マイヤーランスキーと刑務所

マフィアの会計士

約70年前、マフィアの金庫番を務めた男、マイヤー・ランスキーはニューヨーク州北部のギャンブル・ラケットの取り締まりで法的な打撃を受けた。

そして結果、彼にとって最初で最後の懲役刑に処されることになった。

1952年末、絵のように美しいサラトガスプリングスで、違法賭博事業に関わる数十人のヤングが逮捕された。

マイヤー・ランスキーは、このときまで大きな犯罪で有罪になることはなかった。

しかし捜査の結果、1953年5月に彼の連勝記録は破られた。

俗に「レイクハウス」と呼ばれた店は、一流の料理と一流のエンターテイメントでよく知られていた。また、日没後、レイクハウスでお酒とゲームに興じることができるのは公然の秘密であった。

パイピング・ロック、ライリーズ、ブルック、アローヘッド・インなどがその代表的なスポットである。


サラトガのギャンブルの裏側は、裏社会の悪名高い人物が関わるようになるずっと以前から続いている。

その始まりは1920年代、マンハッタンで最も悪名高い金融業者、アーノルド・ロススタインがこの地域に資金を投入したことだ。

しかし、1950年にマフィアの取り締まりが始まると、サラトガに対する警察の関心は、避けられないものになった。

1951年末に特別大陪審が開かれ、レイクハウスでの違法行為が調査された。

1952年9月、52ページに及ぶ文書に、共謀者とされる人物(ほとんどの名前はまだ匿名扱いにされている)、およびさまざまなレイクハウスのリストが掲載された。

ランスキーは、アローヘッドイン(1947年以来閉鎖されていた)の運営に携わる人物として掲載され、偽造、陰謀、賭博で起訴された。

21件の起訴状では、「アローヘッドはL&L社の所有のもと運営されており、本質的には偶然を装ってカジノを開き参加させるのを目的としている」と記された。

起訴状が出るとランスキーは積極的な行動をとり、すぐに名乗り出た。

1952年9月10日、弁護士のモーゼス・ポラコフに連れられて、ランスキーはニューヨーク州警察に自首した。

すぐにボールストンスパで罪状認否が行われ、1万ドルの保釈金で釈放された。

罪状のほとんどは軽犯罪であったが、例外として、夏期酒類販売免許の署名を重罪で入手したことに対する第3級偽造の罪があった。

ランスキーの事件は、最も多く報道されたとはいえ、最初の事件ではなかった。

アローヘッドの起訴が明らかになったとき、検察はすでに他のレイクハウスや関係者、共犯の政治家に関連する40件の起訴を行なってたのだ。

この捜査に関する報道では、ランスキーがラッキー・ルチアーノ、フランク・コステロ、ジョー・アドニスと関係していたことが頻繁に取り上げられ、見出しに華やかさを添えた。

興味深いことに、彼らもサラトガのナイトクラブに一度は金銭的な利害関係があったという疑惑があるにもかかわらず、この3人の名前は起訴状には一切出てこなかった。

ちなみにこの頃、ルチアーノは1946年以来亡命してイタリアに移住。コステロは議会侮辱罪で18ヶ月の服役中、アドニスはニュージャージーで無関係な賭博の陰謀で裁判にかけられていた。

政府のサラトガ捜査は、マフィアのもう一人の有名人であり、アローヘッドインの共同経営者であるジョセフ・”ドク”・スタッカーをターゲットにした。

スタッカーは時間を稼ぐためにラスベガスに身を潜め、ランスキーとともに裁判にかけられるのを避けていた。

1953年2月19日、一方ランスキーは法廷に戻り、5件の賭博と陰謀の罪を認め、すべて軽罪となった(重罪の偽造罪は取り下げられた)。

他に起訴されたのは、ルイス・「ドク」・ファローン、ジェラード・キングとジョン・キング、トーマス・オブライエン、ハーマン・ワイナー、ジョージ・ブラウン(後の2人も有罪を認めた)。

そして5月2日、州最高裁判所のレオ・J・ハガティ判事は、ランスキーに懲役3ヶ月(サラトガ郡刑務所)と罰金2500ドル(各訴訟で500ドル)の判決を下す。

裁判官は被告人に対し、30日以内に身辺整理をするよう告げた。

服役の中で

1953年のランスキーの服役は、彼の犯罪歴の中で唯一の服役であったことを差し引いても、異常なことであった。

投獄とその後の釈放はほとんど話題にならず、その短い獄中生活は謎に包まれたままである。

そこで、当時を紐解くいくつかの資料を紹介しよう。

しかし、近年見つかったランスキーのFBIファイルには、「は40日間の刑期と3年間の執行猶予を言い渡され、収監中の1953年7月にはサラトガの病院で腎臓の感染症の治療も受けた」と記されている。

また1991年のランスキー伝記『Little Man』には、「ランスキーと共同被告人のジェラルド・キングが刑務所でかなり気楽な時間を過ごし、配達された食事を食べ、基本的に監房を自由に使っていた」とが書かれている。

さらに、2017年のニューヨーク・デイリーニュースの記事によると、ランスキーの服役期間はそれよりもさらに短かったという。

「彼は24日間服役した」

ちなみに公式の文書、1961年の麻薬局のファイルには、「1953年7月21日頃、マイヤー・ランスキーは釈放された 」と不確かなニュアンスで記されている。

とにかくサラトガの他の裁判はその年中続き、最終的にはランスキーのパートナーであるドク・スタッカーが逮捕された。

9月までに、ランスキーは自由の身となり、ハバナで本格的に動き出したとされていたが、サラトガでの法的苦難はまだ終わっていなかった。

連邦政府は238,791ドルの税金の先取特権を課し、彼を国外退去させようとしたのである。

また、追い打ちをかけるように判決には罰金総額28,000ドル(ドク・スタッハー一人で10,000ドルの罰金)が含まれていた。

その後、特別検察官ポール・W・ウィリアムズは、「サラトガ郡のすべてのカジノと賭博場を一掃して閉鎖した 」と発表。

サラトガのレイクハウスは姿を消した。

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