っぴらに違法行為を行っても逮捕されないのは、警察や政治家に利益を分配していからだった。
程なくして、コールもその事実を知ることになる。
1930年のある日、コールはシュルツに各地域の警察署に現金の入ったブラウンバッグを定期的に差し入れるように頼まれた。
さらに、政治家も分厚い封筒を渡すように頼まれた。
なぜ、最前線で働く自分よりも多く警察や政治家が分け前を受け取るのか。
コールは怒りに震えながらシュルツの事務所を訪ね、「自分もビジネスパートナーになりたい、利益を分けてほしい」と直談判した。
しかし、シュルツは彼の顔を見て笑い、「給料制のままでいい、それが嫌ならギャングを辞めればいい」と言った。
コールはこの日をもってシュルツの部下を辞め、自身のギャング団を作り始めた。
コールは同じくシュルツに不満を持つ仲間、数十人を連れて独立。
さっそく密造酒ビジネスに乗り出した。
コールの野望
問題は酒の降ろし先だった。
ニューヨークは既に全域がギャング、もしくはマフィアの縄張りとなっており、新参者が付け入る余地はないように思われた。
では諦めるのか。
コールは自問自答を繰り返し、当初の目的を思い出した。
「ニューヨークのトップに君臨する」
ならば、どのみち流血は避けられないだろう。
しかし表だって人の縄張りを奪えば、他のマフィア達も黙っていない。
コールは手始めに他のギャングと同盟を結ぶ道を模索し始めた。
オウニー・マドュン
コールが目星をつけたのはヘルズ・キッチンを縄張りとするアイルランド系ギャング オウニー・マドュン。
コールはマドュンが自分をパートナーにしてくれるなら、シュルツ配下の酒場を説得して、ビールや酒を食わさせてやると申し出た。
マドュンは困り果てた。
マドュンはシュルツを敵に回したくなかったし、かといって血気盛んなコールと戦争をするのも嫌だった。
そこでマドュンはコールを手懐けようと試みる。
マドュンは自身が経営する一流のナイトクラブ「コットンクラブ」に毎晩コールを招待し、説得を試みた。
「トップではなくとも良い暮らしはできる。しかし、軽率な行動をとれば、ニューヨーク中のギャングを敵に回してしまい、何もできなくなってしまうよ」
やがてコールはマドュンの意図に気がつき、感謝を述べたものの、自分は歩みを止める気はないと伝えた。
マドュンとの同盟を諦めたコールは、よく内情を知るダッチ・シュルツの縄張りを切り崩すと決めた。
コールはシュルツを倒すと公言するようになり、それを聞いたシュルツは暴力で応じる構えをみせる。
こうしてコールとシュルツの戦争が始まったのである。
コール・シュルツ戦争
二人の戦争が始まると何人ものギャングが白昼堂々射殺され、さらに何人ものギャングが電気椅子で処刑された。
お互いに多くの死者を出したが、戦況はコールに傾いていた。
コールはシュルツの酒輸送用トラックを26台もハイジャックし、同業者に格安で販売。
さらにハイジャックに抵抗する運転手は殺害し、おまけにシュルツの酒倉庫を全て焼き払った。
こうした作戦でシュルツ一味が疲弊してくると、次は組織の幹部クラスを無差別に暗殺。
最後に仕上げとして、シュルツ自身にもヒットマンを放った。
だがシュルツも武闘派で知られたギャングである。
一連の報復として、シュルツはコールの弟ピーターを狙った。
1931年5月30日、ハーレムで車を運転していたピーターは現れた数人の男によって蜂の巣にされてしまう。
加えて、シュルツはコールの首に懸賞金をかけた。
殺戮マシーン
ピーターが殺された次の三週間。
コールはマシンガンを持って街を徘徊し、シュルツの部下20人を殺害。
シュルツが支配していたハーレムやブロンクスの酒店のオーナーには「街を出ていかなければ殺す」と告げ、無理矢理に店を強奪した。
6月2日には、シュルツの倉庫を強襲。
スロットマシン120台とトラック20台を破壊した。
1932年にはコール配下の店はニューヨーク中に点在するようになり、そのビジネス規模はシュルツにも匹敵した。
一方、シュルツは数人の警官に大金を渡して、コールを殺害するように持ちかけが、警官はその申し出を断った。
この時点で、コールは武力と財力共にシュルツやルチアーノなどと肩を並べる存在に。
シュルツはコールを恐れるようになり、縄張りの一部を明け渡した。
マドュンとの確執
コールはシュルツの縄張りを奪っただけでは満足しなかった。
次に始めたのはシュルツの部下を誘拐し身代金を要求するというビジネス。
断ればシュルツの人望は無くなるし、かといって警察に駆け込むこともできない。
このギャング誘拐ビジネスはコールの得意分野となる。
1931年7月、コールはジョージ・“ビッグフレンチ”デマンジュというアイリッシュギャングに電話をかけ、話があると呼び出し、そのまま誘拐。
デマンジュはその日の夕方に、身代金と引き換えに釈放された。
支払ったのはデマンジュの親友マドュンだった。
誘拐ビジネス
誘拐ビジネスの簡単さに味を占めたコールは暴力的な男という評判を利用し、殺しの請け負いや著名人の誘拐を始める。
殺しはマフィアのボスからの大型案件のみ請け負う、誘拐のターゲットはショービジネス界の著名人のみ。
どちらも桁違いに儲かるビジネスだった
コールの殺しの報酬は当時としては破格の5万ドルだったという。
誘拐ビジネスではルディ・ヴァリーを誘拐し、10万ドルを要求。
次にニューヨークで最も有名なレストラン「ストーク・クラブ」のオーナー、シャーマン・ビリングスレイを誘拐し2万5千ドルを受け取った。
三度目のターゲットはニューヨークの銀行家であるビリー・ウォーレンで、身代金は8万3千ドル。
他にもコールに誘拐された人物は数知れないが、表沙汰になっているのはこの三件のみである。
誘拐の被害者たちは、誰も警察に通報したり、メディアのインタビューに答えたりしなかった。
そんな事をすればコールに殺されてしまうからである。
しかも、身代金として渡したのは脱税して溜め込んでいた現金であることが多く、コールに多額の現金を渡したことを通報すると、自身も起訴される恐れがあった。
実の所、コールはこうした裏事情まで読んでおり、脱税をしている著名人ばかりをターゲットにしていたという。
このように誘拐ビジネスは順調そのものだったが、コールはもう一つのビジネス、 殺しの請け負いで致命的なミスを犯してしまう。