三分で学ぶ ハリー・ベネット

三分で学ぶ ハリー・ベネット

三分で学ぶ フォード社を支えたマフィア ハリー・ベネット

マフィアグッズ専門店
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今回はフォード社を支配したマフィア ハリー・ベネットを紹介していきます。

※フォード社は素晴らしい会社です。
怒らないでください。。

ハリー・ベネットの経歴

ハリー・ベネットは1892年に誕生した。

ごくごく普通の子供として育った彼は学生時代、優秀なボクサーとして活躍した。

ベネットの経歴には謎が多いのだが、ボクシングを通じてマフィアと関わりを持ちはじめた可能性もある。

卒業後は第一次世界大戦へと出兵。海軍に配属された。

フォードとの出会い

ヘンリー・フォード

1900年代、かの有名なフォード社は警備部門の拡大に力を注いでいた。

当時、労働組合によるストライキが社会問題となっており、社長のヘンリー・フォードはその対処法として暴力を選んだのだ。

しかし労働組合の勢いは収まらず、フォード社の工場の生産性は著しく低下して行く。

そこでヘンリー・フォードは労働組合を叩き潰してくれるような男を探していた。。

1916年、ハリーは街頭で男と喧嘩になりこっぴどく叩きのめした。

ハリーは警察に連行されそうになったのだが、バーニー・ガーズという男の口利きにより無罪方面となる。

バーニーは新聞社の社員だったのだが、フォードとコネがあり、“労働組合を叩きのめせる男”を探していることを知っていた。

さらにバーニーはちょうどフォード社へと向かう途中であった。

そんな訳でその日の内にハリーはヘンリー・フォードに紹介された。

ヘンリー・フォードは面接として一つだけ質問をした。

「人を撃てるか?」

「もちろんだ」と即答したハリーを気に入ったフォードは、彼を警備部門の管理者として雇った。

ハリーの王国

ハリーは警備部門の主任となると、権限を使いあらゆるギャングやならず者を雇いはじめた。

これによりストライキを企んだものは血祭りにあげられ、フォード社の賃金は二度と上がることはなかった。

こうしてハリーはフォード社を恐怖で支配するようになり、好き放題に振る舞いはじめた。

まずハリーはフォード社に射撃場を作った。

それだけでは飽きたらず、自室に的を設置しいつでも射撃を行っていたという。

当時のフォード社の社員はこう話している。

「ハリー・ベネットは、自分の足を机の上に投げ出して座り、部屋の反対側に置いたターゲットを撃っていた。
彼の部屋に入る場合には、必ずノックしてからでないと流れ弾に当たる可能性があったよ」

さらにハリーは“裏フォード”の販売を始める。

ハリーはフォード社の工場から車を持ち出し、こっそりと販売を行っていたのだ。

持ち出された車はジョー・アドニスなどのマフィアが格安で購入し、裏ルートで販売されていた。

ジョー・アドニス

裏フォードの儲けは主に別荘の購入に当てられたそうだ。

ハリーは用心深く、自宅や別荘の警備にかなりの金をかけていて、ある別荘の入り口と玄関を繋ぐ橋にはいつでも落とせるように爆弾が仕掛けてあった。

幸いハリーの別荘が襲撃されることはなかったが。

ハリーはマフィア達の身内といえるほど深い関わりを持っており、FBIは報告書に「ハリー・ベネットとヘンリー・フォードはデトロイトファミリーとも深い関わりがある」と記している。

逮捕こそされていないもののハリーとフォードは様々なマフィアと裏取引を行い、いくつかの殺人にも関与していたのだ。

動物好きのハリー

ハリーは動物好きとしても知られていた。

あらゆる種類の動物を自宅で飼育していたのだが、その中でも一番のお気に入りはライオン。

よくハリーはライオンを伴って出社していた。

また警備部門室ではオウムが飼育されていた。

オウムはハリーの真似をしていつも『ぶっ殺すぞ!』『くたばれ!』と話していたという。

高架の戦い

1932年3月7日、順調に売り上げを伸ばしていたフォード社に大事件が起こる。

かねてから賃上げを要求していた全米自動車組合のメンバー9千人がフォード社の工場へ行進し始めたのだ。

組合メンバーが到着すれば工場は破壊されてしまう。そう考えたフォードはヘンリーに「奴等を止めろ」と指示を出した。

命令を受けたハリーはギャング2千人を召集、全員に武器を持たせ行進ルートの様々なポイントで待機させた。

そして組合メンバーがポイントに到着したとき、四方八方からギャング達が襲いかかった。

現場は6千人が入り乱れる大乱闘となり多数の重傷者が出た。

そして、乱闘の最中4人の組合メンバーが射殺された。

当時、行進に参加した労働者は事件を「一方的にやられた。虐殺のようだった」と振り返っている。

この事件は命かからがら撮影を行ったカメラマンの活躍により全国紙の一面を飾ることに。

当然ながらフォード社のイメージは最悪の状態となった。

フォードの社長になる

フォードの風刺画

1943年、フォード社の社長であったエドセル・フォード(ヘンリーの息子)が死去すると、ヘンリーは次期社長にハリーを指名した。

しかし、これにフォード一族は大反対。

エドセルの妻は「お前のせいで夫は早死にしたんだ!」とハリーを罵った。

だが結局、ヘンリー・フォードは反対を押しきりハリーを社長に任命した。

しかし、1945年9月フォード一族の策略によりハリーは役職を解任され追放に。

社長の座はエドセルの息子、つまりヘンリーの孫であるヘンリー・フォード二世へと渡った。

ハリーは去り際、ヘンリー・フォード二世に「お前は何も知らないボンボンのくせに社長になるのか」と言った。

これを聞いたフォード二世は命を狙われるのではと震え上がったという。

しかしハリーにそんな気はなかった。

最後の出社日、ハリーは自身に関連する書類を全て焼き払い、引退を宣言した。

その後のハリー

1951年、ハリーはマフィアについて調査を行っていたキーフォーヴァー委員会に召喚された。

それ以外は至って平穏な日々を送り、1975年に脳卒中で亡くなった。

80歳で亡くなるまでは健康そのもので、悠々自適な生活を送った。

好き放題やっていたハリーだが、ヘンリー・フォードへの忠誠心は本物だったのではないだろうか。

だからこそヘンリーはハリーに重大な決定を任せることができたのだ。

ある時、ジャーナリストがハリーへのインタビューを行いこう尋ねた。

「ヘンリー・フォードが明日、空を暗くするように頼んだら、あなたはどうしますか?」

ハリーはちょっと考えてから、こう答えた。

「それには少し苦労するかもしれない。明日は10万人の労働者が暗い眼鏡をかけて工場の門を通り抜けるのを見るだろう」

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