三分で学ぶ黒人ギャング ステファニー・セントクレア編
三分で学ぶ黒人ギャング
ステファニー・セントクレア編
目次

本日から3日連続で“ギャングシリーズ第二弾”をお届けいたします。
初回は孤高の女ギャングについて

ステファニー・セントクレアの生い立ち
ステファニー・セントクレアは1897年12月24日、西インド諸島の貧しい家庭に生まれた。
家庭には父親がおらず、母親は懸命にクレアを育てた。
しかし、クレアが15歳の時に母が病に倒れる。
それからクレアは学校を辞め、各地を転々としながら生活。
同年、ニューヨークへと移住した。
女王の誕生

ニューヨークに着いたクレアは独学で英語を学び、職を探し始めた。
探していた職とは買収婦のこと。
クレアは求職の過程で幾人かのチンピラと親しくなり情婦をしていたが、やがて自分でビジネスをした方が上手くやれると確信した。
彼氏のエドをパートナーに麻薬ビジネスを始めたクレアはたちまち成功を収める。
やがてエドが不要と感じたクレアはエドに「今後は別々でビジネスをしよう」と持ちかけた。
だがこれを聞いたエドは激怒しクレアに襲いかかった。
揉み合いの末、クレアはエドを撲殺。
それからは自分で部下を雇い、警察を買収し、ビジネスをしきるようになっていった。
この時、若干20歳のクレアは稼いだ金を使いナンバーズ賭博を始める。
この読みもあたりクレアは絶対的な財力と権力を手に入れ“女王”と呼ばれるようになった。
女王の政治

ハーレムの男ギャングを抑えて女王となったクレアは1920年代にはギャングだけで、年間2万ドル以上を稼ぐようになっていた。
クレアはまさしく女王のような優雅な生活を送る一方、貧しい人々にも支援を行い名声をを高めてゆく。
また、クレアは新聞を使い警察の汚職や黒人差別を告発、これにより警察官12人が辞職に追い込まれた。
その一方、警察もクレアを微罪で逮捕し、8ヶ月間施設に監禁した。
ダッチ・シュルツvs黒人ギャング抗争

やがて禁止法時代が終わると密造酒ビジネスを主なシノギとしていたイタリア系・ユダヤ系マフィアは各々の新たなビジネスを模索し始めた。
ラッキー・ルチアーノとも親しかった大物 ダッチ・シュルツは新たなシノギとしてハーレムのギャンブル事業を奪おうと画策する。
手始めにシュルツはハーレムの賭け屋を片っ端から襲い、みかじめ料を払えと迫った。
加えて買収した警官にクレアの店を摘発させてゆく。
対するクレアもシュルツの経営する店を次々と襲撃した。
シュルツはクレアに傘下に加わるよう促したが、クレアは断固拒否。
泥沼の争いへと突入してゆく。
ルチアーノとバンピー

クレアはイタリア系ユダヤ系のまとめ役ラッキー・ルチアーノと話し合いを持った。
抗争で目立ちすぎ逮捕の危険が迫っていたこともありクレアは引退し、右腕だったバンピー・ジョンソンに組織を譲ることに。
加えて
・バンピーはルチアーノに上がりを納める
・ハーレムはバンピーが仕切る
との取り決めがなされた。
1935年、あちこちで問題を起こしていたシュルツはルチアーノの命により殺人株式会社に暗殺された。
クレアは瀕死のシュルツの元に「お前が撒いた種が刈り取られた」と電報を送っている。
こうして抗争は終わり、クレアは堅気の人生を始めるのだが。。
波乱の引退後

1930年代行半、引退したクレアはナチス活動家のスーフィー・アブドゥルハミド
と恋におち結婚した。
しかしスーフィーの目当てはクレアの財産であり、浮気ぐせもあった。
やがて結婚生活は破綻し、絶望したクレアはスーフィーを射殺。
すぐに逮捕され、10年間の懲役を言い渡された。
クレアは服役中、地元の新聞に警察の汚職などについてのコラムを執筆して過ごした。
出所後の生活は平穏そのもので、1969年に79歳でこの世を去った。