マイヤーランスキーPart5
マイヤー・ランスキーpart5
1952年の夏、マイヤー・ランスキーは50歳の誕生日を迎えた。
と同時に、投獄されるという可能性について考えていた。
その前年の夏に大陪審がサラトガのギャンブルを調査し始めており、中でもアロ―ヘッド・インに焦点を絞っていたのだ。
そこは5年前にランスキーがジョー・アドニスの友人でパートナーであるジェームズ・「ピギー」リンチとともに経営していたカジノだった。
1952年9月10日、マイヤー・ランスキー、リンチ、そして他に5名が陰謀やギャンブル、偽造の疑いで起訴された。
偽造の疑いはアロ―ヘッドが1947年夏に提出した酒類販売免許がサラトガのパートナーの名義で書かれており、ランスキーやリンチの名前が載っていなかったことが原因だった。
それを偽造と呼ぶのは少々大げさで、裁判になる前にモーゼス・ポラコフが無事、取り下げさせたのだった。
ポラコフはランスキーからギャンブルの容疑も外せる自信があった。
それは大陪審の証言の中でランスキーがゲーミング・ルームとではなく、アロ―ヘッドのレストランと繋がっている記述しかなかったからだった。
ポラコフは振り返った。「勝てたはずだった。だが裁判になる可能性を彼が嫌がった。」
裁判となれば注目が集まり、証言によって他の者が有罪となるかもしれない。
ランスキーは有罪を認め、1953年5月2日、2,500ドルの罰金と3ヶ月の懲役を言い渡された。
裁判長は身辺を整えるために数日の猶予を与えたが、ランスキーはそれを辞退。
これは一刻も早く、ハバナの観光シーズンまでに自由となる為である。
郡裁判所の真裏に刑務所のあるボールストン・スパから8マイル運転してサラトガ・スプリングスへ買い出しへ行き、その日の午後には本を2冊抱えて刑期を始めに戻ってきた。
2冊は英語の辞書と、欽定訳聖書の改訂版だった。
郡刑務所へランスキーと共に入ったのはジェラード・キングだった。
サラトガ・スプリングス出身の彼は地元の商人たちを相手とする通年営業のレイク・ハウス、ニューマンズの経営者だった。
2人は隣り合う独房に入れられ、他に囚人もいなかったのでその独房棟を自由に行き来することができた。
互いを訪ねることも、廊下を歩くことも。
キングはマイヤー・ランスキーに会うのはこれが初めてだったが、ほどなくしてランスキーが運動マニアであることを知った。
彼の記憶に残るランスキーは小柄でありながら筋肉質で、運動のために独房棟を速足で端から端まで往復しつつ、年下のキングにも同じことをするよう勧める男だった。
「一緒に美容体操をしていた。」とキングは振り返る。
「こう並んで立って、腕を前後に振る運動をした。」
ランスキーが若い彼を指導する様から、ジムの常連であることは明らかだった。
キングはマイヤー・ランスキーのことをこうも思い出す。
「彼のことは好きだった。紳士だったし、約束を守った。彼の言うことは信じられた。」
ジェラード・キングは当時レイク・ハウスでギャンブル経営をしていた以外は法を犯したことのない比較的真面目な市民。
刑務所で過ごした1ヶ月を「ボールストン大学に就学していた時期」を自嘲的に振り返る。
本をたくさん読み、時々算数ゲームで遊んだ。
マイヤーは7つか8つの数字を横一列に書くように指示し、同じだけ縦にも展開させた数字ブロックを書かせた。
それからランスキーは右上の数字から初めて数字の列を上下に指でなぞっていき、まるで計算機のように素早く合計を計算していくのだった。
「マイヤー、間違えてるんじゃないの?」とキングが時々、口を挟むと、
「確認してごらん。」とランスキーはそう答る。
キングが鉛筆と紙でひとつひとつ足していくと、いつもランスキーの足し算が合っているのだった。
地元の人間だったキングは毎日ボールストン・スパ刑務所へ見回りに来る看守とも知り合いだった。
ある日ランスキーが驚いたことに、古い知り合いのジェラードの様子を見に地方検事が自らやってきた。
裁判所での仕事を切り上げてきたのだと言う。
「ここはサラトガだからね。」のちにジェラードはランスキーに語った。
「よそとは少し違うんだよ。」と。
キングは近くのレストランから昼食と夕食を取り寄せ、三人は品書きの吟味で大いに盛り上がった。
ランスキーは注文を取り仕切りたがるところがあった。
「彼はラムチョップが大好きだった。」とキングは振り返る。
週に二度か三度、ランスキーは10時ちょうどに刑務所内の公衆電話からニューヨークの息子バディに電話をかけた。
前夜の株式市場の終値を聞き出すためだった。
バディはニューヨーク・タイムズの経済欄を開いて準備していた。
ランスキーはいくつかの上場企業の株を所有していた。
リパブリック・エイヴィエーション、いースターン航空、バリウム・スチール、IT&T、船舶会社のU.S.ラインズなど。
ボストンの友達、ジョー・リンゼイがニュー・イングランドで経営するワンダーランドとリビア―という競馬場・ドッグレース場の株主でもあった。
1953年のランスキーの納税申告書には株式取引の詳細が記載されている。
1935年や1936年頃に買った株の8件の売却が記されており、6,800ドルで買い22,100ドルで売却、つまり15,300ドルの資産売却益だった。
それはありがたい収入だった。
1990年の価格に換算すれば100,000ドルである。
だがそれはランスキーがいくらかチップを現金化していることを意味していた。
エステス・キーフォーヴァーは意味のある法律を制定するには至らなかったが、大衆の憤慨に気圧されて国内のいくつかの「あからさまな」ギャンブル地帯は取り締まられていた。
ハランデールではボエムとグリーンエイカーのクラブが閉鎖され、1950年9月にはランスキーやジェイクやジミー・ブルーアイズを含む何人かの経営者たちがギャンブルで起訴され、罪状を認めていた。
罰金はそれぞれ1,000ドルから3,000ドルまで様々だった。
ランスキーは最終シーズン(1950年)にボエムとグリーンエイカーズあわせて22,000ドルもの収入を申告していたが、それ以降に内国歳入庁へ申告されたのは目立たない金額ばかりである。
1951年に1,200ドル、1952年に1,500ドル、いずれも株配当金であった。
1953年にはランスキーは正当な収入源を示さなければならなかった。
ランスキーに限らず、キーフォーヴァーの前で証言した者たちは殆ど内国歳入庁から税申告を厳しく調査されていた。
ランスキーはそれまでずっとキャッシュで生きてきた。
ニューヨーク、ニューアーク、ボストン、フロリダのハリウッドの銀行に合計で少なくとも5つの貸金庫に金を預けていた。
銀行口座に金を預けるとそれは常にシンプルな現金取引として記録された。
戦後、コロニアル・インや他のカーペット・ジョイントの売り上げがピークであった1944年3月から1947年12月の期間にランスキーがニューヨーク製造業者信託と行った取引を見ると、一度につき700ドルから16,000ドルずつ、合計119,000ドルを預け入れていることが分かる。
46ヶ月間の取引を月あたりに平均額に算出し直すと、月あたり2,500ドルと少しの預金となる。
ボールストン・スパ刑務所でジェラード・キングと交わした会話の中ではランスキーは歳入庁と税申告のことはあまり心配しているように見えなかった。
移民局の方が気がかりだったからだ。
「ロシアに送還されることを危惧していた。」
キングはそう振り返る。
移民帰化局は司法省に所属する組織だった。
J・エドガー・フーバーが争点にした通り、FBIがランスキーやコステロ、アドニスら上院議員犯罪委員会にやり玉に挙げられた人物たちをそれ以上追及することを可能にする連邦法は存在しなかった。
よって、移民帰化局が介入したのだった。
ランスキー・コステロ・アドニスは三名とも移民としてアメリカに来た経緯があるということで、移民帰化局がそれぞれの過去を調べ始めた。
ジョー・アドニスはターゲットとしては最適だった。
アメリカ市民権があるとキーフォーヴァーに宣誓していたが、実際には帰化の手続きをとっていなかった。
偽証罪の有罪判決を受け、望ましくない外国人として1954年にイタリアへと強制送還されたのだった。
フランク・コステロとマイヤー・ランスキーは同じ轍は踏んでいなかったものの、2人とも帰化の手続きを取る際に自身の犯罪歴を明らかにしていなかった。
その罰は強制送還。
キーフォーヴァーの調査の後、移民帰化局は2人の調査書を準備していた。
ランスキーの調査を任されたベンジャミン・エーデルスタインは特に入念なエージェントだった。
エーデルスタインの最も有力な証人は、彼がシンシン刑務所に居場所を突き止めたダニエル・エイハーンだった。
人生の殆どを牢屋の中で過ごしていた彼は喜んでランスキーの記憶を引っ張り出して協力した。
ピークスキルで整備士長を鉄パイプで襲撃したこと、闇の中で車から放り出されたジョン・バレットに発砲したこと、またその後入院していたバレットに「毒入り」チキンを食べさせようとしたこと。
エイハーンの証言は信頼度が高いわけではなかったが、エーデルスタインが調査を進めるうちにジョン・バレット本人に行き当たった。
そして、負傷した彼が病床で証言した時の相手、つまり殺人の容疑でランスキーたちを起訴しようとしたハインリヒ刑事も見つけることができた。
当時、バレットは不可解なほど180度考えを変え、証言することを拒んだのだ。
それはマイヤーに脅されたことが原因だと思われた。
エーデルスタインはバグジー・シーゲルの未亡人、エスターとも接触し、彼女は自分の結婚式でランスキーが仲人であったことを聞き出した。
そして、一人目のランスキー夫人にインタビューすることにも成功。
ランスキーは1929年の結婚の数ヶ月前に帰化手続きをした際は職業を工具金型屋として申告していたが、元ランスキー夫人はそのような人と結婚したことはないと否定した。
市民権を申請する際にランスキーはほかにも隠し事をしていたのではないかと疑う一方で、ベンジャミン・エーデルスタインは元ランスキー夫人の証言の正確さは少し疑っていた。
彼女について「かなり変わっていた」と記述されている。
アンは歳入庁の男とのインタビューの最中、部屋を真っ暗なままにすることにこだわっていた。
ランスキーが投獄されていた1953年の5月と6月(模範囚であったため刑期が一ヶ月短縮されていた)、帰化局は彼を起訴しなかった。
しかしランスキーは調査員たちが彼のことを調べ上げていることを知っていた。
エーデルスタインはアーヴィング・「タボー」・サンドラーと接触しており、タボーはすぐに従兄弟であるランスキーにインタビューされた内容を警告していた。
ボールストン・スパで欽定訳聖書と共に過ごした数週間は、内国歳入庁が国籍はく奪に乗り出した場合の結末に比べたら生ぬるい気さえしていた。
ジェラード・キングはランスキーがたびたび物思いにふけるのを見たという。
「ロシアにいた頃の祖父の話をよくしていた。とても素晴らしい人だったと。」
マイヤー・ランスキーはまた、50歳になったばかりの人間としてはいささか気の早い願望も口にしていた。
祖父と同じ埋葬がいい、と言っていた。イスラエルのエルサレムで
テディ・ランスキーは夫の服役中、ほとんどの時間をニューヨークで過ごして、15歳になったランスキーの娘サンドラの世話をしていた。
再婚を下の子供たちから隠そうとしたランスキーの計画は大きな失敗に終わっていた。
ポールは学校の友達を通じて父の再婚を知り、怒りに震えながら事実確認の電話を父にかけた。
サンドラの反応はそこまで分かりやすくなかったが、長期的により傷ついたのは彼女の方だった。
離婚時に9歳だった彼女はなぜ父や母が家からかわるがわるいなくなるのか理解できず、ただそこに欺瞞があることだけを感じており、父が別の女性と一緒になるにあたって自分にも嘘をついたのだという事実だけを認識してた。
サンドラは母親と同程度に自分は被害者だと感じており、その怒りの矛先がテディに向かったのも無理のないことだった。
ポールと違ってサンドラは成績がふるわなかった。
そして10代になる頃には扱いづらく、容姿だけに自分の価値を見出す自意識過剰な若者になっていた。
14歳の時、鼻の整形をしたいと父に申し出たが、普段は娘の願いを何でも聞き入れるランスキーもこれは却下した。
だがボールストン・スパへとランスキーが連れて行かれたことでテディは意地悪な継母役から離脱する機会を得た。
彼女は夫に内緒でサンドラの整形手術を予約したのだった。
世間の大注目を浴びたキーフォーヴァー犯罪委員会の調査はもともと脆弱だったランスキー一家の絆をさらに危うくさせていた。
ベレスフォードの家の外には記者が張り、子供たちから何か「大衆の心に訴えるような内容」を聞き出そうとうろついていた。
ヴィンセント・マーキュリオは特にしつこかったニューヨーク・ワールド・テレグラムのある記者を思い出す。
ランスキーは警察やFBIの者に何かを尋ねられた場合の受け答えをバディに教え込んでいた。
「弁護士に相談しないといけない、とだけ言いなさい。」と。
そして何より重要だったのは、もしバディがどうしても口を開かないといけないのだとすればその対処法も。
「とにかく嘘をつかないこと。嘘をつけばその後どんどん上塗りになっていく。」
こうしてバディは大きな秘密を抱えた重要人物になった気分でニューヨークで生活することになった。
ただ、その秘密の正体はよく理解していなかった。
ある時母親のアパートメントに滞在していた時、道でこちらの様子を伺っている二人の男を見かけたバディはパニックを起こした。
二人の男が警官ではないことや、仮にそうだったとしてもバディが目当てではないと知ったのは、売春婦であるガールフレンドたちの連絡先を書いた紙をトイレに流した後のことだった。
上院議員たちの調査で得したことがバディにはあり、それはレストランやショーでいつでも一等席を確保してもらえるということだった。
キーフォーヴァーのおかげでブロードウェイやディンティ・ムーアの世界におけるランスキーの名の株は急上昇していた。
ポール・ランスキーはそれを嫌ったが、彼の兄と妹はその注目を満喫していた。
だがそれは家庭円満を作り出しはしなかった。
テディ・ランスキーの一人息子、リチャード・シュワルツの存在がさらに状況を複雑にしていた。
バディ・ランスキーが義兄弟の存在を知ったのは、ある日ヴィニー・マーキュリオがバディの車を取って来ようとベレスフォードを出た時だった。
戻ってきたヴィニーは車が車庫にないとバディに告げた。
ヴィンセントが言うには、「ランスキーさんの息子さんが乗っていかれた、と言われた」とのことだった。
バディの知るランスキーのもう一人の息子はポールしかおらず、そのポールは家の中にいたため、一同は首を傾げた。
どうなっているのかとバディがランスキーに尋ねると父は事も無げに言った。
「ああ、言い忘れていた。テディには息子がいるんだ。」
リチャード・シュワルツが街で自身のことを「マイヤー・ランスキーの息子」として言い回っているらしいとバディが知ったのはこれが最後ではなかった。
ランスキーの実子たちはこのことをひどく嫌った。
リチャードはランスキー家の子供たちと同じく甘やかされて育っていた。
背が低く、黒髪で胸板の厚い彼は攻撃的な性格。
バディの目に映る彼はうるさく厚かましく、誰に対してもそのような態度だった。
困難の中で家族が一致団結するかと思われたが、逆のことが起きていた。
そしてそれを先導してたのはバディ。
バディは娼婦たちとの関係を隠しており、親友のヴィニー・マーキュリオでさえもなぜバディがときどき夕方になると電話に出ず、所在が分からなくなるのかを知らなかった。
バディは娼婦たちと仲良くなり、ディナーなどに連れていくことを好んだ。
チケット・エージェンシーでの仕事の給料に加えて父は息子に小遣いを渡しており、その金でバディはソーシャル・ライフを構築していた。
ところがある時、バディのガールフレンドの一人が別の顧客によって妊娠させられた際にこれが裏目に出た。
金に困った娼婦はポン引きの男から高価な指輪を奪い、男はその弁償を求めてバディの元にやってきた。
バディは飲み仲間に頼んでポン引きを追い払ってもらったが、ランスキーの耳に一件が入ると父は激怒した。
「障害を持った若者にしては随分と面倒ごとを引き起こしてくれるね。」と。
ランスキーは息子をニューヨークから離したほうが彼のためになるのではないかと考えた。
チケット・エージェンシーでの仕事はその後特に展望が開けるわけでもなくむしろ悪い仲間を呼び寄せたようだった。
ランスキーは長男の賢さが身体的なハンディキャップを超えることを昔から信じており、きっといずれは経営者して活躍できるはずだと思っていた。
心機一転やり直すためにランスキーはバディをフロリダへと送り込んだ。
1951年、ランスキーは消滅したブロワード郡のギャンブル・クラブたちからできる限り資金を回収し、それをマイアミの60マイル南方にあるフロリダ・キーズのモーテル開発へ投入した。
キー・ウェストへ向かう途中のプランテーションからメキシコ湾をのぞむ小さな平屋の集まりだった。
「左を見て、右を見ればもう町全体を見渡すことができた。」とバディは思い出す。
モーテルにはプランテーション・ハーバート名づけられたコンクリートの小さな防波堤があり、小さな遊覧船やヨットが舫われていた。
そこにはギャンブルの影もなかった。
ランスキーにとってのコンソリデート・テレビジョンのように堅気の投資であり、キーズはまだリゾート地として開発途上であったためそれなりに明るい展望があるものと期待された。
ランスキーはおかしなことに巻き込まれないように、また、モーテル経営を身につけてほしいという願いを持って長男をプランテーション・ハーバーへ送り込んだのだ。
バディ・ランスキーは始めはビジネスに集中していなかったが、父の一つ目の願いは簡単に叶った。
プランテーション・ハーバーでバディは一年のほとんどを亡命したかのように過ごした。
周辺のマングローブ沼にはヌママムシやガラガラヘビなどの毒蛇がいたためバディは日没後の外出を敬遠するようになり、夜遊びはすっかり影を潜めたのだった。
若気の至りだらけの兄妹の中でバディの弟ポールだけが模範生徒だった。
1950年、ポールはウエスト・ポイントへの入学を果たし、空軍将校になるという夢を追っていた。
ニューヨークの新聞各紙や、非公開審問でのキーフォーヴァーはポールの合格が裏口入学であると主張しようとした。フランク・コステロの有名な救世軍ディナーに招待されていたタマニーの下院議員、アーサー・G・クラインが糸を引いていた、と。
それはフェアではない主張だった。
なぜならウエスト・ポイントでは、今でもそうであるように、軍の紹介でない受験生は下院議員、上院議員、あるいは副大統領の承認と推薦が必要だ。
推薦は合格を約束するものではなく、全体の75%を成す軍と無関係の推薦受験生は個別に選考される。
ポール・ランスキーがウエスト・ポイントに合格したのは彼の能力あってのことであり、当然ながら父親はそのことを誇りに思っていた。
ハドソン・バレーを北上して陸軍士官学校の息子を尋ねるのはランスキーにとって大きな喜びだった。
ポールのことを友人たちに自慢し、家族をウエスト・ポイントへピクニックに連れていくこともあった。
ポール以外の子供たち、母のイェッタ、妹のエスター。
時には息子に対する誇らしさを共有すべく、体調のいい時の元妻を連れていくこともあった。
ボールストン・スパに拘留されていて嬉しいことがあったとすれば、ポールがウエスト・ポイントから電車で訪ねてきやすいということであった。
長男が会いに来ると、マイヤーはジェラード・キングや保安官等周囲の人々に賢い息子がどこの生徒であるのかをぬかりなく知らせるのだった。
ランスキーにとってそれくらいの慰めは必要だった。
1950年代初頭はマイヤー・ランスキーの人生においてパッとしない時期であった。
国中からのけ者扱いされ、フロリダで罰金を課され、サラトガで投獄され、ギャンブル収入は途絶え、今後合法的な収入を得られるという見込みもあまりなかった。
ウエスト・ポイントはこうした問題のさなかでランスキーの慰めであり、逃避であった。
1950年代の初め頃、1950年2月に45歳になろうというジェイク・ランスキーは家族第一の生活をしていた。
一家はフロリダはハリウッドの高級住宅街、サウス・レイクにほど近いハリソン・ストリートの白いスタッコの家に暮らしていた。
道は広く掃除が行き届いており、一軒一軒の周りに柵がめぐらされて松やヤシの木が涼しい影を落としていた。
ジェイクと妻のアンの一番の関心事は二人の娘、ロベルタ(リッキーと呼ばれていた)とリンダの教育。
二人はフォート・ローダーデールの私立学校、パイン・クレストの生徒だった。
ランスキー家が裕福なのは明らかだったが、そのことをひけらかすことはなく、キーフォーヴァー委員会によって突如ランスキーの名前についてしまった悪いイメージを無視しようとしていた。
だがそれは簡単ではなかった。
ジェイクは委員会の前に召喚されなかったものの、ランスキーの証言にパートナーやマネージャー、フロントマン、コロニアル・インの経営者として頻繁に名前が登場した。
フランク・コステロのスロット・マシン事業への出資もジェイク名義だった。
ランスキーが1950年9月にフロリダでのギャンブルで起訴された際にはジェイクも一緒に起訴されており、2,000ドルの罰金を支払っていた。
ジェイク・ランスキーの下の娘、リンダの友人のジャニー・ヘンリーは1951年当時11歳で、その頃の変化を覚えていた。
ハリウッドは小さなコミュニティで、何人かの保護者がランスキー家の娘たちと親しくしないように自分たちの子供に言い渡したのだった。
ジャニーの父ロバートは建築・開発者としてそれなりに成功しており、そうした他の家庭の手のひら返しを馬鹿馬鹿しいと感じていた。
リンダの両親と面識はなかったが、娘の友人は賢く礼儀正しい、好ましい子に思えた。
ある晩、新聞記事であれこれ書かれているにもかかわらずリンダからジャニーを引き離さずにいてくれているお礼を言いにアニー・ランスキーがロバートの家を訪ねてきた。
「気にしないで下さい。ジャニーは日和見主義な友人ではありません。」とロバート・ヘンリーは応じた
7年生に進んだばかりのジャニー本人もそのことについてあまり深く考えていなかった。
リンダは親友で、彼女の家庭は理想の家庭と言えるものだった。
放課後や週末になるとジャニーは二人の家をつなぐ裏小道を駆けて行った。
自分の家よりもリンダの家の方が好きで、お泊まり会をするときもたいてい、リンダの家だった。
ディナーは毎日、白いテーブルクロスのかかった長いテーブルで供された。
高価な磁器や水晶、銀でできた食器が並び、ケチャップなど決して見当たらない。
ランスキー家にはルースとルイーズという二人の黒人メイドがおり、ランスキー夫人が手元に置いた小さなベルを鳴らすと、二人が入ってきてテーブルを片付け、次のコースを運んでくる。
そんな暮らしぶりでも、ハリソン・ストリートのランスキー一家の家庭に気取ったところはなかった。
ジャニー・ヘンリーが惹かれたのはその温かさや、家族同士できちんと話し合って問題を解決しようとする仕組みだった。
例えばリンダ・ランスキーはピアノを習っており、土曜日の午前中にジャニーと映画館に行きたければ出かける前に練習を済ませておかなければならないことになっていた。
ジェイクは妻に愛情深く優しく接した。
夫婦がきつい言葉を交わしていたのだとすれば、それは子供の耳に入らないところで行われていた。
ジーン・ヘンリーはジェイクのことを親切でニコニコしたおじさんとして記憶しており、家での食事やジョー・サンケンズ・ゴールド・コーストなどの近所のレストランで「パトレスファミリアス」の役を満足げに演じる姿を覚えていた。
外食の時にはジャニーを一緒に連れて行ってくれることも多かった。
ジェイクは落ち着いた、思慮深い男だった。
ルースとルイーズは日没後に白人居住地区を歩いているところを警察に見つかったらパトカーに乗せられてしまう可能性があったため、二人が遅くまで勤めた日にはジェイクが家まで送ってあげるのだった。
ランスキーこと「マイヤーおじさん」は頻繁に一家を訪ねてきた。
みんなを辟易させるテディ抜きで、一人で。
リッキー・ランスキーと同じ年頃の従姉妹サンドラも合わせづらく、ポールはウエスト・ポイントにいていつも不在の一家のヒーローだった。
バディはもう少しこまめに会いに来た。
フロリダに用があるたびに足をひきずりながら遊びに来る明るくおしゃべりな彼を皆、歓迎した。
ジーン・ヘンリーがパズルのピースを合わせることができたのは遥か後になってからのことだ。
初めの頃はアドニス氏が夕方に訪ねてくることが多かった。
アロ氏は角を曲がってすぐのところ、モンロー通りの先端の白い一軒家に住んでいた。
そこからはサウス・レイクをのぞむことができ、フロリダでよく見かける奇妙な海の哺乳類、マナティーの群れが時々見られた。
アロ氏にはキャロルという若い姪っ子がおり、ジャニーとリンダと遊ぶこともあった。
ある晩、ジャニーは興奮したリンダからの電話に出た。
ハリソン1146番へ行くと親友は外出中の両親の部屋にいた。
クローゼットを物色していると葉巻の木箱をいくつか見つけ、そこにはドル紙幣と大きな黒い拳銃が入っていた。
ところが次に少女たちがその箱を除いた時には紙幣も拳銃も消えていたと。
ジェイクは「出張」で不在にすることが多く、行き先はたいていラスベガスだった。
ランスキーが株主であったフラミンゴが今やガス・グリーンバウムやデヴィ・バーマンら、ラス・ベガスのパートナーの元で順調に利益を出していたのでその様子を見に行ったり、兄弟が最近190,000ドルの現金を出資したホテル・カジノのサンダーバードへ配当を受け取りに行くこともあった。
サンダーバードの経営者、マリオン・ヒックスはカジノの開業時に資金が足りず、ジェイクが差額分をテキサスのギャンブラー、ジョージ・サドロに「貸し」たものがヒックスに回されいた。
リンダ・ランスキーとジャニー・ヘンリーがクローゼットの中で発見した紙幣はおそらくフラミンゴかサンダーバードのカジノの簿外化された利益だった。
1950年代初頭、エステス・キーフォーヴァーのおかげでランスキー家は他にゲーミング事業がなかったからだ。
ジーン・ヘンリーは兄よりも頭の回らない弟としてのジェイク・ランスキーのイメージに疑問を抱いていた。
人望が厚く忠誠心の強い彼は決して鈍いわけではなかった。
彼女はこう振り返る。
「お兄さんの影の功労者は彼だったのではないかと。ボビー・ケネディとJFKのように。」
ヘンリーの記憶に残るのは1950年代の始め、ヤシの木や松の木の下で過ごした陽気な日々だった。
人魚のようなマナティにパンをやったり、夏の雨の中で雨水管の水にメロンの皮のボートを浮かべて遊んだこと。
裏の小道を駆けて目指したエレガントな白い家にはギャングスターが住んでいると言う人もいたけれど、彼女にとっては思いやりと教養ある家庭の見本のような場所だった。
ヘンリーはアンとジェイク・ランスキーのことを思い出す。
「穏やかで親切な、愛情溢れる人たちでした。家族を大切にし、私のような少女を温かく迎え入れてくれた。」
ランスキーが出所し、バディがフロリダ・キーズでの1年間の亡命生活からいくらか落ち着きを身につけて戻ってきた1953年の秋のある日。
サンドラ・ランスキーは兄に相談をもちかけた。
ニューヨーク・ホース・ショーで素敵な男性と出会ったのだという。
彼の名前はマーヴィン・ラッパポートで、ラッパポート・レストランを経営していたバディの友人の例文・ラッパポートの兄妹だった。
サンドラは彼との結婚を望んでいた。
バディは仰天し、妹に言った。
「サンドラ、お前はまだ16歳にもなってないんだぞ。早すぎる。」
「何を失うっていうの?機能不全の家族?気の合わない継母?」」とサンドラは反論した。
「なんと言っていいのか分からなかった。」バディはそう言う。
10歳頃からほぼ誰の監護も受けず、毎週父から小遣いを沢山もらい、ベレスフォードの家から威勢よく街に出かけていたサンドラはやや危なっかしく気の強い若い女性に成長していた。
父親とぶつかり合うことも多かった。
学者肌のランスキーは娘の成績不振にたびたび怒りを表しており、15歳で結婚したいなどと言い出そうものなら反対する理由がいくつもあったが、中でも高校卒業や大学進学を諦めることを許さないのは目に見えていた。
妹へのアドバイスとしてバディはフロリダ滞在時に世話になっている医師に相談してはどうかと提案した。
ハリス医師は高齢で聡明な、誰の相談にも乗ってくれる人だった。
サンドラは悩みをハリス医師に打ち明け、ハリス医師はその内容をランスキーに伝えた。
1954年の頭にサンドラが16歳になってから、ランスキーは怒りを一旦飲み込んでサンドラと真剣な話し合いをした。
その後、父はバディに「全部大丈夫だ。」と告げた。
「6月に婚約して、翌年に高校を卒業してから結婚ということになった。」
「お父さんが今年の夏には結婚していいって!」と父との話し合いの後に興奮したサンドラがバディに報告してきた。
テディ・ランスキーは混乱を整理し、夫に言った。
「あなたの言うこととサンドラの言うことが食い違っている。
ニューヨークへ行ってマーヴィンの家族と会ってきなさい。」
最終的にランスキー家の混乱を整理したのはラッパポート家の面々だった。
ランスキー家では誰もが一番話さなければならない相手と話さず、その相手の周辺の人とばかり話すということが起きているようだった。
そして、結婚を待たせてもあまり意味がないという結論になった。
双方の家族が子供を持て余しており、この際若い二人がお互いにいい影響をもたらすと願って勝手にさせる方が良いように思われた。
バディが未来の義弟に初めて会ったのは結婚式当日の朝だった。
なぜラッパポート家が息子をさっさと結婚させたがっているのかをすぐさま理解したという。
「彼は頭のてっぺんからつま先までホモだった。彼の兄弟も知っているようだった。悪い男ではないが、どうみても同性愛者だった。」
マーヴィンは妻となるサンドラの髪を式用にアレンジしてもらうべく、ヘアスタイリストに連れていくことになっていた。
バディはニューヨークの行きつけ、パラマウント・ホテルの理容室へ向かった。
「理容室から戻って部屋を覗くと、真っ白な髪の女がいる。『こいつは誰だ?』というと、ポールに『黙ってろ』と言われた。」
バディは兄の忠告を無視して言った。
「サンドラ、父さんに言われる前に俺が言うけど、馬鹿みたいだぞ。」
髪を派手にブリーチした娘に対する父親の反応をバディは正しく予言していた。
「2セントでもくれるならこの結婚式を中止にしたいところだ。」
エスター叔母さんの懸命な尽力によって全員がなだめられた。
「放っておいてあげなさい。」エスターは兄に言い聞かせた。
「あなたの結婚式じゃないのよ。自由にさせなさい。」と。
それから二年後、サンドラとマーヴィン・ラッパポートの結婚は崩壊し、18歳になったサンドラは男の子の赤ちゃんを抱えて一人になっていた。
ある日娘と初孫を訪ねた帰り道、ランスキーは同行したバディの目に物思いに沈んでいるように見えた。
やがてランスキーは、バディに慎重に問いかけた「マーヴィンがおかしいと気づいていたか?」
「これまで気づかなかったの?」
「それなら」とマイヤーは言った。
「そうと言ってくれたら良かったのに。。。」
学歴に続いて、結婚においてもランスキーの子供たちへの期待に答えたのはポール・ランスキーだった。
ウエスト・ポイントを卒業して一年と少し経った頃、ランスキー中尉はワシントンはタコマのピュージェット湾を望むマコード空軍基地に操縦士として所属していた。
そしてその頃にエドナ・シュックという名のきっぱりした性格の金髪の女性と出会い、恋に落ちた。
彼女にとっては二度目の結婚で、ポールの6歳年上だった。
1955年の晩秋に、二人は翌年の年末に結婚する約束をした。
エドナ・シュック・ランスキーは結婚式の数日前にタコマに到着した未来の義理の父と会い、強い印象を受けていた。
ランスキーは威厳をまとっていた。
口数は少なく、口を開いたかと思えば政治などの堅い話題。
ランスキー氏は権威ある人物であることが明らかだった。
タコマきっての高級ホテル、ウィンスロップ・ホテルに滞在しているところを見ると羽振りもいいようだった。
ポールは父親の職業について明言を避けていたため、エドナはきっと義父がポール同様国の仕事をしており、それはあまり口に出すものではないのだと思い納得していた。
義父のことは気に入っていたし、どうやら向こうも同じ気持ちらしかった。
バディとサンドラにさんざん手を焼いてきたランスキーは、子供たちのうちの一人だけでも真っ当な結婚相手を見つけたことを嬉しく思っていた。
式は近くのフォート・ルイスで軍隊の礼式に則ってこじんまりと執り行われた。
ランスキー家から参加したのはランスキー、テディにサンドラの三人だけだった。
バディは障害のため長時間のフライトに不安があり、不参加だった。
サンドラはマーヴィン・ラッパポートと離婚してまもなく、タコマに到着するなり息子のギャリーの世話を任せてきたメイドに指示を出すべくニューヨークへ電話をかけ始めた。
エドナは、オレンジジュースは「搾りたて」以外を与えないようにと指示するためにこれほどの分数に長距離電話に費やせるサンドラの経済力に感嘆した。
ところが結婚式当日、ランスキー家の出席者は急に3名から2名へ減った。
サンドラはもっと重要な用事でニューヨークへ戻らざるを得なくなり、後からエドナが聞いた話ではそれは急に入ったデートの約束だった。
19歳のサンドラはあと一日タコマに残って家族への義務を果たしなさいという父の戒めを無視して帰っていった。
バディ・ランスキーは後から語った。
「見ず知らずの男を意のままに動かせるのに、自分の子供は動かせなかったんだから。」
ハバナとギャンブラー
1952年3月、51歳だったフルヘンシオ・バティスタはキューバ大統領として再選を果たした。
一度目の任期はキューバをアメリカに続いて参戦させた1940年から1944年の間だった。
フロリダのデイトナ・ビーチに一年ほど亡命した後、ハバナへと戻り民主的な政治過程に忠誠を宣誓した。
しかし1952年3月10日の未明にバティスタは約20年前に軍曹兼速記者としてのし上がった時と同じ戦略を実行した。
ハバナ郊外の軍本部、キャンプ・コロンビアで野心溢れる若い支持者を集め、クーデターを企てたのだ。
真っ向から抵抗する者はいなかった。
キューバ政府は腐敗した独裁政権になっていた。
トップが選挙で選ばれようが選ばれまいが関係ない。
市民たちは砂糖の輸出やアメリカからの観光客で潤っていた戦前のバティスタ政権時代、「ダンス・オブ・ミリオンズ」と呼ばれた短いバブル期を恋しく思っていたのだ。
実際には1952年の春にバティスタが再び政権を握ったとき、キューバの状況はそれほど酷くはなかった。
ハバナは世界一の娯楽都市と呼ばれ、新世界のパリとしてルンバやサンバやマンボのリズムに揺れていた。
それらは白いタキシードを着たオーケストラである当時世界一の人気のバンドによってヨーロッパやアメリカへと伝わていった。
ハバナと同等の洗練と二面性を誇る都市は、国外ではベイルートくらいであった。
キューバの娼婦たちは寛容で、葉巻は上質で、ダイキリは度数が高かった。冬にはエロル・フリンの姿を見ることができ、アーネスト・ヘミングウェイは一年中見かけることができた。
ただギャンブルが頭痛の種だった。
バティスタが政権を握った数週間後に問題は起こった。
1952年4月のある晩、カリフォルニアの上院銀リチャード・M・ニクソンの友人の弁護士、ダナ・C・スミスはサン・スーチで博打を楽しんでいた。
ハバナ郊外の豪華な屋外ナイトクラブで彼がやっていたのは地元のゲーム、クビレテのサイコロを8つ使うカジノ版、クボロだった。
「倍賭けしていれば負けない」というキャッチコピーにつられるかのようにダナ・C・スミスは倍賭けし続け、最終的に4,200ドル負けた。
スミスは小切手を書いたものの、後になってからプレイしたこともないそのゲームに自分はハメられたのだという結論にいたり、小切手を取り消した。
そのシーズン、キューバ人の経営するサン・スーチの運営はマイアミ・ビーチのナイトクラブを所有するノーマン・ロスマンという人物が代表していた。
ロスマンは4,200ドルをスミスに賠償請求することにした。
これは現在の金額でいうと約26,000ドルである。
リチャード・ニクソンにとってスミスはただの友人ではなかった。
スミスは政治的なアドバイザーであり資金調達も担っていたからだ。
サン・スーチでのスミスの窮地が弁護士の出てくるところとなったとき、リチャード・ニクソンはドワイト・アイゼンハウアーの副大統領になるところだった。
1952年6月末、ニクソンは国務省へ支持を求める書簡を書き、スミスは普通の客よりも手厚い救済を差し伸べられた。
1952年の9月19日、ハバナのアメリカ大使館はニクソン上院議員の友人の件は利用すべき機会だと国務省に伝えた。
ワシントンに向けて書かれた運営メモにはこのようにつづられている。
「冬のシーズンの間、大使館ではアメリカ観光客からの苦情を複数受けている。いずれもサン・スーチナイトクラブの、特定のゲームに関するものである。」
ニクソン上院議員の手紙に乗じてダナ・C・スミスが国務省に尋ねたのは、キューバの法律においてクボロが合法であるのかということだった。
大使館は地元の弁護士にその回答を委任していた。
これを武器に、スミスはノーマン・ロスマンがカリフォルニアの集金エージェンシーを通じて起訴してきた4,200ドルについて1953年の1月にロサンゼルスの裁判所で争った。
スミス勝訴、このことが新聞に載ると、キューバのクラブが仕組まれていると訴えるアメリカ人観光客がしばらく絶えなかった。
さらにハバナのアメリカ大使館は彼らの苦情には正当性があるとの見解を示した。
ハバナでのゲーミングは参加自由。
つまり遊園地のショーや屋台を下請け業者に任せてあるのと同様に一貫したルールがなかったのだ。
ハバナのナイトクラブのキューバ人オーナーたちはゲーミング・ルームを貸し出し、借り手に資金さえあれば個別のテーブルやゲームレベルで貸し出すこともあった。
中にはプロのゲーム運営者もいたが、経験が浅く、資金も乏しい者も多かった。
クボロのようなゲームはこうした現状から生まれたのだった。
最小限の掛け金で手っ取り早く勝てるというコピーの元、ニコニコと愛想のよいキューバ人やアメリカ人ディーラーの手によってハメられたというアメリカ人観光客が後を絶たなかった。
そのディーラーたちは客が食事をしている間にもカードとサイコロをテーブルに持ってきて、金を巻き上げていったという。
新婚旅行で訪れていたある若い夫婦は、新居の内装代を全て失ったという話だった。
四人の子供を育てる母親が、夫の一ヶ月分の給料を失ったとも。
最初は問題を観光委員会に任せて様子を見ていたフルヘンシオ・バティスタだったが、スミスの一件以降、内閣内で議論がされるようになった。
1953年2月10日のハバナ・ヘラルドはこのような記事を掲載した。
「共和国大統領は海外からの観光客を守るための対策を強化するよう、各警察機関へ指示した。」
新聞によれば大統領がこのことについて自ら言及するのは「前代未聞のこと」だった。
内務大臣をハバナのゲーミング・ルームに送り込み、クボロやラズル・ダズルなどの複数のサイコロを使用した不正ゲームが行われいないか視察させた。
委員会では、負けを仕組まれたと感じる観光客が小切手を取り消すことを承認する書類まで準備した。
しかし、これらの対策はあまり活用されることがなかった。
1953年3月末、サタデー・イブニング・ポストの一面にはこのような見出しが躍った。
「パラダイスのカモたち:カリブ海のギャンブル屋でアメリカ人が大負けする理由」
内容は次の通りだった。
「不正に鼻の利く洗練されたプレイヤーは昔からハバナを避けてきた。」
そして記事はキューバのギャンブルとプエルト・リコに最近できた政府公認カジノとの比較を行い、結果はキューバの惨敗となっていた。
記事を書いたレスター・ヴェリーはハバナのナイトスポットを一通り行き尽くしていた。
そして彼が足を運んだギャンブル屋の全てがラズル・ダズルやクボロなどのオペレーターの手に堕ちており、もう詐欺まがいの事業であると考えるべきだと結論付けていた。
伝統的なカジノ・ゲームも潔白ではなく、ハバナのディーラーのほとんどがブラックジャックのカードを手に持ったパックから配っていた。
その手法ではいかようにもカードを操ることができ、アメリカでは昔から手ではなく箱からカードを配る習わしとなっていたのは仕掛けがないことを見せるためだった。
ハバナ中を探してその記者が突き止めた「まっとうな」ギャンブル場はたったの二つだった。
オリエンタル・パークのグランドスタンドの下、「ラウズ・リング」と呼ばれた競馬場ではキューバ人同士が小さめの賭け金で博打を楽しんでいた。
もう一つは正反対の高級ギャンブル場、モンマルトル・クラブ。
ハバナのダウンタウンにあるナショナル・ホテルから数ブロック先に立つ三階建てのクラブは、つい最近ゲーミング・ルームをマイヤー・ランスキーに一任したばかりだった。
ヴェリーはランスキーのことも「悪党」と呼び、過去のバグジー・シーゲルとの繋がりやバグズ&マイヤーの一員であったこと、そして「東海岸の大きなシンジケートの橋渡し役」であることなどが記されていた。
ただし、と記事は続けた。
「小柄なマイヤーは彼の運営するクラップ・テーブルの常連たちの間で非常に慕われている。」
プロの博徒ほど不正に敏感だ。
モンマルトル・クラブでは巧妙なごまかしや過度な煽りは見受けられなかった。
ランスキーのおかげで、ハバナのこの一角では高額な賭け金を扱う真っ当なギャンブルがまだ生き残っていた。
バティスタとマイヤー
フルヘンシオ・バティスタがハバナに戻ってきたことでマイヤー・ランスキーのキャリアも再び軌道に乗った。
第二次大戦後の数年間でランスキーはキューバでのギャンブル業を再生しようと試み、失敗していた。
だがバティスタが政権に返り咲いたことでランスキーは再び島に戻り、モンマルトル・クラブのキューバ人運営者達にパートナーシップを持ち掛けることができた。
ハバナの歪んだギャンブルはランスキーにもう一つ意外な仕事をもたらした。
ランスキーの弁護士ジョゼフ・ヴァロンによると、1953年~1954年の冬のシーズンにかけてランスキーはバティスタのギャンブル改革アドバイザーを引き受けたのだった。
この依頼料は約25,000ドルにもなったという。
大統領の狙いは、1930年後半にマイヤーが競馬場やグラン・カジノ・ナショナルで鮮やかにやってのけたような「一掃」。
アメリカで犯罪者と認識されていようが、キューバでのランスキーは曲がったことを正す人材として歓迎されていた。
フルヘンシオ・バチスタは外国人観光客、とりわけアメリカ人観光客による収益の増加をキューバと、ひいては自分の大きな収入源にできると考えていた。
1950年代頭のホテルチェーンや航空業界の発展とともに観光業はれっきとした産業として確立されつつあり、就任したばかりの大統領は最優先事項として取り組むことにした。
手始めにバティスタは、民間企業を活性化する目的で従来の全国観光法人の再編に乗り出す。
新大統領は、自国の天候やビーチ、ニューヨークやマイアミからのアクセスの良さ、「女性たちの美しさ」、そして「国民の伝統的なもてなしの心」などの資産が過小評価されていると感じていた。
そこで、入国の手続きを簡素化、アメリカ人が査証なしで一ヶ月まで滞在できるようにした。
さらに自分の車やボートを持って来られるようにとしたし、ハバナの西のバルロベントでは水路とマリーナ・ハウジングの開発が進められた。
そこはマイアミやフォート・ローダーデールの似たような開発地に住むフロリダのボート乗り達を誘い込むのが狙いだった。
ギャンブルに至っては、マイヤー・ランスキーの手を借りてカリブ海のモンテ・カルロに生まれ変わらせることがバティスタの野望だった。
まずはインチキを働く下請け業者を追い出すことが必要だった。
ハバナでランスキーが唯一、敬意を示していたカジノ・オペレーターはフロリダ、タンパのマフィアのボスの二世、サント・トラフィカンテ・Jrだった。
ランスキーより10歳年下の彼は1946年からキューバで仕事をしていた。
クルーカットに眼鏡の物静かな男は大学教授のような雰囲気を醸しつつ、保守的なやり方で事業を営んでいた。
ランスキーはサン・スーチのゲーミング・ルームを仕切るノーマン・ロスマンとも知り合いだった。
しかしダナ・Cスミス相手に賠償訴訟を起こしたことで業界に不要な注目を引き寄せたので彼のことは好きではなかった。
ランスキーがロスマンに「インチキをやめないと続けられなくなる」とはっきりと忠告すると、初心者を煽るようなサン・スーチのゲームは取りやめられた。
だが詐欺師まがいのディーラーは他にもおり、多くはアメリカ人の彼らは相変わらずフリーランスで仕事を活動し続けていた。
ゲーミング・テーブルから離れた場所、時にはトイレにまでターゲットを追いかけて行ってカードやサイコロを取り出し、初心者が「負けることの決してない」ゲームを持ち掛けていた。
1953年の3月30日、サタデー・イブニング・ポストの記事から二夜明けてキューバの軍情報部は13名ものアメリカ人ディーラーを逮捕し、そのうち11名を即強制送還した。
1954年/1955年の冬のシーズン、キューバのギャンブルは改革後の姿でオープンした。
どこでもブラックジャックは手伝はなく箱からディールされ、フロアマンは「梯子マン」となって脚立の上に取り付けられた椅子からテーブルでの不正を見張る役を任された。
その存在は客にとっても安心材料だった。
そして最も大きな変化は、どのナイトクラブもラズル・ダズルやクボロなどのたちの悪いゲームのオペレーターに部屋を貸し出すことがなくなったことだ。
娯楽場が規制されたことでハバナで観光客がぼったくられるというような新聞記事が出ることもなくなり、アメリカ大使館も一件落着となった。
詐欺まがいのキューバのギャンブルに関する苦情は前年の春、ちょうどサタデー・イブニング・ポストの記事と同時期に訴えられた大みそかの案件を最後に途絶えた。
その中でマイヤー・ランスキーのモンマルトル・クラブは大金を賭けたがる博徒たちの行きつけであり続けた。
モンマルトルには郊外の屋外ナイトクラブの派手なフロアショー等はなかったが、ランスキーの選り抜いたテーブル・クルーがついており、プレイヤー達にはそれで十分だった。
ハランデールのグリーンエイカー・クラブのような、真剣なギャンブラーによる真剣なギャンブルだった。
またモンマルトルはキューバのみならずカリブ海一の豪華ホテル、ナショナルから徒歩で数分の距離だった。
ランスキーは随分前からナショナル・ホテルにカジノを設置したいと考えていた。
ランスキーはバグジーが編み出した“ナショナルの一棟を改築し、高額を賭けるプレーヤー用の高級スイートを設置する”というやり方を踏襲するつもりだった。
この改革はハバナのアメリカ人コミュニティの暮らしとあまり親和性が高くなかった。
彼らはナショナルの広い庭や廊下をエキスパット・クラブのように扱っているところがあった。
海岸通りを少し進んだところにはアメリカ大使館があり、ホテル・ナショナルはお茶を飲んだりブリッジ・パーティーを楽しんだり、テニス・トーナメントや独立記念日の集まりを開催する最適な会場だった。
だがフルヘンシオ・バティスタはランスキーのカジノ案を気に入り、ナショナルがキューバ政府所有であるのをいいことにこの機会に自分のダイナミックな観光業開発ポリシーを見せつけることにした。
ハバナ開発
1955年、ホテル・ナショナルの幹部が変わった。
ハバナとアメリカを結ぶ主要な航空会社、パンアメリカン航空の子会社であるインターナショナル(のちにインターコンチネンタル)ホテル株式会社が経営を担うこととなり、大規模な改築が開始された。
ギャンブラー向けに特定の棟をデザインすることはせず、代わりに長いエントランス・ホールの先、マレコンを見下ろす曲線的なロッジアの中に凝ったデザインの高級な共用施設が作られた。
バー、レストラン、ショールームにカジノ。
これらの施設は高額でホテルからカジノ・オペレーターに転貸されたわけだが、そのオペレーターがマイヤー・ランスキーだった。
1955年~1956年の冬のシーズンにナショナル・ホテル・カジノが新規オープンした際、フロアショーのスターはアーサ・キットだった。
カジノは瞬く間に大人気を博し、ランスキーにカジノ・フロアの責任者に任命されたジェイクは毎晩、巨大な脚立席の上からゲームを監視した。
ジェイクの下の娘、リンダも一週間のバカンスにクラスメートのジャニー・ヘンリーを連れてナショナルへ遊びに来た。
十代の娘になった二人は空港で大きな黒い車に出迎えられ、スイートルームを与えられた。
出発の際にはリンダの母アンナが荷造りを手伝いながら、シャワーの湯気が当たるところに服を吊るすことでしわを取るように教えた。
二人は年齢制限でカジノでギャンブルすることはできなかったが、見た目が大人びていたので、ジェイクは遊ぶためのチップを100ドル分与えた。
ジーン・ヘンリーは思い出す。
「現金化して、そのお金で洋服を買ったわ。」
ジェイク・ランスキーはナショナル・ホテル・カジノのクレジット責任者でもあった。
当然のように金を出さずに遊べると共ってやってくる警官や軍人などのキューバ人上官を相手にツケ払いをきっぱりと断るジェイクを、他のキューバ人従業員たちは尊敬の眼差しで見ていた。
彼らはジェイクをエル・クヘド、ゲジ眉の男とのあだ名で呼んだ。
ランスキー兄弟は腐敗した政権に協力していたが、腐敗が商売の仕組みにまで及ぶことはなかった。
真剣でプロフェッショナルなギャンブルは守られていたのだ。
パートナーのフルヘンシオ・バティスタもそのプロフェッショナリズムに共感していた。
派手好きで目立ちたがり屋だったが、キューバの大統領はギャンブル好きではなかった。
そしてランスキー兄弟と同じくらいの危機感で、ルーレット・テーブルの周りに座る制服や軍服姿の上官たちがビジネスにとって悪影響であることを理解していた。
バティスタがランスキーのカジノに足を運ぶことは稀だった。
ランスキーはナショナルとモンマルトルの両方で運営をしており、さらにもう一つ規模の小さめのクラブ、モンシニョールのパートナーでもあった。
だが、ランスキーとバティスタが二人でいるのを見ることはほとんどできなかった。
こっそり交流を深めていたわけでもなく、あくまでビジネスの関係だったからだ。
一度だけ、ランスキーはハリウッドの弁護士ジョー・ヴァロンをバティスタの出席するホテル・カジノのオープニングに連れて行ったことがあった。
そこでヴァロンは二人の男が非常に似通って親しげであることに驚いた。
ヴァロンは思い出す。
「とても親密で、兄弟のようだった。」
ヴァロンはバティスタの流ちょうな英語や、ランスキーに対する明らかな親愛の情に感心した。
バティスタはいかにもラテンなノリで小さなアメリカ人の友人をしょっちゅう抱きしめていた。
ランスキーはそれを心地いいと思わず、大統領の熊のような抱擁に毎回身をよじっていた。
公然とした愛情表現はランスキー流と相容れなかった。
数分後、バティスタの連れていた美女の一人がヴァロンに近付き、クラップのルールやどこで賭けるべきかなどと相談してきた。
ヴァロンは妻のヘレンを同伴しており、大統領の連れに対してはあくまで礼儀正しく応じているつもりだった。
ところがテーブルの反対側からランスキーの視線を感じる。
ヴァロンがランスキーの元へ行って『どうした?』と尋ねると、『私から離れろ!』と言われた。
ランスキーとフルヘンシオ・バティスタはキューバの商業ギャンブルを発展させるパートナーだったが、二人の間を直接金が行き来することはなかった。
両者とも仲立ちを通じて仕事をする方が合理的で、支払いが現金で行われることも時にはあったが、雇用や供給契約、顧客ネットワークという形を取ることのほうが多かった。
1955年、ホテル法2074の公布でシステムは集大成を迎えた。
この法律によってキューバ政府は「新しいホテル、モーテル、及び観光客の宿泊を目的とした施設」全てを免税の対象とした。
1億ドルを超える投資を受けたホテルや200,000ドル以上の価値を見込まれた新しいナイトクラブはカジノ・ライセンスを申請することができた。
そればかりか政府は特定の状況下で「直接の経済的援助」を価値ある観光事業に投じることも明らかにした。
フルヘンシオ・バティスタはのちに、ハバナのホテル客室数が1952年には3,000だったのが1958年には5,500ほどにまで激増した原因がこの法律だったと語っている。
新しく作られた客室はどれもモダンで高級、空調も完備しており、この発展はバティスタ大大統領の手柄だった。
1958年頃にキューバが経験した観光ブームにカリブ海の他の国々が追い付くにはあと10年ほどかかる事となる。
同時にホテル法2074はマイヤー・ランスキーのような提携者に政府の金を流すことを可能にした。
提携者たちは新しいホテル・カジノの建設や運営の恩恵を受けるのが大統領の友人や親戚であることを保障した。
カジノのゲーミング・テーブルを始めとする道具類は非課税扱いとなり、海外からのディーラーやカジノ・スタッフには「技術者」という名目で2年の査証を与えられるよう、キューバの厳しい法律も改められた。
1956年の春、サラトガでの刑期から3年もたたないうちにランスキーはホテル法2074の元で自分のホテル、リヴィエラの建設にとりかかった。
21階建て、440部屋の摩天楼はハバナのマレコンの頭上高くそびえる建造物。
リヴィエラはランスキーの最高傑作となった。
リヴィエラはキューバ一どころか全世界で一番大きなカジノ・ホテル。
ヘリポートまで完備されていた。
1956年、エンリケ・ルソーという若いキューバ人事業家がナショナル・ホテルに滞在していた。
遊び人で知られる彼は「離婚と離婚の間」だったと説明している。
ルソーは社交的でチャーミングな性格で知られ、夜になるとナショナルのカジノでバカラやブラックジャックで遊ぶ姿をたびたび見かけられていた。
昼間はナショナルのプールサイドで、カジノのショーに出演しているショーガールたちと一緒に日焼けベッドに寝そべって過ごしていた。
アメリカであからさまにギャンブルが行われていたころのパトロンの多くが、1956年にはハバナに集うようになっていた。
中にはラス・ベガスで有名になっている者もいた。
ランスキーはバティスタとの特別な関係をひけらかすようなことはしなかったが、1950年代後半にハバナに来るカジノ・オペレーターはランスキーのお気に入りでなければ活躍できる見込みはなかった。
ランスキーやジェイクとその仲間たちは各々がカバナ(脱衣小屋)を置いているナショナルのプールサイドでサンドイッチの昼食を楽しんだ。
この時、彼らはすでに20年もの歳月を一緒に過ごしてきていた。
ランスキーのモラスカ・コーポレーション時代のパートナーたち、モー・ダリッツ、サム・タッカー、モリス・クラインマンもいた。
最強の証明
彼らのクリーブランドのパートナー、トーマス・「ブラックジャック」・マックギンティや、フラミンゴからベガス・ストリップ沿いに少し離れたところに立つデザート・インの表看板の男、ウィルバー・クラークもいた。
ダリッツとパートナーたちはナショナル・カジノに出資しており、ランスキーのリヴィエラ・ホテルが軌道に乗ったら本格的に経営を継ぐ予定だった。
ケンタッキーはコヴィントンの有名ギャンブラー、「スリープ・アウト」・ルイス・レヴィンソンの弟のエディ・レヴィンソンがランスキーのもとで働いており、他にもブロワードやサラトガ時代の仲間が何人か参加していた。
そこ中にはあのジミー・ブルーアイズも。
ジミーの所属はジェノベーゼファミリーだったが、特別に貸し出されていた。
ハバナのビジネスチャンスを見込んでやって来なかった数少ないランスキーの友人の一人がテキサスのギャンブラー、ベニー・ビニオンだった。
彼は後から、「言葉が分からない場所で仕事をするのが好きじゃないんだ」と説明した。
ランスキー世代よりは若年でありながら、キューバで成功したことで尊敬を集めていたサント・トラフィカンテ・Jrは一緒に過ごすことを認められていた。
アメリカのギャンブラーのエリートともいうべき面々がナショナル・ホテルのプールに集まり、ビーチ・チェアの上でポーカーやジン・ラミーを楽しんだ。
エンリケ・ルソーはそのゲームに巻き込まれていった。
彼は事前に賭けられている金額を確認していたので安心だったが、ジョー・ヴァロンなどはある時ランスキー相手にポーカーを始め、幾度も「25上乗せ」を繰り返した挙句、ランスキーが最終的な計算をするのを見ながら何百ドルも支払う覚悟をしていた。
ところが「25」の単位はセントで、ヴァロンは1ドル98セントぽっち負けただけだった。
ナショナル・ホテルのプールサイドで、エンリケ・ルソーは相当に経験豊富な仲間たちともカードゲームで対等に渡り合えることを知って喜んだ。
ジン・ラミーの成績はなかなかだったし、負けても大した損失ではなかった。
ある日、ランスキーはキューバでできたこの新しい友達にアドバイスをした。
それは夜になるとエンリケが嗜んでいた、もう少し重いギャンブルについてだった。
「エンリケ、」とランスキーは言った。
「毎晩、君が21で負けているのを見ているが、もう黙っていられない。14で必ずカードをもらえ。15でももらえ。16では我慢する」
マイヤー・ランスキーがカジノで勝つ秘訣を人に伝えることは珍しかったので、その晩エンリケ・ルソーはわくわくしながらブラックジャックのテーブルへ向かった。
ランスキーに伝授された戦略をそれから何日も続けて忠実に実践したが、結局は毎回負けたのだった。
ハバナに自分のホテル・カジノを建てるとなったときランスキーは水準を高く設定した。
これまでもバグジー・シーゲルのフラミンゴを始めとするホテル事業に参加したことがあったし、フロリダのキーズではプランテーション・ハーバー、ハリウッドのボエム近くのタスカニーというモーテルのバディ名義の株も所有していた。
だがハバナのリヴィエラはランスキーがゼロから作り上げた作品だった。
キーフォーヴァーの活躍によってランスキーがネバダでゲーミング・ライセンスを取得したりラス・ベガスで堂々と事業を展開することは今後できそうになかった。
だがマイアミから海を超えた向こうには、埃っぽい辺境のネバダ砂漠よりも快適な場所に、合法的に見本のような高級リゾートホテル・カジノを建てることができた。
業界の人々はマイヤー・ランスキーこそがアメリカのギャンブル・マスターだと言い切った。
マフィアたちもしかり、FBIもしかり。
ハバナのリヴィエラがそれを証明する、と。
リヴィエラの建設にあたり、ランスキーはマイアミ・ビーチの10棟以上のホテルや高級アパートメントをデザインしたアーヴィング・フェルドマンを任命した。
背の低いフェルドマンは向こう見ずでダイナミックでどこかナポレオンを思わせ、いい仕事をしつつも期日をきっちりを守ることで知られていた。
私生活では悪びれずにギャンブルと女遊びを楽しむ人物だったが、ビジネスとなるとストイックで、1957年1月に着工したリヴィエラは11か月後には完成していた。
ホテルに関するマイヤーの方針はとにかく全てが最高級であるべきというものだった。
ハバナで全館空調を導入した大規模の施設としてはリヴィエラが初めてで、数か月前にナショナルの近くに竣工したカプリ・ホテルは室外機が全ての窓でガタガタと音を立てて水を垂れ流していた。
リヴィエラの客室には天井の吹き出し口から冷気が音もなく供給され、窓はオーシャンビューに独占されていた。
上空から見るとマレコンから二つの大きなカーブが巨大なY字を描いており、張り出しバルコニーが先端にあつらえられていた。
様式に関してはリヴィエラは鋭角的で未来的だった。
ホテルはフロリダ海峡に呼応するようにターコイズブルーのタイルに覆われ、傍らのカジノ棟は金タイル張りの窓のない曲線的なドーム型で、巨大な金色のダチョウの卵を思わせた。
内装はラス・ベガスの最新の高級ホテルを担当するパーヴィン・ドアマンのアルバート・ドアマンがデザインした。
カジノやレストラン、共用施設の天井には煌びやかな円盤のようなモダンなシャンデリアが輝いていた。
全体的なテイストは上品とは言えなかったが、ワクワクすることは間違いなかった。
リヴィエラがランスキーのプロジェクトであることはハバナ中が知っていた。
メイン・タワーの鉄骨の骨組みが出来上がるにつれ、ランスキーは意気込みの伝わる進捗報告や写真をタコマにいるポールに送った。
ただ、相変わらず自分の名前はパートナーや関係者の後ろに周到に隠していた。
ホテルがキューバ政府に年間25,000ドルを支払うカジノ・ライセンスはエディ・レヴィンソン名義だった。
カジノ・マネージャーはレヴィンソンの仲間、エディ・トレス。
そしてリヴィエラ・ホテル・コーポレーションそのものもベンとハリー・スミスという兄弟の名前で登記されていた。
二人はランスキーがマネジメント契約をもちかけたトロントのホテル経営者だった。
唯一、ホテルの厨房の管理者としてのみランスキーの名前が記載されていた。
マイヤー・ランスキーのトレードマークでもあったこの目立たなさは、彼の性格の謙虚さの表れでもあり、脱税の手段でもあった。
リヴィエラに携わっていた他のアメリカ人と同じく、マイヤー・ランスキーは収入を内国歳入庁に毎年申告していたが、リヴィエラ・ホテル・コーポレーションの従業員として申告していた収入に対する税金は比較的少なかった。
まだホテルの計画段階だった1956年分として9,000ドル、建設中の1957年文として36,000ドル、そして開業した1958年には36,500ドル、というように。
だが厨房管理者としての仕事にランスキーは真剣に向き合っていた。
サラトガで仕事をして以来、彼はレイク・ハウスのポリシー、すなわち良いカジノは良い食事を出すというルールを守っていた。
1956年にポールの結婚式にランスキーが出席した際、ウィンスロップ・ホテルに到着してわずか数時間で厨房のシェフに施設を案内してもらっているのを見て義理の娘になろうとしていたエドナは驚いた。
マイアミ・ビーチではランスキーはコリンズ・アベニューのウルフィー・コーエンに真面目に教えを乞い、あらゆるステンレスの道具の利点を議論した。
そしてリヴィエラが開業すると、ランスキーがVIPのゲストたちを真っ先に案内したのは厨房だった。
ランスキーが一流のカジノを作って運営できるのは誰もが知っていたが、一流の厨房までとは誰も予想していなかった。
1957年12月10日、リヴィエラ・ホテルは華々しく開業した。
コパ・ルームのフロアショーの一部はアメリカでテレビ放映され、ジンジャー・ロジャーズがオープンを飾った。
彼女を見込んでいたランスキーはいくらかがっかりさせられた。
「尻を振るのは上手だけど、歌はまるで下手糞だ」
だが誰もそんなことを気にしていなかった。
リヴィエラは誰が見ても大成功だった。
カジノは一晩目から大儲けし、440ものダブル・ルームは1958年の春の先まで予約で満室だった。
コパ・ルームで眺めのいい席を確保するには大枚をはたかなければならず、それもそのはず、オープンしたシーズンの出演者リストにはヴィック・ダモーン、アボットとコステロ、そしてメキシコのコメディアン、カンティンフラスの名前が並んでいた。
ランスキーを特に満足させたのが、ホテルのグルメ・レストランであるリヴィエラ・ルームの人気だった。
予約を取ることが困難なそのレストレランでは町一番の高級料理を食べることができ、特にステーキが最上級の品質であった。
1957年~1958年の冬にハバナを訪れた者は、多くの贅沢で珍しい体験を楽しんで帰っていった。
空港近くのカーサ・マリナには若く美しい高級娼婦が多数おり、好色の客は飛行機に乗る前も後も欲求を満たすことができた。
ショーを見たければ、マリアナオのトロピカーナで煌びやかなツリートップ・レビューを楽しむことができた。
また大人向けの内容には、1ドルコインを12枚を並べた長さの「男らしさ」を誇る、スーパーマンと呼ばれる男のショーがあった。
このスーパーマンの記録はあまり残されていないが、雰囲気は映画「ゴッドファーザーpart2」で確認することができる。
短気な警官が発砲する音が時折耳に飛び込んでくるハバナの夜は、キーフォーヴァーがアメリカ東海岸犯罪シンジケートのドンと呼んだ男が造り上げた娯楽の御殿でディナーとギャンブルを楽しむまでがワンセットだった。
実際には全盛期のリヴィエラ・ホテルの客たちは、ギャングスターの雰囲気など欠片もない思い出ばかりを持って帰って行った。
卵型のカジノの中のギャンブルは、飛び交う金額の真剣さを反映してか、常にひっそりと静粛だった。
ドレスコードも厳しく、男の多くはタキシードを、女は高価な宝石を身に着けていた。
マイヤー・ランスキーのリヴィエラの大理石のホールは、外のお祭り騒ぎのカーニバルと比べて静かで紳士的な空間だった。
セグンド・クルティ・メッシーナは1952年にバティスタが転覆せしめた政府の大臣の一人だった。
彼はハバナに大勢のギャングスターが移り住んだことを亡命中に知り、悪夢が現実になったと感じていた。
だが、ハバナに住み続けていた親戚の話によると、どうも想像と様子が違った。
新しいホテルやカジノはきちんと規制に沿って運営されているらしく、クルティ・メッシーナの友人の一人は酔っぱらっていたためにリヴィエラで門前払いされたという。
あるアメリカ人観光客が、アメリカ大使のアール・スミスになぜギャングスターを野放しにしているのかと尋ねたという。
大使はこう答えた。
「おかしなことですが、まっとうなカジノ運営にはこれしかないんです。」
シカゴのテレビ局で働き始めたばかりのフランク・アトラスという会社員が、開業したばかりのリヴィエラを訪ねたことがあった。
彼はホテルのマネージャーを務めていたシカゴのギャンブラー、カーネル・チャールズ・バロンの友人だった。
ある日バロンは「大変重要な人に紹介しよう」と言い、アトラスをリヴィエラのロビーのエレベーターへ連れて行った。
アトラスは、友人が急に背筋を伸ばしたことに気づいた。
二人はエレベーターでリヴィエラの最上階へ上がった後、廊下を歩いてオーシャンビューのバルコニーを誇るペントハウスへと向かった。
銃も役人もボディガードも見当たらなかったが、アトラスは神聖な領域に足を踏み入れた感覚があったという。
ソファの一つに腰かけていたのは小柄で引き締まった感じの中年の男性だった。
肌は日焼けしており、大きな鼻が目立つ顔には皺が刻まれていた。
こざっぱりとした髪は黒かったが、白髪交じり、オープン・シャツにノーネクタイでスポーツ・ジャケットを着ていた。
握手をしようとランスキーが立ち上がった時、笑うと目の周りにくっきりと皺ができたのがアトラスの印象に残っていた。
フランク・アトラスはリヴィエラ・ホテルの最上階でランスキーとどんな短い会話を交わしたかは覚えていなかった。
ただ圧倒されたことだけを鮮やかに覚えていた。
静けさと、敬意と、ある種の威厳と。
「まるで」とアトラスは思い出す。
「王に謁見したかのようだった。」
負けたんだ
1957年の10月25日午前10:12、ニューヨーク市警のウィリアム・グラフ刑事とエドワード・オコナー刑事は54番ストリートの18分隊室で片付けをしていた。
港湾部のゆすりについて一年間かけて調査し終え、書類を整理しているところだった。
そこへ緊急電話交換台の巡査部長から電話が入った。
「パーク・シェラトンホテルの理容室で銃撃があった。」
二人の刑事は55番ストリートに建つパーク・シェラトンまで車を飛ばした。
オコナーが車を駐車している間に、グラフがロビーからホテルへ入った。
二重のガラス扉を通過しながら、地面に小さな拳銃が転がっているのを認めた。
瞬時に、プロの仕事であることを悟った。
プロのヒットマンは必ず現場に武器を捨てていく。
もし捕まることがあっても、有罪と断定することができないようにだ。
武器を持ったパートナーの方が周囲を注意深く見つつ、必要に応じて追っ手を撃退する。
グラフが一つ目の武器を見つけた数時間後に、二つ目の拳銃が見つかった。
それは暗殺者達が逃亡に使った地下鉄のゴミ箱にあった。
また、被害者の体はパーク・シェラトンの理容室の床に血まみれで倒れていた。
ウィリアム・グラフが被害者の名前―ウンベルト、実はアルバート―を聞いた時、彼とオコナーが調査を完了したばかりの港湾部の一件と関係があるのではないかという考えが頭をよぎった。
被害者の兄弟、トニー・アナスタシオは沖仲士組合で影響量を持っており、彼はほどなくしてシェラトンに到着した。
変わり果てた家族の遺体の前に跪き、茫然自失の様子で取り縋りながら涙を流したり口づけたりしていた。
ミッドタウン・マンハッタンの理容室でアルバート・アナスタシアが迎えた凄惨な最期は、彼の名を一気にアメリカン・ギャングスターの殿堂へと押し上げた。
予測不能でサイコパス的な要素を持っていた彼は、バグジー・シーゲルからチャーミングな部分を取り除いたような人間だ。
それまでにあまりに多くの人を傷つけ脅してきたので、ある意味でその最後は予期されていた。
正義が働いたと言っても良かったかもしれない。
現場のパーク・シェラトンはかつてパーク・セントラル・ホテルと呼ばれ、29年前にアーノルド・ロススタインが銃殺されたのも偶然にもこの場所だった。
指紋を探したり写真を整理したり、グラフとオコナー刑事は目の前の証拠を守ることで精一杯だった。
「目撃者がいるだけマシだな。」
グラフはオコナーに言った。
店になかにはイタリア人の理容師が7人おり、目の前で起きた惨劇にまだ言葉を失っているようだった。
「ドン・ウンベルト!ドン・ウンベルト!」と店長は嘆いていた。
ところが理容師たちは警察に意味のある証言を一つも提供できず、暗殺者の正体を突き止める手助けにはならなかった。
若い刑事たちがアルバート・アナスタシアのポケットを探ると、ホテルの鍵が出てきた。
それから24時間以内に、鍵が近くのワーウィック・ホテル、1009号室のものであると判明。
そこはアナスタシアがミッドタウンでの拠点としていた部屋で、調べていくと、ワーウィックには最近四人のキューバ人が滞在しており、アナスタシアと会っていたことが明らかになった。
四人の中でロベルト・「チリ」・メンドーサがリーダー的存在。
彼はハバナでマイヤー・ランスキーの建てた440客室のリヴィエラよりも更に大きい、630室のヒルトン・ホテルを建設中の請負業者だった。
アナスタシアは新規開業予定のヒルトンに併設されるカジノを運営するシンジケートの一人にしてくれないかとチリ・メンドーサに持ち掛けていた。
同時に、サント・トラフィカンテも自分の住所をサン・スーチ/ハバナと宿泊者名簿に登録してワーウィックに登録していた。
ワーウィックのドアマンによると、トラフィカンテは暗殺の朝に急いだ様子で空へタクシーで向かったという。
グラフとオコナーはハバナの有名なギャングスターたち、特にマイヤー・ランスキーのことを認識していた。
キューバのギャンブルで生まれる金の流れは分かりやすい暗殺の動機に思えた。
事実、アルバート・アナスタシアはチリ・メンドーサとヒルトン・ホテル・カジノを通してマイヤー・ランスキーあるいはその他のキューバのギャングスターのテリトリーに無理やり侵入しようとしていた。
彼はハバナでランスキー等を脅迫し、ホテルカジノの株の一部を手に入れた、にも関わらず満足せず、結果的には殺されてしまった。
あくまで事件は未解決ではあるが、同時期に思い詰めた様子のランスキーが目撃されている。
「ランスキーはいつもより多くの胃痛薬を飲んでいた」この証言は証拠には程遠いが、関与を想像させるには充分である。
3週間後、まだ事態は整理できていなかった。
マンハッタンの北西へ200マイルのアパラチンというニューヨーク州の小さな村で、エドガー・D・クロスウェル巡査部長が地元のビール/ソフトドリンク販売者のジョゼフ・バーバラの敷地に多くの車や黒塗りの車が止まっていることに気づいた。
ジョゼフ・バーバラは後ろ暗い人間だった。
若いころはいくつかの殺人容疑で逮捕されたものの釈放され、それらは麻薬や酒の密売のゆすりと関連していた。
ジョゼフ・バーバラのアパラチンのマンションに来ていたゲストたちもますます怪しげだった。
クロスウェル巡査部長が道路を封鎖してマンションから出てくる男たちを58人拘留すると、そのうち50人に逮捕歴が、35人に起訴歴が、23人に服役歴があった。
全員がイタリア系アメリカ人で、ほとんどがアメリカの北東の都市に居住していた。
ニューヨークのマフィアのトップ・メンバー、カルロ・ガンビーノ、ヴィト・ジェノヴェーゼ、ジョゼフ・プロファチらもいた。
彼らは例外なく、ジョゼフ・バーバラが病に伏せていると聞いたので見舞いに来たのだと話した。
アパラチンの訪問者たちの動機がわからないまま、司法省は陰謀罪で彼らを起訴。
1960年1月には20名に長期の服役を言い渡したが、11月28日に連邦高等裁判所によって覆された。
判決は「これらの陰謀者が悪事を働いたことがあるのは相違ないが、証拠なのない罪で判決を下すことはできない」というもの。
J・エドワード・ランバード判事は更にこう述べた。
「善良な市民であっても警察に根拠もなく引き止められて尋問されれば、できるだけ話したくないと考えるだろうし、早く取り調べが終わってほしいと思えば曖昧な答え方をすることもあるかもしれない。」
アパラチンの集会が開かれたきっかけとなったのはフランク・コステロとヴィト・ジェノベーゼの抗争だった。
この5ヶ月前にはフランク・コステロがセントラル・パーク・ウエストのマジェスティックの自宅へ入るところを銃撃され引退している。
ニューヨークの新聞社各紙はアナスタシア暗殺とコステロ銃撃の2つの事件を暗黒街の紛争の証拠であるとして関連付けて報道していた。
後にドク・スタチャーは事件の真相についてこう話している。
「あいつが仕組んだのさ、ランスキーが」
ドク・スタチャーの主張はこうだ。
ランスキーはヴィト・ジェノベーゼがコステロを暗殺しようとした報復に、マフィアの大多数を警察に売った。
この話には二つの裏付けもある。
第一にアパラチン会議にはランスキーとコステロに親しい者は出席しなかった。
第二にクロスウェル巡査部長が“マフィア集結”に気がついたきっかけは匿名電話の通報であった。
このアパラチン事件の結果、コステロの報復は果たされジェノベーゼは失脚。
計画はうまくいったのだが、その一方でアナスタシア暗殺事件は思わぬ展開を見せる。
ランスキーを探せ
ジョゼフ・バーバラの体調を気遣って来た男たちは、さながらニューヨーク周辺のイタリア人ギャングスターやゆすり屋のオールスターだった。
遠方からの来訪者は6名ほどで、そのうちの一人はサント・トラフィカンテ・Jr。
ただし警察に告げたのはキューバでよく使っているルイ・サントスという名前だった。
ハバナのギャンブル絡みと踏んだニューヨーク市警は理容室での暗殺事件の直後から血眼でアルバート・アナスタシアを殺した犯人を捜しており、若き刑事グラフとオコナーも捜査班に配属され、上司の指示に沿って動いた。
ワーウィック・ホテル1009号室の鍵が今のところ最も有力なヒントに思え、景気のいいキューバのカジノ・ビジネスとニューヨークのギャング長同士の繋がりこそが事件の真相に違いなかった。
1958年、アナスタシア時間の捜査班はキューバ内のギャンブルを牛耳っているとされるアメリカ人ギャング長がニューヨークに来るとの情報を耳にする。
マイヤー・ランスキーは1958年の2月11日、アイドルワイルド空港に到着するなり拘束された。
その晩は雪で、マイヤーのタクシーを尾けていた刑事達は本マイヤーが53番ストリートとブロードウェイの交差点で降りるなり素早く逮捕。
西54番ストリートの交番で3時間にわたって取り調べたもののめぼしい収穫がなく、最終的に浮浪罪で調書をとったのだった。
モーゼス・ポラコフが1,000ドルの保釈金をもって駆けつけランスキーを保釈させたのは翌日の朝だった。
警察が浮浪罪の調書をとったのは、取り調べが何も実を結ばなかったからだ。
マイヤーに生業について尋ねると、「ビジネスだ」との答えが。
「どのようなビジネス?」と問うと。
「私のビジネスだ」と応じ、ランスキーはそれ以上詳しく説明することを拒否した。
調書を取ることで警察はランスキーのポケットや荷物を調べることができたが、それらも取り調べ同様むなしい結果に終わった。
交番の外で待ち構えていた新聞記者たちも、当てが外れた。
理容室の暗殺のことを何か知っていますかあるレポーターた問いかけたが、「アラスカにいるエスキモーの方が詳しいんじゃないか」とランスキーは答え、モーゼス・ポラコフと共にセントラル・パーク・サウスのホテル・ナヴァロに向けて車で走り出した。
それからウィリアム・グラフやエドワード・オコナー含む12人程の刑事たちはニューヨーク市内を移動するマイヤー・ランスキーを尾行し続けた。
アルバート・アナスタシアの死につながるような情報は何も得られなかったが、本人の趣味嗜好にはいくらか詳しくなった。
警察の監視報告によるとランスキーは本屋を好み、ブレンターノやバーンズ&ノーブルによく出入りしていた。
また平凡なレストランをよく利用し、ディンティ・ムーア、ザ・フォーラム、ザ・イタリアン・パビリオン、ビリーグウォンズ、オールド・タイマーズ、ロンシャンなどで目撃されていた。
ホフリッツ・カトラリー店へ出かけたところを見ると、キッチン用品に興味があるらしい。
ある寒い日曜日、ウィリアム・グラフはホテル・ナヴァロのロビーで張っているように言い渡されていた。
外の歩道は雪や霙に覆われ、グラフは靴から水滴を絨毯に滴らせながらソファでのんびりしていた。
するとランスキーがロビーに入ってきた。
受付の者と額を合わせ、やや秘密めいた話をしているように見える。
二人がグラフの方へちらちらと目線を投げかけたかと思うと、ランスキーがこちらへ向かって歩き出したのでグラフは肝を冷やした。
そのままランスキーは意志を持った様子で隣に腰かけ、グラフは驚いて黙り込んでしまった。
警察学校ではホシがこのような動きをした際の対応を学んでいなかったからだ。
だがランスキーもしばらくは何も言わなかった。
グラフの隣で腹部をさすったり、同情してくれと言いたげな声をあげたりしていた。
潰瘍が痛むんだ、と隣に座る若者にランスキー自己紹介もせずに話しかけた。
「人恋しかったんじゃないでしょうか。」
グラフは今そう振り返る。
マイヤーはオープンカラーのシャツにジャケットを着こみ、時折ロビーの反対側の入口のガラス扉と、その外の吹雪へと目をやった。
誰だってあんな天気の中で外に行きたいとは思わないし、ランスキーは本当に具合が悪そうだった。
「考えていることがある。」ランスキーは唐突に沈黙を破った。
グラフ刑事は瞬時に身構えた。
ついにホシが告白をするのだろうか?グラフは先を促すような曖昧な音をたてた。
「ニワトリだよ。」ランスキーは言った。
ウィリアム・グラフは聞き違いかと思った・
「ニワトリだよ。」マイヤー・ランスキーは繰り返した。
「ハバナではいいニワトリが手に入らない。」
ここ数十年でもっともセンセーショナルなニューヨークのギャング員暗殺の容疑者であるマイヤー・ランスキーがハバナで新鮮な鶏肉を入手する難しさについて語るのを、グラフ刑事は茫然としながら聞いていた。
「牛肉は問題なかった。リヴィエラのステーキは上等だったし、魚介類やラム肉も手に入った。だが鶏肉ばかりは…どこを捜しても、グレードの高いニワトリを提供してくれるキューバ人の農家が見つからなかった」
だからニューヨークにきたのだ、とマイヤーは説明した。
上質な鶏肉を空輸するため、そしてもちろん、潰瘍の治療をするため。
ウィリアム・グラフは1時間近くもマイヤー・ランスキーの傍らでリヴィエラの厨房の課題について聞かされながら、どうすればもう少し生産的な方向に会話を転換できるか思案していた。
「僕で遊んでいたんですよね。」今はウィリアム・グラフもそう悟っている。
若かった刑事はマイヤー・ランスキーとの会話の内容も、会ったことすらも報告することはしなかった。
アルバート・アナスタシアの死にランスキーが関係しているという警察の読みに貢献する収穫が何一つなかったからだ。
潰瘍や新鮮な鶏肉のことを書いても仕方ないだろう。
それから数ヶ月が過ぎ、1958年の2月にマイヤー・ランスキーがニューヨークを訪れたのは不穏な目的ではなさそうだという考えが主流になっていった。
ハバナのカジノをギャングスターに貸し出していると思われてはならじとヒルトン・ホテルズは警察に全てを公開し、そのおかげでキューバのギャンブル事情はウィリアム・グラフやその仲間たちにとってもう少し鮮明なものとなった。
ハバナで確立されているギャンブルシンジケートとは別に、13ものシンジケートが新ホテルのカジノの使用を申し込んでいた。
年間の利益は3億ドルと見込まれていて、ヒルトンは年間1億ドルの前払いレンタル料を請求することになっていた。
そしてヒルトンが指定したいと思っている候補がロバート・「チリ」・メンドーサだった。
メンドーサはバティスタに認められており、ホテルのオーナーであるキューバ・ホテル&レストラン労働者組合との関係も良かった。
組合は労働者の雇用を確保する目的と年金ファンド用の投資としてプロジェクトの資金を出し、経営と国際広報はヒルトンにリースしていた。
ウィリアム・グラフがキューバでのコンタクトを何人か作ると、彼らはキューバでギャンブル・オペレーターとして活躍するにはマイヤー・ランスキーの承認が必要だと言う。
だがランスキーにはヒルトンを誰が借りようが関係なさそうに見えた。
リヴィエラのカジノは絶好調、アメリカ人ギャンブラーならナショナル・ホテルのゲーミング・ルームにもサン・スーチ・ナイトクラブにもいたし、最近開業したカプリ・ホテルでは映画スターのジョージ・ラフトがサント・トラフィカンテ率いるシンジケートのフロントマンとして客を入口で迎えていた。
ハバナのギャンブルでアメリカ人はすでに相当幅を利かせており、ヒルトンのカジノはキューバ人に任せるとバティスタも宣言していた。
チリ・メンドーサはいくつかのベンチャーでバティスタのパートナーだった。
ハバナ一の野球チームのオーナーでもある、由緒あるキューバの家族の出身で、偉大なるヤンキーズのセンター、ジョー・ディマジオにヒルトンのカジノの顔になってもらいたいという野望を持っていた。
メンドーサにその提案をしたのはジョー・リヴァーズというアメリカ人クラップ屋。
彼がディマジオと引き合わせるためにメンドーサをニューヨークへ呼び、メンドーサが1957年の10月にワーウィック・ホテルに宿泊していたのはそのためだった。
ヒルトン・カジノに関して言えば、会合は大した結果を生まなかった。
ディマジオはのっけから、酒やギャンブルを承認することはできない、なぜなら「国の若い世代に」悪い影響を及ぼすから、ということだった。
その後話は賑やかな野球談議へと発展し参加者は大いに楽しんだが、やがてジョー・リヴァーズはディマジオを見送り、親友のアルバート・アナスタシアを連れてきた。
こちらが本命であった。
アメリカの労働組合とのコネを根拠に、ハバナ・ヒルトンの共同経営者として自分は相応しいのではないかとアナスタシアは申し出た。
港湾部を支配する沖中士組合の代表と副代表であったアナスタシアと兄弟のトニーはニューヨークのホテル、レストラン、バーの労働者の組合にもそれなりの影響力を持っていた。
「ボスは君をクビにできる?」
アナスタシアはチリ・メンドーサらにランチを振舞ったニューヨークのレストラン、チャンドラーズで給仕長に尋ねた。
「いえ、組合がありますから。」給仕長は答えた。
アナスタシアは彼に10ドルを手渡した。
アルバート・アナスタシアとチリ・メンドーサがワーウィック・ホテルに同時期にいた理由が明らかになるとともに、ニューヨーク市警は理容室での暗殺事件にマイヤー・ランスキーが絡んでいるという根拠を見つけられなくなっていった。
キューバのギャンブルが諸悪の根源ではなかった。
ニューヨークでの捜査が進めば進むほど、地元でアルバート・アナスタシアが起こしている様々な問題が浮上してきた。
ギャング同士の縄張り抗争、移動式クラップ・ゲーム、、ジュークボックス販売路、ロング・アイランドの何を誰がコントロールするか。
ドン・ウンベルトがマフィアに抹殺される理由は数えきれないほどあった。
アナスタシア殺人捜査班はキューバからクイーンズ、ブルックリン、ブロンクスへと焦点を切り替え、やがて5名のニューヨークの男を起訴するだけの証拠を集めた。
ランスキーーは1958年2月27日には嫌疑を振り払っていた。
マンハッタンの裁判所でルーベン・レヴィ裁判長の前に立ったランスキーの傍らにはモーゼス・ポラコフがおり、彼はランスキーがきちんと購入された航空券でニューヨークへ来たこと、荷物と小切手帳とホテルの予約も全て問題ないこと、そして現金を1,085ドル所持していたことなどをやや攻撃的に述べた。
これらの容疑者たちは公になることはなかった。
裁判に持ち込むほどの証拠もないと判断され、1957年のアルバート・アナスタシアの暗殺は1947年のバグジー・シーゲルの暗殺同様、迷宮入りしている。
警察がマイヤーの提供した情報を確認しさえすれば、容疑者がフロリダやキューバに大きな家を所有していることや、35,000ドルの預金残高があることを発見できたはずである。
「誰の目にも明らかですが、」ポラコフは結論付けた。
「彼を浮浪罪に問うことはできません。」
裁判長も同感だった。
「我々の政府の元で、社会的に理想とされる生業をもつことは犯罪と同義ではない。
今回は警察が浮浪罪の根拠を十分に取らなかった。
金銭的な困窮、失業、住所不定などの根拠がないため、訴訟は却下する。」
1958年の1月から3月にかけて、ハバナはどこか夢の国のような雰囲気だった。
観光客数は過去最大に多く、開業したばかりのカジノ・ホテルは笑いが止まらなかった。
もともとマイアミホテル経営をしており、カプリの経営を20年契約で任されいたJ・「スキップ」シェパードは当時の金の流れ―純粋な利益―を、「嘘みたいだった」という。
マイヤー・ランスキーの評判とコネのおかげで、一番大金を持った真剣な博徒はリヴィエラに集っていた。
一晩賭け続け、20,000ドルや30,000ドルの小切手をさらりと書くようなつわもの達だ。
夜明け前にそれらの小切手はまとめてダン・「ダスティ」・ピーターズのブリーフケースに入れられた。
ピーターズは1940年代からコロニアル・インをはじめとするマイヤーのフロリダのギャンブル・ジョイントでホストとして働いており、常にカジノにうろついている背の高く感じの良い男だった。
ピーターズはリヴィエラを出ると朝一番のフライトでマイアミに向かい、正午には現地やマイアミ・ビーチの銀行で決済を済ませていた。
夕方にはリヴィエラに戻っており、不渡り小切手があれば書いた者を探し出すためにハバナ中に電話をかけた。
ノルベルト・ペーニャというおとなしそうで礼儀の正しいキューバ人が金の回収を任されていた。
ランスキーはリヴィエラのカジノで働く若いキューバ人ディーラーを養成するための学校を設立しており、そこでは女性の手にキスをするのが好きなディノ・チェリーニという男が指導をしていた。
生徒たちはディナー・ジャケットの寸法を測ってくるようにチェリーニに告げられると卒業が近いことを知った。
だがペーニャは仕立て屋に送られることはなかった。
チェリーニは彼に、もっと高尚な役目があると告げた。
ペーニャには債権回収は高尚な役目に思えなかったが、やってみると簡単な仕事だった。
真面目なギャンブラーにとって最も怖いことはギャンブルから引き離されることなので、たいていはペーニャがロビーから電話をかけると数分のうちに振出人が現れた。
ペーニャにとっては新発見だったが、大きな負債を抱えた人もほとんどはそれをカバーできるだけの現金を持っており、リヴィエラで働いていた期間中に回収できなかった負債はなかった。
クレジットを細かくコントロールすることがマイヤー・ランスキーの成功の秘訣の一つであるとペーニャは知った。
リヴィエラで10,000ドルや15,000ドルのマーカーをサインする客がいれば、それは支払い能力があると見なした人間がいることを意味していた。
その人間とはたいてい、大した役目もなさそうにカジノをうろついている感じのいい制服の男たちだった。
カジノ・ホストの仕事は大金を賭けてくれる客をもてなし、無料の客室や食事を提供することだけではなく、最も重要なのは負けた時にきちんと支払うことができるか否かを見極めることだった。
うまく回っているカジノは複雑なものなのだとノルベルト・ペーニャは知った。
リヴィエラの楕円形をした殿堂のシャンデリアの下にはスロット・マシンが並ぶ一角があった。
それらが発する賑やかな音は建物の真ん中で行われているシリアスな取引に少しカジュアルな雰囲気をもたらしたが、カジノの従業員が機会に触れることはなかった。
「一本腕の悪党」達のメンテナンスや硬貨の回収に来るのはまったく別の組織の者たちで、上司も異なった。
上司である勘定係は仲介者を通して、大統領の親戚をレポートラインの最上部としていた。
マイヤー・ランスキーはバティスタのキューバの腐敗の中で心地良い居場所を確保していた。
彼の得意とする贈賄や収賄で要領よく君臨する手法が、1950年代半ばのキューバでは極められていた。
コーヒー・ショップのウェイトレスが無能だと聞けば組合に金を払ってもっといい人材を送り込んでもらい、地元のジャーナリストのディエゴ・ゴンザレスがリヴィエラの評判を落とすような記事を書けば月々の「コンサル料」を支払うよう取り計らった。
ランスキーは独り占めするようなケチなところがなかった。
全員を幸せにするだけの金が十分にあったからだ。
それでも他の大事なものを削ってしまうのが拝金主義というものだった。
ディノ・チェリーニのディーラー・スクールに入学したがる者の多くは四大卒で、キューバの未開発の地域で不足する教師や獣医や医師となり得る人材だった。
リヴィエラはカジノやレストランやバーに娼婦を入れることはしなかったが、ハバナのカジノによって潤沢になった金の流れが空港近くのカーサ・マリナへ及び、そこではアメリカ人観光客が金さえ出せば13歳の少女を買うこともできた。
マイヤー・ランスキーは歴史や政治、世界情勢には詳しかったかもしれないが、自分がその一部を担う政治と社会の腐敗には見て見ぬふりをしていた。
本人の道徳観を脇に置いておくとしても、その放任主義がキューバにおけるマイヤーの立場を約束してくれている人物を脅かすことになることにも気づいていないようだった。
フルヘンシオ・バティスタは当初、暴君の失脚を通して政権を握ったわけだが、1958年になる頃には彼自身が暴君に変貌していた。
相変わらずチャーミングな人間性と国を良い方へ変えたいという野望を持ち続けていたが、彼のセキュリティ・ポリス(SIM)は今は堂々と暗殺や拷問を行い、アメリカの外交官の目撃談によると殺された者の遺体は木の枝や道路脇でさらされた。
逮捕された反体制派は拷問で済めば運がいいほうだった。
キューバの中上流階級は全体としてバティスタの先導する観光ブームのおかげで潤っていたが、その下にはブームの恩恵を一つも受けない膨大な数の人々がいた。
リヴィエラの宿泊客が高級なスイートの窓から建物後方の道を見下ろすと、歩道でキャンプ暮らしをしたり廃車を家代わりにする貧しいキューバ人を見ることができた。
バティスタの敵対者がたち暴力に訴えるようになってきたことをランスキーは身をもって体験している。
1956年10月のある晩、SIMのトップのアントニオ・ブランコ・リコ大佐がモンマルトル・クラブに遊びに来た際、複数名の暗殺者によって銃殺された。
犯人が捕まることはなく、反体制派は山の中に隠れていると言われていた。
フィデル・カストロが1956年12月に反乱軍をオリエンテ州に上陸させたのは、リヴィエラの着工の数週間前の出来事だった。
それ以来、若き反政府活動化の支持者は順調に増えて行っていた。
シエラ・マエストラに潜むひげ面の反逆者たちに支持者を増やさせてはなるまいと、心配した何人かのキューバの自由主義者はバティスタに権威主義を少し民主主義寄りに方向転換するよう助言したりしたが、大統領は聞く耳を持たなかった。
マイヤー・ランスキーはほとんど自分事として心配していなかった。
当時ランスキーはホテルにつぎ込んだ投資を取り戻すことだけに集中しており、現地の政治について尋ねられると、肩をすくめるだけだった。
てっぺんが替わったとしても、と彼は言うのだった。金があればうまくやれるはずだ、と。
1958年12月上旬、フルヘンシオ・バティスタは自分の子供達のパスポートにビザのハンコを押してもらうべくアメリカ大使館へ送った。
12月9日、アイゼンハウアー大統領はバティスタに使者を送り、キューバを速やかに去る代わりにアイゼンハウアーのデイトナ・ビーチの家にかくまうことを約束した。
1週間強後、12月の17日にアメリカ大使のアール・E・T・スミスが同じメッセージを公式に伝えた。
情勢に通じた者には、フルヘンシオ・バティスタの天下が長くないことは明らか。
マイヤー・ランスキーは情勢に通じていなかったのだ。
1958年12月末にフロリダへ行き、大みそかにはリヴィエラの年末パーティにあわせてリヴィエラに戻った。
ランスキーは体調を崩していた。
潰瘍の悪化のため数か月の内に二度入院しており、膝が腫れ上がって歩行も困難だった。
1958年12月の31日、ランスキーが自室で休んでいる間にコパ・ルームではテディがホテルのキューバ人弁護士エドゥアルド・スアレス・リヴァスと踊りながら新年を迎えていた。
奇妙なほどに寂しげなその会場では事前に大量の予約が入っていたにも関わらず、パーティの数時間前に200件ものキャンセルが入ったため関係者は首をかしげていた。
バティスタ大統領が秘密裏にキャンプ・コロンビアへ移動し、隣の空軍基地で軍用機三機を借用して家族や側近の者とその荷物で満杯にした上で亡命を果たしたことがハバナのホテルに知れ渡ったのは夜中の1時過ぎだ。
フィデル・カストロとその仲間達はまだハバナから500マイル離れたオリエンテ州にいた。
過去最大規模のキューバ軍はバティスタを見捨てることはしなかったが、命や財産を失うことを恐れたチャーミングな元速記者の大統領はゲーミング・テーブルから逃げることを選択したのだった。
1974年に一部がドミニカ共和国で撮影されたフランシス・フォード・コッポラの映画「ゴッドファーザーpart2」は、ハバナの全てが終わった夜の脅威や恐怖や混乱をよくとらえている。
マイヤー・ランスキーをモデルとしたハイマン・ロスのキャラクターがバティスタに警告を受け、自分と仲間のギャングスターが国から脱出するために飛行機をチャーターする場面だ。
実際にはバティスタの周辺の人々はこれから起こることについて知らされていなかった。
開業したばかりのヒルトンのカジノで元旦の未明にギャンブルを楽しんでいたチリ・メンドーサとその仲間たちは目に見えて動揺した。
リヴィエラでテディをエスコートしていたスアレス・リヴァスも何も知らされていなかった。
叩き起こされたアメリカ領事館の役人たちは大みそかの二日酔いに苦しみながらもホテルを一軒一軒回り、アメリカ人の宿泊客に外に出ないよう注意していった。
そして、避難が必要となる場合に備えて宿泊者名簿を作成していった。
唯一冷静だったのはランスキーだ。
ランスキーはすぐに全ての現金を集めろとカジノ関係者全員に伝えた。
だがトラフィカンテなどのギャング達は辞退を甘く見ており、これを後回しにした。
ハバナの朝
バティスタのいないハバナに朝が来ると、町中では人々が喜びの踊りをし始めた。
リヴィエラの従業員たちも仕事を放り出して踊りに行ってしまったのでランスキーは痛い膝を引きずりながらも自ら厨房で働き、困惑したゲストたちに無償で食事を提供した。
現実的なテディはバケツに入れた水に酢を注ぎ、リヴィエラの大理石の床を掃除し始めた。
平等主義の空気が満ちた新しいハバナでは、テディの役目は欠かせないものとなった。
1959年の年初の数週間のうちに、それまではクロムメッキと硝子張りのタワーとそこに滞在するアメリカ人を羨ましげに眺めることしかできなかった貧民たちが堂々とロビーに入ってくるようになった。
それも豚を連れて。
「豚よ。信じられないわ!」
25年後、テディは新聞記者のポール・サンに嘆いた。
「信じられない光景よ、美しいホテルの中で。私はレストランの床にモップがけしてたんだから。」
数日たってハバナは少し落ち着きを取り戻していた。
マイヤー・ランスキーがアメリカ大使館と協力して希望者をアメリカに返しつつリヴィエラの客を世話していると、マイアミ・ビーチから一本の電話が入ってマイヤーを逆上させた。
それは1959年1月3日付のニューヨーク・デイリー・ニュース紙に記載された記事の真否を問う内容だった。
記事によるとマイヤー・ランスキー、サント・トラフィカンテを含むハバナのカジノの「エリート」たちは元旦の午後にはキューバから逃げ出したという。
「ギャンブラーたちは恩人であり大統領であるフルヘンシオ・バティスタの警告を聞き入れ、三機のチャーター機で国を脱出した。」
ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンは似たような見出しを載せた。
「市・州・連邦機関、ギャングスターの流入に身構える。」
ランスキーは即刻ハバナのアメリカ大使館に電話をかけた。
それは大使館側に1959年1月4日に記録されている。
キューバから逃げていないこと、リヴィエラホテルに残って「入院しなければならないほどの体調なのにそこの人間の世話をしている」ことを訴えた。
マイヤー・ランスキーには、ハバナにいることをアメリカ大使館に印象付けなければならない実用的な理由があり、特に大使館に「随行員」として駐留しているFBIエージェントを意識してのことだった。
ランスキーはジョン・マックレラン上院議員の「労働や管理分野における違法活動に関する特別委員会」の前でワシントンで証言するよう召喚されている最中だった。
大使館には常に自分の居場所を告げるように神経を配っていたにも関わらず、新聞がチャーター機で帰国したなどと報じたことで委員会が召喚令状を軽く見ていると思われてはかなわない、とFBIのエージェントに伝えた。
三日後の1959年1月7日にランスキーがパンアメリカンのフライトでマイアミに降り立つと、空港で待ち構えていた記者たちにいつもより饒舌に応じた。
革命の日にキューバからチャーター機で帰国したという報道を自分も見たこと、そしてそれを「愉快な話だと思った」とマイアミ・ニュースのミルト・ソジンに答えた。
「ハバナのFBIオフィスに電話して、赴いた方がいいか聞いたら、『いいえ』と言われた」
マイヤーは小さな布製の鞄を持っており、手荷物はそれだけだと言う。
フロリダに数日滞在して、担当医に診てもらってキューバに戻る予定とのことだった。
1959年の1月末にはマイヤー・ランスキーは再びキューバで一緒に逃げたはずのカジノ・オペレーターたちと共に新しいキューバの政治と相容れる仕事の仕方を模索していていた。
比較的流血の少なかったキューバ革命のカオスの中で、ハバナのギャングスターたちはひっそりと過ごしていた。
一人を除いては。
1959年の1月1日の朝、狂喜するキューバの群衆は道を埋め尽くした後、旧政権の腐敗の象徴である憎きターゲットにすぐさま目を向けた。
パーキング・メーターだ。
もともと貧困層の人々に炊き出しを提供する資金を集める約束で設置されたものだったが、収益はバティスタの親戚の懐に入っていっていると思われた。
反対する者もおらず、パーキング・メーターはギロチンにかけられた囚人より早く首をはねられていった。
そして次に群衆はもう一つの忌まわしい機械、アメリカン・カジノ内のスロット・マシーンに狙いを定めた。
大勢の人々が最初に目指したのはカプリ・ホテルのサロン・ロホ(レッド・ルーム)だった。
革命家たちは意気揚々とホテルの階段を上がっていったが、あるものを見て彼らの足は止まった。
ホテルの株主でもあった映画スターのホスト、ジョージ・ラフトが扉の外に仁王立ちになっていたのだ。
「俺のカジノに入るんじゃない。」
ラフトはギャングスターらしい声で凄んだ。
1月1日の朝にアメリカ人観光客の様子を見ながら回っていて、たまたまその場に居合わせたアメリカ大使館職員のウェイン・S・スミスの目撃談によると、ラフトの剣幕を見て大衆はおとなしく踵を返したという。
ギャングスター役はなかなかはまっていたとことだろう。
1959年1月に新キューバ政府が着手したもののひとつが宝くじとカジノの閉鎖だった。
どちらも新しいキューバの倫理観に反するものだった。
新首相のミロ・カルドナは、ギャンブルに頼るぐらいなら観光業の縮小もやむなしと考えていた。
フィデル・カストロも、ハバナのカジノを支配するアメリカ人ギャングスター達を一掃する意志を既に山から発信していた。
革命家リーダーであるカストロは断言した。
「我々はギャングスターを送還するだけでなく、射殺するつもりである。」
カストロの目には、アメリカの帝国主義の手下でもあり被害者でもあるバティスタのキューバを象徴するものがギャングスターであり、ハバナのカジノに蠢く後ろ暗い人間たちこそがアメリカの自由企業主義の歪んだ比喩だった。
だが政府の現実的な課題がカストロと大臣たちの考えをすぐに変えることになった。
1959年の1月末にはカジノの閉鎖に伴って失業した数千人ものウェイター、ディーラー、バーマンなどがハバナの町中でデモを起こした。
カストロはカジノや宝くじ回りをシエラ・マエストラで共に戦った女性ゲリラのパストラ・ヌニェスに任せていた。
1959年2月末、ヌニェスは主だったカジノのオーナーたちをオフィスに呼んで、こう切り出した。
「あなた方の生業を認めるわけではないが、我々も判断を誤った可能性があると思っている。」
最後は金がものを言った。
オーナーたちは従業員たちに7週間分の給料を支払うことで合意し、政府は法令を取り下げたのだ。
「ハバナのカジノ再開」と大きく書かれたバナーを後ろになびかせた飛行機がマイアミ・ビーチの上空を旋回したのは1959年2月の最終週だった。
イースターまでの6週間で、リヴィエラを始めとするホテルはうまくいけば損失を取り戻せると見込んでいた。
潔白でありつつ現実的でもある新政府との共存に、慎重な楽観主義がゲーミング・ルームに広がりつつあった。
ある匿名客はタイム誌にこう話している。
「個人的には強欲なバティスタの取り巻きがいなくなってせいせいしたね。」
ニューヨークでも似たような反応が見られた。
フィデル・カストロは1959年の4月に大々的に都市に歓迎された。
最後の方にかけてネガティブな内容ばかりが報道されていたバティスタ政府の代わりに登場した若いゲリラ・リーダーは髭とつなぎ姿でカリスマ性あふれており、解放者、ボリバルの再来としてもてはやされた。
それは南米では最高級の賛辞だった。
しかしマイヤー・ランスキーは手放しで喜んでいなかった。
フィデル・カストロが当面だけでもハバナのカジノを再開させる柔軟さを持ち合わせているのは分かったが、見せしめの処刑が1959年3月までに300名分も執行されており、新政府はマルクス主義に傾倒するエルネスト・「チェ」・ゲバラやカストロの弟、ラウルの力が大きかった。
リヴィエラが日々相手にする組合は以前より攻撃的で観念学的になり、何かというとアメリカ人を追い出す話や労働者支配などを持ち出すのだった。
さらにランスキーの読みは外れたようで、お得意の賄賂は彼ら過激派に通用しなかった。
1959年5月6日、弟のジェイクがリヴィエラからキューバの移民局によってトリスコルニア外国人収容人に連れていかれ、送還待ちとなった。
ディノ・チェリーニも逮捕され、ジェイクと共に収容された。
ランスキーは毎日ニューヨーク・タイムスを読んでいた。
革命派とシエラ・マエストラで行動を共にしていた記者、ハーバート・L・マシューズの論調はアメリカ人に大きく影響し、親しみやすく話の分かる政府であるように書かれることが多かったが、ランスキーが目の当たりにしていたのは弟を裁判もなしに牢屋に放り込むフィデル・カストロとその配下たちだった。
1959年の春にまだ全快ではなかった彼は医者を受信するためにハバナとフロリダを行き来しており、アメリカが見ているキューバは実態と危機的にかけ離れていると感じるようになっていた。
1959年5月のある日、マイヤーはジョー・ヴァロンに言った。
「誰かがキューバで起きてることを政府に知らせるべきだ。」
弁護士は答えた。
「その誰かは君しかいない。」
1959年の5月22日、マイヤー・ランスキーはハリウッド・ブールヴァ―ド2434番のヴァロンの事務所でFBIフォート・ローデーデール支部の州内居住シニア・エージェント、デニス・オシェイと会って話した。
オシェアはマイヤー・ランスキーと会ってほしいというヴァロンの招待を承諾し、キューバの現状に詳しいマイアミのエージェントと共に来ていた。
ランスキーはこの会合に向けて周到に準備していた。
革命が成功した多くの国はその後強硬派が力をつけて抑圧的で逆行的な方向に進むことが多いことを歴史的な観点から示してみせた。
デニス・オシェアは振り返る。
「歴史家として意見を述べていた。歴史マニアだった。」
ランスキーはFBIエージェント二人を相手に教授のように振舞うのを楽しんでいた。
FBIの公式報告書にはこのように記されている。
「過去のことを何から何まで熟知しているのに感心させられた。そこからキューバが同じ道を辿るのではないかと推論したのは興味深かった。
話していると、ランスキーは過去や現在の政治の仕組みをよく理解していることが分かる。また意見を言葉にするのが非常に上手い。」
二人のエージェントはマイヤーが利己的な目的で弁護士経由で会合を望んだのだと、会うまでは思っていた。
実際にランスキーは会ってすぐに動機を伝えている。
アメリカのギャンブルがカストロ政府の政策によって「行き詰まらされた」ことを認め、このままいくと自身も仲間のギャンブラーも大きな損失を被ることになるだろうと述べた。
エージェントの報告書にはこのように書かれている。
「その損失の可能性がキューバの現状について話し合う動機となったことは否定できないようだった。
そのうえで、キューバの流動的な政治環境がアメリカにとって脅威となる前に政府に知らせたいという考えだった。」
マイヤーは愛国主義者を自認しており、国家の安全保障を真剣に考えていることをFBIに知ってもらいたいと考えていた。
「彼の考えでは、周りが彼を犯罪者として扱おうがギャンブラーとして扱おうが、アメリカが彼の国であることに変わりはない、という感じだった。」とオシェアは語る。
ランスキーは自らの視点から見たキューバ政治について1時間ほど話したが、もっとも伝えたかったのはキューバ政府内の反アメリカ勢力が外から見えるよりもはるかに強いということだった。
「今にも共産主義勢力が強固に確立するだろう。」
すでに政府内では共産主義者が多くの席を占め、「政府全体がその色に染まるのも時間の問題」だとした。
カストロを善良で革新的な「救世主」と形容するアメリカの新聞の甘さがランスキーには気になった。
オシェアによると「当時カストロは白馬に乗った騎士扱いだった。ランスキーは共産党や赤のグループに所属し、政治を乗っ取ろうとしているように思われる人物の名前をリストアップしていった。」
エージェントたちはランスキーを感じの良い男だと感じたが、健康そうだとは思わなかったようだ。
「ランスキーは顔色が悪く頬も落ちくぼんでいた。」二人はそう報告した。
「動きは緩慢で痛みを我慢しているようだった。」とも。
リヴィエラにつぎ込んだ全てを失うかもしれないという思いがランスキーの潰瘍を悪化させていた。
医者には一日に3時間か4時間以上は立ったままでいるべきでないと言われ、キューバにはしばらく戻らない予定だった。
だが周辺の人間が共産党の動きについては知らせてくれるとし、そうした情報をFBIに伝えようとランスキーは提案した。
その提案は受け入れられなかった。
デニス・オシェアは会合のメモを大量にとり、報告書を作成してワシントンに送った。
そこで報告書はFBIに保管されている、ランスキーに関する分厚いファイルに収納されたが、FBIが行動を起こすことはなかった。
報告書が国務省やハバナの司法担当官オフィスに送られたという記録もない。
グラフ刑事が前の年の春にホテル・ナヴァロでランスキーから聞いた話を報告書にまとめなかったのに似ている。
ランスキーの評判とは、彼の言葉を真に受ける者がいるとすれば言いくるめられているか騙されているかのどちらかだと思われるようなものだったのだ。
その後キューバで展開した出来事を見ればFBIがもう少しマイヤー・ランスキーの忠告に耳を傾けても良かっのではないかと思えた。
ジェイク・ランスキーとディノ・チェリーニは数日で刑務所から解放されたが、6ヶ月後、モスクワからの貿易代表団がハバナでVIP対応で迎えられた。
そして1960年の春にはキューバのリーダーがフルシチョフの上官だったアナスタス・ミコヤンを受け入れ、キューバ革命が共産主義に捧げられたものであることを大々的に発表した。
1960年の5月7日、キューバはモスクワとの外交関係を開始した。
過去30年間、キューバ・アメリカ史の研究者の間で議論されていることがある。
フィデル・カストロが17ヶ月の間に急進的でありつつも表向きは中立主義的な改革者、という立場からロシアの代理人兼盟友への変化についてだ。
1961年にカストロが世界に自身がさも以前からマルクス主義・レーニン主義者であると発信した時、それは本当だったのだろうか?
アメリカの政策が不注意にもキューバをロシアへと向かわせたのだろうか?
そしてアメリカがもう少し情報収集していればそれを防ぐことができたのだろうか?
議論は今も続いているが、1959年5月22日にハリウッドのジョゼフ・ヴァロンの事務所で開かれた話し合いではマイヤー・ランスキーが一年後のキューバを正確に言い当てていたことがFBIの記録からは明らかだ。
1959年の春にフィデル・カストロの今後を見通したマイヤー・ランスキーだったが、個人的なキャリアや投資に関係するところではアメリカとキューバの関係をすっかりと、壊滅的に読み間違えていた。
1958年4月、バティスタの亡命からさかのぼること9ヶ月、ハバナにできたばかりのホテル・カジノがどれも全盛期であった頃、ネバダのゲーミング・ライセンスを持つ者がキューバで営業することをネバダのゲーミング局が禁じる法令を敷いた。
ハバナのリヴィエラ、カプリ、ナショナルやヒルトンなどのホテル・カジノの大盛況がレス・ベガスで開業したばかりのホテルを窮地に陥らせていたからだった。
5名のネバダのギャンブラーが自分のラス・ベガスの立場を守るべくすぐに動いた。
1958年の秋、モー・ダリッツ、ウィルバー・クラーク、サム・タッカー、モリス・クラインマン、そしてトマス・「ブラックジャック」・マックギンティがハバナの投資をすべて売却した。
1959年の元旦に彼らは正しい選択をしたことが分かった。
キューバのギャンブルからタイミングよく足を洗ったばかりか、儲けまで出したのだから。
対するマイヤー・ランスキーはあまり賢く見えなかった。
リヴィエラ・ホテルの完成にはバティスタ政府の試算によると14億ドル、マイヤーが後にイスラエルの友人に話した計算では18億ドルもかかっており、そのうち6億円はバティスタ政府がホテル法2074に則って提供していた。
正確な数字が分かる書類はすでに存在しないが、ランスキーと仲間たちがリヴィエラの建物やシャンデリア、ルーレット・テーブルやモザイク・タイルにつぎ込んだ個人的な資金は8億ドルから12億ドルの間と推測される。
バティスタがいなくなった時点でリヴィエラは開業から一年と数週間を迎えていた。
自分たちのカジノの利益を予測するためにリヴィエラの大成功を分析したヒルトンのアナリストたちによると、リヴィエラでのギャンブルは年間で3億円の利益を生んでいた。
だが営業利益はわずか一年しか得られなかったため、5億から9億の投資分は未回収のままホテルにうずもれたままだった。
フィデル・カストロの非協力的な体制の元で営業するようになってからは純益を計上した月は一度もなく、赤字は膨らむばかりだった。
マイヤー・ランスキーはハバナのリヴィエラにいくらをつぎ込んだのかを明らかにすることはなかった。
金回りの全てを曖昧にするいつものやり方で隠すことを選んだ。
分け合うことを厭わないランスキーは大きなポテンシャルのあるこの事業に何人もの友人を誘っていたため、彼らもまた損失を被ることになった。
ランスキーは自身の個人的な資金の大半をリヴィエラの成功に賭け、分散させることをしていなかった。
豪奢なホテル・カジノは自分のキャリアの頂点となり、これまでの道をすべて肯定するものになるはずだった。
ラスベガスを始めとするアメリカ国内でマイヤー・ランスキーが堂々とギャンブル事業を展開することは今後もないのかも知れなかった。
だがフロリダ海峡を見下ろすこの輝かしい御殿は、儲けを生む合法的な彼のザナドゥだった。コ
ロニアル・インの生まれ変わり、あるいはランスキーのフラミンゴとも言えた。
ジョゼフ・ヴァロンは言う。
「あのホテルは彼の誇りだった。」
マイヤー・ランスキーがハバナのリヴィエラに投じたのは資金だけではない。
自分自身を投じたのだ。
全てを賭けた結果、彼自身がのちに語ったように——
負けたんだ
アフターハバナ
1960年の10月24日、キューバ共和国の公式な新聞がハバナ・リヴィエラ・ホテルの差し押さえと国有化を発表。
他にもコダックやウールワース、カナダ・ドライ・ウェスティングハウスやグッドイヤーなど、キューバに子会社やフランチャイズを持つ165のアメリカ企業が同じ運命をたどった。
マイヤー・ランスキーは一流企業に仲間入りしていた。
この差し押さえの嵐が象徴するようなアメリカとキューバの諍いは翌年の春にピッグス湾でクライマックスを迎えるのだった。
マイヤー・ランスキーはそのことを驚きもしなかった。
彼とジェイクは攻撃性を次第に増していくキューバ政府の嫌がらせに耐え続けながらもリヴィエラを潰さないように必死だった。
ホテルもカジノも赤字を計上し続ける中でランスキーは方々から借金をしたり、自分の財源を割いて事態が好転することを祈りつつ営業を続けるしかなかった。
カストロの差し押さえによって終止符が打たれた際にはどこか安堵の気持ちがあったほどだ
最悪の状況下でランスキーの健康も打撃を受けていた。
デニス・オシェアと同行したFBIエージェントも1959年の春にランスキーの不調に気づいていたが、それから18ヶ月後、彼はますます弱っていた。
潰瘍は相変わらず良くならず、心臓周りにも激痛が走ることがあった。
医者の診断は心膜炎、つまり心臓の周りの組織の炎症だった。
心臓発作を起こすわけではなかったが、60歳が見えてきたマイヤーにとっては辛く不安な症状だった。
リヴィエラの夢が潰えたのと同時にマイヤー・ランスキーも潰えてしまったかに見えた。
息切れを頻繁に起こし、まるで年寄りのようにゆっくりとしか動くことができなくなった。
胸痛は悪化し、キューバのホテルを帳消しにしてから18ヶ月後にマイヤーは倒れた。
今回こそ心臓発作だった。
入院は二度にわたった。
一度目はニューヨーク、二度目はフロリダのハリウッド・ドクターズ・ホスピタルで。
マイヤーは一ヶ月近くを酸素テントの内側で喘ぎながら過ごした。
専門家たちは先が長くないことを案じ、ある時はラビが呼ばれ、家族とタコマのポールまでもが枕元へ呼ばれたほどだ。
ランスキーの体調が特に酷かったある日、バディ・ランスキーは兄や妹と父が亡くなった場合のことについて話し合った。
父がいなくなったらどうやって生きていけばいいのか?その時ジャック叔父さんが部屋に入ってきて、きょうだいの会話の内容を察した。
「あまり期待しない方がいい。」とジェイクは甥と姪に告げた。
「今日君らの父親が死んだら、彼は一文無しだ。」
全てを手に入れ全てを失ったランスキーはどこへ向かうのだろうか。。