マッドドック・コールpart2
マッドドック・コールpart2
本日も凶暴すぎるギャング、ウィンセント・コールをご紹介!
前回までのあらすじはこちら→マッドドック・コールpart1
卑怯もの
誘拐、暴力、殺し、あらゆる手段で金を稼いだヴィンセント・コールは、ダッチ・シュルツやラッキー・ルチアーノに匹敵するギャング団のリーダーとなった。
しかし、シュルツやルチアーノとコールには決定権な違いがあった。
それは誰からもリスペクトされていないということである。
当時の新聞は派手かつ謎目いていているギャングたちのニュースを大々的に報じていた。
そして新聞が報じた悪評からシュルツやルチアーノは恐れられる存在となったのだ。
しかし、コールの誘拐ビジネスや殺しの請け合いはひっそりと行われる類いの仕事であったため、新聞に報じられることはほとんどなかった。
そしてもうひとつ。
コールは端からみれば、ただの若いチンピラにしかみえなかったのだ。
そこでコールは大金を費やし、一流のスーツ、一流の帽子を買いそろえた。
が、しかしコールの見た目は“若いチンピラ”から“派手なチンピラ”に変わっただけであった。
ニューヨークのナイトクラブのオーナーはルチアーノやシュルツが現れると心から歓迎し、VIP待遇で迎える。
しかし、コールが現れるとオーナー達はVIP待遇で迎えるものの、腫れ物を扱うように接するのだった。
ある時、コールはガールフレンドのロッティ・クライスバーガーを伴って、ブルックリンで開催されたアイルランド人のための募金パーティーに参加した。
このパーティーは、アイルランド移民が企画したもので、火事ですべての持ち物を失った家族のためのものだった。
コールは同郷のもの達なら、自身の成功を誇りに思ってくれるだろうと信じて疑わなかった。
しかし、いざパーティーに行ってみるとコールは軽蔑の眼差しで見られ、話しかけてくれる人もいないという有り様だった。
コールはこのとき初めて、誰にも好かれていないのだと確信した。
派手な衣装でパーティーに現れたコールは、まるでピエロのようでもあった。
さらにコールを傷つけたのはいとこの存在だ。
パーティーにはコールのいとこが何人か出席していたのだが、彼らはコールに話しかけるのが恥ずかしいと感じ、終始無視し続けた。
コールと同じグウィードアの移民たちは彼を憎んでさえいた。
アイルランド系アメリカ人の新聞では、コールの犯罪が報じられることこともあったのだが、その時、新聞はコールを“グウィードアのギャング”と呼んだ。
その呼び方はグウィードアの移民全員が野蛮であるとの偏見に繋がっていたのだ。
後にコールは自分の見下した者達についてこう話している。
「奴らは俺の成功に嫉妬している小さな貴族だ。
彼らは野心がなく、自分のようにスターを目指すのではなく、わずかな週給に甘んじている。
また、彼らは警察を恐れる臆病者でもある」
危険過ぎる男
ニューヨークのマフィアのボスたちは、コールが暗黒街の秩序を乱す厄介者だと考えるようになっていた。
この懸念はすぐに現実のものとなる。
1931年7月28日、コールとその部下たちは、シュルツ一味のアジトを襲撃した。
まずアジトである社交クラブの前で見張りをしていた男を射殺しようと、マシンガンとショットガンを乱射するも失敗。
たちまち激しい銃撃戦となり、近くで遊んでいた子供4人が流れ弾に。
コール達は急いで逃亡し、後に子供達の一人が死亡した事を知らされた。
死亡したのは5才の男の子であった。
この男の子の死によって始めてコールは新聞の一面を飾ることになった。
不名誉な形で。
警察、政治家、新聞あらゆる方面からコールは“市民の敵である”と避難を受けることに。
そしてマフィア達もこの世論に同意し、共同で「コールを殺したら4万ドル」とのメッセージを発表。
これを聞いたニューヨーク市はさらに1万ドルを支払うと、コール抹殺を後押しした。
コールは堪らず、ニューヨーク州北部に逃走。
部下たちも散り散りに隠れ家へと潜っていくのだが。。
バッシング
新聞はコールを“ベイビーキラー”と呼び、毎日のように紙面をコールの悪評で埋め尽くした。
ラジオは彼を「アメリカ最悪の犯罪者」と呼び、FBIは「パブリックエネミーリスト」の1位にコール挙げた。
ニューヨークのウォーカー市長は、コルを「マッドドック」と命名。
これ以降、コールは“マッドドック・コール”と呼ばれるようになる。
一連の大バッシングの裏にいたのは、正義感に燃える政治家やマスコミではなくマフィアであった。
「彼は金額次第でマフィアのボスも殺す」
こうした評判が広がるにつれて、コールはマフィアからも恐れれる存在になっていたのかもしれない。
とにかくマフィア達は各所に金をバラまき、世論を煽り続けた。
再挑戦
散り散りになったコールと部下たちは、バッシングの間どうしていたのだろうか。
コールたちはバッシングを名誉な事だと感じ、有頂天になっていた。
さらに、コールの悪評に惹かれて北部にはニューヨーク中からギャングたちが集結した。
単なるチンピラから“マッドドック”に出世したコールは組織の建て直しを誓う。
まずコールは、アイルランド系ギャングのレッグス・ダイアモンド接近。
「一儲けできるぞ」と、共同でビジネスを広げようと持ちかけた。
だが、この儲け話は実現しなかった。
1931年10月4日、コールを捜索していた警察がコール一味の大半を逮捕。
数日後にはコールとレッグス・ダイヤモンドが密会している現場を抑え、両方を逮捕した。
捕らえられ、死刑殺人の容疑で書類送検された。
コールは男の子を殺害した罪で起訴され、新聞は“死刑確実”と報じたのだが。。
裁判
コールは、誘拐事件で得た多額の現金を元手に、ニューヨーク有数の弁護士サミュエル・リーボウィッツを雇っていた。
有罪になれば死刑が決まっているコールには無罪を勝ち取る以外に道はない。
三ヶ月後に裁判が始まると、コールは「自分は子供の殺害とは無関係だ」と主張。
「子供はシュルツ一味と対立するギャングの銃撃戦で殺された。
だが、警察はシュルツから金をもらっていたので私に殺人の罪を着せようとしたのだ」と言い放った。
対する検察側の主張はこうだ。
「車の中にいたコールがマシンガンを使って通りを銃撃し、そのうちの1発が子供を殺した」
ただし、殺害を裏づけるのはたった1人の目撃者、ジョージ・ブレクトの証言のみだった。
弁護士リーボウィッツは、ジョージには長い前科があり、別の裁判で証言台で偽証したことがあることを明らかにし、証言の信憑性を落とすことに成功。
コールは無罪となる。
だが納得のいかないニューヨーク市警察は、コールが銃を不法所持していたとして別件逮捕した。
再び捕らわれたコールに警察が「おい、ベビーキラー」と声をかけたとき、彼は怒り「私はベビーキラーではない」叫んだという。
その後すぐに釈放されたコールはファッションデザイナーのロッティ・クライスバーガーと結婚した。
ちなみに逮捕されたレッグス・ダイヤモンドも陪審員を買収し無罪となったが、その後、彼を厄介視するマフィアに殺害されている。
コールはダイヤモンドの殺害について、マスコミにコメントを発表した。
「陪審員によって無罪になった男が、ギャングによって処刑されるのはフェアではない」
コールは、ギャングは法と秩序を重んじるべきだと考えていると言ったが、皮肉なことに、彼は世界で最も法と秩序を重んじていない人間だった。
二匹目のドジョウ
無罪放免となったコールが最初にしたことは、オウニー・マドュンに5万ドルを渡さなければ殺すと脅迫することだった。
コケにされていると感じたマドュンはすぐさまコールに5万ドルの懸賞金をかけると発表。
これに触発されて、全米の賞金稼ぎたちがニューヨークに集まり、コールを追いかけることに。
さらにマフィアたちもマドュンに殺し屋を貸し出した。
その頃、警察は別のアプローチを試みていた。
警官たちは街中でコールを見かけるたびに尋問などの嫌がらせを行い、彼をニューヨークから追放しようとしたのだ。
さすがのコールも警官たちの振る舞いに激怒し、マスコミにこう話した。
「自分は人を殺して有罪になったことはないし、オウニー・マドュンをはじめとするマフィアのボスたちは何人もの殺人事件を起こしている。
マフィアのボスは何人もの人を殺している、でも警察や政治家、マスコミは彼らを尊敬して接しているのに、自分はまるで変質者のように扱われている。
カトリックの聖職者も、ギャングが違法行為で金を稼いでいることを知っていながら、死んだギャングのために手の込んだ葬儀を認めているだろう」
コールは長々とマスコミに向けて抗議を垂れたが、コメントは揉み消されうやむやとなった。
次回、ついにマフィアとコールの全面戦争が勃発し。。?