三分で学ぶ! ファイブポインツギャング
ファイブポインツギャング
《マフィアの発祥》というと、シチリアの話がよく紹介されますが、こちらもマフィアの成り立ちを語るには欠かせない物語。 という訳で、ファイブポインツギャングについてざっくり解説していきます。
ファイブポインツとは?
ニューヨークのスラム街。五つの通りが合流する事からそう呼ばれている。
是非、開いて下さい↓Googleマップです。
https://goo.gl/maps/FwafYeQNHZahMjM19
この辺りの区画がファイブポインツ↑
少し上にリトルイタリー、右にはロウワーイーストサイドがありますね!
治安がめちゃくちゃ悪い事で知られ、1830年頃には既にギャング達が闊歩していたそう。
飲み屋や売春宿が立ち並び、多くののギャングチームが活動していました。
ファイブポインツギャングのギャング達
当時、ファイブポインツと周辺地域には個性豊かなギャング団が多く乱立していた。
「フォーティ・シーヴス」「デッド・ラビット」「プラグ・アグリーズ」
などなど。
そして、ギャングの多くはアイルランド系でした。
そこに1880年代、新しい形態のギャング団が誕生します。
彼らはただのチンピラ集団ではなく、暴力をビジネスとしていました。
それが後のファイブポインツギャング。
そんなファイブポインツギャングの価格表がこちら
・パンチ 2ドル
・ボコボコにする 4ドル
・鼻と顎を折る 9ドル
・ブラックジャックで殴る 15ドル
・耳を切り落とす 15ドル
・腕、又は足を折る 19ドル
・足を撃つ 25ドル
・ナイフで刺す 25ドル
・それ以上 (意味深) 100ドル~
その他、彼らは政治家からの依頼を引き受けたり、強請などでもたんまり稼いでいた。
このファイブポインツギャング団を率いたのは、ポール・ケリーというギャングでした。(諸説あり)
ポール・ケリー
ポール・ケリーは、そこいらのギャングとは一線を画す男だった。
ケリーは頭脳明晰で3ヵ国語を話したと言われている。
私生活では、読書とオペラを好み、話し方はおだやかで、常にビシッとスーツを着こなし、紳士。
その後、ケリーは激しさを増す争いを嫌い、第一線からは身を引いたものの、死ぬまでマフィアとして活動を続けた。
そういった当時のギャングらしからぬ部分に感銘を受けた、ジョニー・トーリオがそれを見習い、後にトーリオからアル・カポネ等多くのギャングに伝えられて行くのでした。。
ファイブポインツギャングは、マフィアの登竜門とも呼ばれており、ラッキー・ルチアーノやアル・カポネ、フランキー・イエールなども所属していた。
※ポール・ケリーについては謎も多く、ファイブポインツに所属していなかった、など諸説ある。
また、マイヤー・ランスキーも所属したという説も
所属したかはわかりませんが、ユダヤ系のマイヤー・ランスキーとバグジー・シーゲルはイタリア系のラッキー・ルチアーノと組んで、アイルランド系と争ったそう。
この時代よりもずっと昔、マフィア始まりの歴史はこちらから