マイヤーランスキーPart2

マイヤーランスキーPart2

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マイヤーランスキー

新婚生活をブルックリンの控えめな賃貸アパートでスタートさせた

それからバディが生まれるとマンハッタンの99ストリートとブロードウェイの交差点のマンションに居を移し、さらに一年ほどして家族はセントラル・パークを望む高級アパートに引っ越した。

このようにランスキーは公私共に昇り調子であった。

金型工から数年で成り上がった事を思うとランスキーは誇らしかった。

アン・シトロンもセレブの生活を満喫した。

アンはエスターと共にショッピングに出掛けては豪遊をするのだ。

時にはフローレンス・アロが仲間に加わることがあった。

フローレンスはルチアーノの友人のマフィア ヴィンセント・アロの妻。

ルチアーノはランスキーの安全を守るためにアロを紹介したのだが、二人はたちまち意気投合し家族ぐるみの付き合いを始めたのだった。

夢の生活

ランスキーの娘は後に、この頃の生活をこう振り替える。

家に足を踏み入れると、まずセントラル・パークの木々に反射する光に包まれる。

三階のその家からはパークの梢を上から見下ろすことができた。

居間には深く座り心地の良いソファと、二人掛けの椅子がいくつか、大きなグランドピアノがあった。

マイヤーの部屋は木のパネリングの施された書斎で、広い机にたくさんの本があった。

大きな地図帳にブック・オブ・ナレッジ、ブリタニカ百科事典の全集。

ドア脇のクローゼットには帽子置きがあり、そこにマイヤーはパールグレーに黒いバンドのパナマ帽を置いていた。

寝室のクローゼットにも帽子置きと、同じデザインの帽子が型崩れせぬように丁寧に置かれていた。

マイヤーは服装にもこだわっていた。

シャツは既成の白のシルク製でスルカで購入していた。

スーツはモーリス。ネクタイはカウンテス・マラ。

ランスキーは一つアイテムを買うと同じものを三つか四つ買い、並べて寝室のクローゼットにきちんと吊るすのが習慣だった。

またクローゼットには床に固定された金庫があり、中には現金や書類、そして銃が保管されていた。

いびつな家庭

1932年4月、アン・ランスキーは第二子を出産した。

二人目も男子でランスキーはポールと名付けることに。

同じ頃にランスキーは麻痺を抱える子供の治療用に新しい技術を開発しているボストンの専門医カラザースにコンタクトを取っていた。

ランスキー一家は定期的に治療を受けるためボストンに拠点を移すことに。

セントラル・パークを見下ろすマジェスティックのアパートメントもそのままにしておいた。

ランスキーの事業はニューヨークにあったからだ。

だがバディの治療はランスキーにとって最優先事項となっており、初めこそ動転したこともあったが、今となってはそのために大きな調整も厭わないようになっていた。

こうして一家は1933年にボストン・コモン近くの新居に移った。

新居はビーコン・ストリートとエンバンクメント・ロードの角に立つ、無機質で現代風のアパートメント・ブロックの三階。

裏側にはテラスがあり、チャールズ川やエスプラネードのオーディトリウム、夏の夜のコンサートで有名なハッチ・シェルを望むことができた。

三歳のバディ・ランスキーが耐え忍んだ治療は過酷なものだった。

家では脚にギプスをつけ、チルドレンズ病院内にあるカラザース医師のクリニックでは下肢を伸ばして固定した状態で何時間も過ごさなければならなかった。

マイヤーランスキー

地獄のような思いをしていたと思うよ。本当にかわいそうだった

仕事のためマイヤーは一週間の大半をボストンから離れて過ごしていたので、いつもバディのそばにいるのは母親。

シトロンの家系はやや神経質なところがあり、アンはすでに長男の障碍によって神経をかなりすり減らしていた。

だがこの試練にアンは自らを奮い立たせた。

ベッドに拘束された息子のそばを何時間も離れず、本を読み聞かせたりゴー・フィッシュやチェッカーズなどのゲームで遊ぶことでギプスの痛みから気を逸らせようとした。

しかしながら、アン・ランスキーは家庭的ではなかった。

「母はお湯も沸かせなかった」とバディーは思い出す。

家事はメイドやベビーシッターに任せきりだったのだ。

ボストンでもその生活は変わらず、ビーコン・ストリート100番の生活はコックと、フィリピン人の執事のトミーに依存していた。

トミーはマイヤーの不在にバディの父親代わりとなることも多く、初めての野球観戦ーブレーブス球場でボストン・ブレーブス対ニューヨーク・ジャイアンツだったーに連れて行ったのもトミーだった。

医師に指示されたように自力で階段を上がらせずに、苦労しなくていいようにトミーはバディーを抱き上げて上がった。

バディとポールは、父親似のひょうきんな笑顔と、親しい者といる時のマイヤーの人懐っこい目をしていた。

どちらも上背はなかったがエネルギーに満ち溢れており、成長するにつれてかなりいたずらの多い子供に育っていった。

ある週末に両親が揃って出かけると、ポールとバディ洗面所でふざけ始めた。

トイレで父と母の洋服を洗ったり、母の大きなゴム製の注水器を水鉄砲代わりにして遊び、それを親が帰宅したタイミングで窓から落下させてしまった。

バディー・ランスキーの記憶の限りでは親に手を上げられたのはこの一回だけだった。

それも、体罰を施したのは母親だった。

あるときバディが悪態をつくと、昔ながらのお仕置きとして口を石鹸で洗浄したのも母だった。

マイヤーも時には子供たちを叱り、脅すこともあったが、その脅しを実行に移すことがほぼないということを息子たちは早期に理解した。

冷酷な目をした男、脅迫の専門家だったランスキーも我が子の前ではまるで言いなりだったのだ。

マイヤーは時として子供たちの行儀の悪さを黙認することさえあった。

アンは週に一度は夕飯にレバーを食すべきと考えていたが、息子たちは大嫌いな食材だった。

そこで母がその日の献立をコックに渡したことを見届けてからキッチンに忍び込み、嫌いな料理を外すように注文した。

このことをマイヤーが聞くと、やり手な子供たちだと笑うだけだった。

ボストンとニューヨークを行き来する生活でランスキーと家族は離れ離れの時間が多かったが、問題だったのは精神的な結びつきの薄さだった。

物質的な意味では彼は寛容な父で、子供たちのに何でも一番いいものを与えた。

おもちゃにプレゼント、モデル組み立てキット、電気で走る巨大な電車のおもちゃ等、自身は質素を好みながらも、妻に与えるのと同様に子供に惜しみなく金をかけた。
それが自身の枠割と理解していたからだ。

だが自分の心を表に出すとなるとマイヤーはめっぽう苦手だった。

ハンディキャップを持つ息子への愛情は疑いようもなかったが、それを直接伝えることがなく、またそうする機会も時間的にほとんどなかった。

バディは父からモノポリーのボードゲームをもらい、一度も一緒に遊んでもらわなかったことを覚えている。

一緒に遊んだり、出かけたりして楽しい思い出を作るということになると、ランスキー兄弟は執事のトミーか、母方の伯父のジュールズ、シトロン家の青果屋を手伝っていたジュリー伯父さんにねだるようになっていった。

バディがニューヨークに遊びに行くと、まだ自身は独身だったジュリー伯父さんがよくバディをジャイアンツの試合に連れて行き、利発で社交的なかたわのバディは周囲のボックス席の客たちの人気者となった。

ある晩バディは留守番で、ジュリー・シトロンは義弟のマイヤーを試合に連れ出したことがあった。

ボックス席の常連たちがジュリーに「今日は息子さんは一緒じゃないの?」と尋ねると、マイヤーは苦笑した。

「いい父親だった。」とバディ・ランスキーは振り返える。
「何でも与えてくれたという意味では。だって、手に入らないものはなかった…」

ランスキーと母

1930年代後半、看護学校を卒業したてのイサベル・シュロスマンはマックス・ランスキー夫人、イェッタの世話係としてランスキー家に迎え入れられた。

ランスキーの母は目の手術を受けたばかりで、約二週間は病院のベッドで目を閉じたまま横たわって過ごさなければならなかったからだ。

病院にスタッフは足りていたがランスキーは母につきっきりの看護師をつけたいと考えた。

ランスキーは毎日のように母の見舞いに来た。

ベッドのそばに腰かけ、何時間も話しかけたり、話に耳を傾けたりした。

帰り際には毎回、母のために他に何かできることはないかと若い看護師に尋ねた。

「とても気遣いの細やかな人でした。」とイサベル・シュロスマンはマイヤーの印象について語る。

二週間が過ぎると、ランスキーはイサベルに、母と共に家に帰り、全快するまで面倒を見続けてくれるようお願いした。

こうして毎朝、ブルックリンのプロスペクト・パーク近く、オーシャン・パークウェイにあるマックス・ランスキーのアパートメントに、マイヤーの妹エスターが出勤するタイミングでイサベルが訪れてくるようになった。

彼女によると、自宅は「とてもエレガントな内装で、上品なテイストだった」そうだ。

マックス・ランスキーもその頃にはすっかり年を取っていた。

姿勢が良く長身で顔立ちも整っており、杖を持った姿は洒落ていた。

衣類プレッサーの仕事では、彼がメイドと共にイェッタと住むブルックリンの暮らしを手に入れることは到底不可能だっただろう。

その生活を可能にしたのは息子たちであった。

ランスキーはマンハッタンからブルックリンへ毎日のように母の顔を見に通った。

ランスキーが来ると、イディッシュを殆ど話せないイサベルは安堵したものだった。

彼女は言語の理解が拙いながらも、毎日ジューイッシュ・デイリー・フォワード紙のアブラハム・カーハンの悩み相談コーナーをイェッタに苦労しつつ読み上げていた。

ランスキーは母との話に没頭した。

時折電話の受話器を手に取り、子供たちが祖母と話せるように長距離電話をかけた。

イサベル・シュロスマンにはこの大人しく、礼儀正しい息子が堅気のビジネスマンにしか見えていなかった。

マイヤー・ランスキーの名前が新聞に載ることはなかったのだから。

「彼は無口ではにかみ屋の、内気な印象さえ与える人でした。」イサベル・シュロスマンはこう語る。

何より若い日の彼女の印象に残ったのは母と息子の親密さだった。

病身ながらもイェッタは女家長の役割を果たし、ランスキーはその権威に従った。

イェッタは賢い長男のことを溺愛し、ランスキーはその愛情を返した。

彼は母親のことを崇めていたのだ。

母の晩年、ランスキーはジェイクと二人で彼女をハリウッド(フロリダ)の海辺にある豪華な老人ホームに入れてやった。

その後も母のもとをまめに訪れ、子供たちにしっかり祖母孝行もさせた。

イェッタがだんだんと弱ってくると、医者や看護師たちに最高水準のケアを提供させた。

イェッタ・ランスキーは1959年に亡くなった。

視力はひどく落ちていたが、二人の息子たちーとりわけ長男ーの愛情に豊かに包まれていた。

昔自分に誓った、母に何不自由なく暮らさせるという約束をマイヤーは守ったのだった。

ランスキーと父

一方マイヤー・ランスキーと父の関係は、温かく幸せに満ちたものではなかった。マックスは長男の生き方を受け入れることができなかった。

金型店での安定した仕事を捨て、クラップゲームや酒の密売に走った末に法を破ることで生計を立てるようになった息子を誇ることができず、その落胆を隠そうともしなかった。

「祖父は」とバディは思い出す。「父のやること全てが気に入らなかった。」

それは父がわざわざ見つけてきた実直な仕事をマイヤーが簡単に手放したということだけではなかった。

マイヤーは弟ジェイクの忠誠心を利用して彼までも犯罪者にしてしまった。

昔ながらの口髭をたくわえて昔ながらの価値観で暮らしていたマックスは、いつの間にかギャングの父になってしまっていた。

二人の考えは孫たちをユダヤ人として育てるというテーマでもぶつかり合った。

マイヤーは我が子たちにユダヤのルーツを意識させることなく育てていた。

このことは父を苛立たせた。マイヤー・ランスキーの家にはベーコンがあったし、12月25日になると大きなきらびやかなクリスマス・ツリーを囲んでキリスト教の習わし通りにプレゼントの交換をした。

比較的無頓着なシトロン家でさえも、クリスマス・ツリーには仰天した。

自分の母にツリーの存在を諫められると、アンは「気に入らないの?それなら帰って!」と言い返した

幼いバディ・ランスキーが自分のユダヤの出自やコーシャ食材の味を知ったのは、過越祭に祖父母の家を訪れた時だった。

彼も弟のポールもバル・ミツワ―の成人式を行っていなかった。

初めてユダヤ寺院の内部を観たのは1930年代後半、叔母のエスターの結婚式でのことだった。髭と衣装姿のラビが、彼らにはひどく滑稽に見えた。

「髭を剃ったら?」とバディは生意気な声をかけた。その後、式が終わるまで兄弟は外で待たされた。

マックスがとりわけ怒ったのはランスキーがバディとポールを宗教教育を受けにチェダーへ通わせなかったことだった。

二人は野性的で行儀も悪く、シトロン方の祖母などはまるで手に負えなかった。

孫たちが遊びに来ると彼女は半狂乱で家族の経営する青果屋に電話をかけ続けるので、ジュリー・シトロンは仕事を置いて帰らざるをえなかった。

マックスは二人の少年にはルーツが必要だと感じていた。

そのことについてランスキーと口論になることも多く、チェダーでのしつけがきっと二人のためになるはずだと主張した。

伝統には価値があり、少年を男へと成長させるのに必要なのだと。

だがランスキーが父の主張を聞き入れることはなかった。

バディが追加の数学のレッスンを受けるというのならいいが、宗教など何のために?

ランスキーのこの考え方には師のアーノルド・ロススタインが影響している。

アーノルド・ロススタインの父アブラハムは衣類製造業で働く実直な男だった。

彼はアーノルドに対し、兄のハリーのようにチェダーの教育を真面目に受けなかったことをたびたび咎めた。

「僕はアメリカ人だ。」とアーノルドは肩をすくめた。
「ハリーがユダヤ人になりたいならそれでいい。」と。

父と子の溝は埋まることはなかった。

マックス・ランスキーは1939年、マイヤーが37歳の時に亡くなった。

ユダヤの慣習では、毎年命日には息子が父を偲んで蝋燭をともし、祈りをささげる。

だがランスキーはその習わしを踏襲しなかった。

そして生涯、父の話を避けた。

堅気になりたいギャング

1933年12月5日、禁酒法はは撤廃され、国は犯罪まみれの状態から足を洗うかに思えた。

それは個人の密売事業者がこれまでの悪事をなかったことにして堅気のスタートを切る機会でもあった。

1933年11月25日、禁酒法が解除される10日前、ランスキーはモラスカ・コーポレーションのパートナーとなった。

モラスカ・コーポレーションは蒸留酒に必要な乾燥粉末糖蜜を供給する会社。

ランスキーの他にクリーブランドで密輸稼業を成功させていたモー・ダリッツとサム・タッカーもパートナーとなり、マイヤーの義父モーゼス・シトロンも財務補佐として出資した。

モー・ダリッツ

モラスカへの投資は明るい未来が約束されたようなものだった。

モラスカ・コーポレーションは粉末糖蜜が砂糖よりも安く蒸留過程で使用できることに目をつけ、新しい生産技術で禁酒法後の一大産業に足場を確保しようと意気込んでいたからだ。

ランスキーにとっては儲けつつも足を洗うチャンスだった。

だが禁酒法の撤廃と共に密売がなくなることはなかった。

禁酒法を最後まで守ろうとしたドライ信者達は、解禁となったアルコールを厳しく課税することを条件として残したからだ。

こうして無税の密売酒の流通が発達していった。

モラスカ・コーポレーションが目をつけたのはそこで、ポスト禁酒法の違法蒸留酒に原料を供給しようとしていた。

1935年始め、アルコール・タバコ取締局がオハイオのゼーンズビルやニュー・ジャージーのエリザベスで工場の強制捜査に入った。

そこではモラスカの糖蜜を製造過程で使用している大規模な違法蒸留所が見つかった。

特にゼーンズビルの工場は違法蒸留所としては最大規模。

95度のアルコールを一日に2万本も製造することができた。

ランスキーは、禁酒法時代にその事業の基礎を築いたにもかかわらずのちに真っ当なビジネスマンとして世間に通った酒販富豪のサミュエル・ブロンフマンやルイス・ローゼンスティールの成功についてこう疑問を呈した。

マイヤーランスキー

なぜランスキーが『ギャングスタ―』で、ブロンフマンとローゼンスティールは違うんだ?

ブロンフマンもローゼンスティールも禁酒法時代に違法の酒を作っていたが、1933年以降はどちらの男もそれぞれなりに正道を歩むことを決意した。

聖人になったわけではなかったが、変化のタイミングを逃さなかったのだ。

そのタイミングをランスキーが認識していたとしても、彼が掴むことはなかった。

ランスキーはあえて合法的な酒販業者にならないことを選んだのだ。

また黄金のビジネスチャンスだったにもかかわらず、車とトラックのレンタルビジネスに本気を出すこともしなかった。

30代に入ったばかりの若さでランスキーはすでに不正直なやり方に慣れすぎていた。

アルコール・タバコ取締局が捜査を進めるうちに明らかになったのはランスキー及びパートナーたちと、少なくとも8つの違法蒸留所との繋がりだった。

ゼーンズビルとエリザベスの強制捜査からわずか数週間後、モラスカ・コーポレーションは破産を宣言した。

捜査当局は蒸留所とパートナー達の直接の関連を洗い出すことができなかった。

ランスキーの義父であるモーゼス・シトロンは抜け目のないビジネスマンで、彼の弁護士のアーロン・サピロがモラスカの表看板の人間や隠れた投資金を分かりにくく入り組ませていたからだ。

確固たる証拠がつかめないまま、当局はランスキーたちが無傷で去っていくのを見送るほかなかった。

時は少し遡り1930年代中ごろの秋のある日、ランスキーはその日の夜は予定ができたので夕飯が不要である旨の電話をアンに掛けた。

その後数時間してから電話で話した時も同じことを伝え、夜までに更にもう一度、同じことを電話で伝えた。

にもかかわらず、その日の夕飯時にランスキーが弟ジェイクともう一人の友人と共に帰宅したのでアンは驚いてしまった。

予期せぬ来客にアンが提供できたものはラム・チョップ数本、それにたまたま家を訪れていたシトロン方の祖母との世間話くらいだった。

客人に対するもてなしではないとランスキーは妻に激怒。

義母に横柄な態度を取り、アンと口論し始め、皿の上にあった熱いじゃがいもを引っ掴み、怒り任せに妻に投げつけた。

このじゃがいもは目に命中した。

あとからアン・ランスキーは、1933年に結婚生活に陰りがさし始めたと語っている。

禁酒法が撤廃された年でもあった1933年にランスキーの収入の大部分が打撃を受け、彼は苛立っていた。

その時期にアンの兄であるジュールズ―ジュリー伯父さんがランスキーにデランシ―・ストリートでばったり出くわしたことがあった。

何気なく調子がどうか尋ねたがランスキーにとってそれはデリケートな話題だった。

ランスキーらしくなくつっけんどんな口調でこう答えたという。

「全然儲かってないよ。年に1万ドルで生活していかなきゃならない」

1万ドルと言えば1990年代前半の価格でいうと約16万ドル。

ジュリー・シトロンには充分大金に思えたがランスキーには足りなかった。

ニューヨークとボストンの両方に家を持ち、バディの治療費を払い、両親の面倒を見て妻の浪費癖を支える彼には心もとない額だったのだ。

モラスカ・コーポレーションへの投資でしばらくは収入が安定していたが、それもすぐに最悪の形で断ち切られた。

禁酒法の終焉によってランスキーは原点に引き戻された。

ランスキーはその後生涯にわたって、原点の商売。

つまり“ギャンブル”を追求することになるのだった。

ランスキーとサラトガの歴史

1920年と1930年代、ニューヨークのギャンブルはそれほどプレーヤー人口が大きくなく、主に移動式のクラップゲームが多かった。

それぞれ個別に運営され、会場は居酒屋の裏部屋からマンハッタンのホテルスイートまで、様々な場所で開催される。

だが年に一度、一か月間だけギャンブラーは電車に乗ってハドソン・バレーを北に向かう。

目的はサラトガ・スプリングスの八月の競馬シーズン。

オールバニーの30マイル北、マンハッタンの190マイル北に位置するこの小さな温泉町に最初に人が集まるようになったのは硫黄泉を求めてのことだった。

競馬場が1863年に開業すると、アメリカ南部の高官たちが夏の間だけプランテーションを離れ、ミシシッピ川の川船で親しんだカジノ・ゲームを携えて北へとやってきた。

1890年には、夏のサラトガのカジノはヨーロッパの高級人気スパにも劣らない盛況ぶりだった。

サラトガ・スピリングス初期の大カジノのボスは、プロボクサーでありながらタマニー・ホールの後押しで国会議員になり、19世紀後半にはニューヨークのギャンブラー王としても大成したジョン・モリセイ。

モリセイはサラトガの地元の有力者を買収し、毎年夏になるとマンハッタンのディーラー達を連れてきた。

1920年初頭にはその役割はアーノルド・ロススタインへ移行しており、そのロススタインの元でランスキーやラッキー・ルチアーノ等の野心的なマフィア達がサラトガに進出したのだった。

ロススタインはここサラトガでも、緩く互いと繋がりのないパートナーシップを構築していった。

ロススタインはまず地元の政治機関に繋げてくれるパートナーをまず確保。

食堂やエンターテインメント周り、ギャンブルのゲームやカジノのテーブルに至るまでを任せられるスペシャリストも探した。

ランスキーもラッキー・ルチアーノも、ロススタインのサラトガのカジノ サラトガ・レイクハウスでカジノ経営の基礎を学んだ。

レイク・ハウスは高級で洒落ており、何より世間に認められていた。

マイヤーランスキー

賭け事は男の芯の部分を惹きつけるんだ

カジノ経営のコツ

ランスキーがローワー・イースト・サイドのクラップゲームで学んだことの一つは、“”長い目で見た成功の秘訣は派手さではなく誠実さである”ということ。

ルーレットをいじったり、クラップゲームに仕掛けを施すことは簡単だ。

だが、そうした小細工がもたらす配当は長続きしない。

なぜなら真剣なプレーヤーはゲームが自分に不利なに細工されいると僅かにでも察すればすぐに去っていくし、その情報はあっという間に広まる。

そのクラップゲームやカジノはほんの数時間で亡き者となり、復活することはない。

ランスキーは密輸に続き、誠実さが鍵となる違法な事業に身を投じることになったのである。

マイヤーランスキー

私のカジノに来た者は金をなくしたとしても、それは不正によるものではないと分かっていた

ランスキーはサラトガでの一ヶ月で雇うディーラーたちに賃金にプラスしてインセンティブを支払った。

これによってディーラーはより丁寧に仕事をするし、またお互いの手元をよく見るようになる。

ランスキーのディーラー達は相互のプロ意識と信頼によって団結した小さなチームを形成するようになっていった。

1990年代のゲーミングはマス・マーケット産業だ。

ラス・ベガスやアトランティック・シティのカジノは、ピカピカのスロット・マシーンに絶え間なく吸い込まれていく25セント硬貨の流れに依存している。

1930年代のゲーミングはより少ない人数の、裕福なプレーヤーたちによって真剣に行われる真剣な取引だった。

用心深く、厳しい彼らの贔屓にしてもらうことは大きなチャレンジであり、マイヤーは8月が訪れる度に静かにビジネスを拡大していった。

ランスキーはギャンブルと密売を同じように運営した。

ジョイントベンチャーのパートナーシップを結び、ランスキーの主な役割は資金や取り分の計算だった。

第二次大戦前の数年間、ランスキーはサラトガ湖畔の林に立つカジノのうち最も繁盛していた一つ、パイピング・ロックのパートナーの一人だった。

パイピング・ロックでのパートナーはフランク・コステロとジョー・アドニス。

フランクは自身の経営するマンハッタンのクラブ、コパカバーナからシェフやメートル・ドテル、それに美しい彫金の施されたカトラリーをサラトガへ伴って来た。

ニュー・ジャージーで指折りのギャンブル場を所有していたハンサムなジョーはテーブルのクルーと最も裕福なクライアントを引き連れてきた。

同様に八月のサラトガにはランスキーの最も裕福な客もマンハッタンから来ていた。

サラトガの従来の金の集め方は、サーカス団長の如く空威張りする興行主をカジノにつけるようなスタイルだった。

彼らはあいさつ代わりにお互いの背中を叩いて存在感を主張するのだがランスキーはその反対だった。

ランスキーは注意深くそして慎重に、いつでも後方に控えるようにしていた。

その頃クラップディーラーとしてランスキーの下で働いていたある男は言う。「彼は目立たなかった。そこにいることにも気づかないし、気づいてもまるで空気のような存在感だった。」

パイピング・ロックのパートナーシップについて残っている数少ない書面の記録を見ても、マイヤー・ランスキーは名前すら出てこない。

彼の権利は弟ジェイクの名義で登記されていた。

こうして存在を限りなく消すのは、1930年代に8月になるとサラトガへ来るギャンブラー達にとって普通のことだった。

アーノルド・ロススタインは自らの馬をサラトガのトラックで走らせるなど大々的にやっていたが、後継者たちはもっと控えめだったのだ。

1935年、まだ創刊から間もないビジネス雑誌のフォーチュンがサラトガ・スプリングスの夏限定の経済を分析すべくやってきた。

ホイットニーやヴァンダービルト一族が競馬に賭ける金額から始まり、安宿の娼婦やその他の陰の行商人たちを調べているうちに、フォーチュン誌はレイク・ハウスでギャンブルが行われているらしいことを突き止める。

ところがその先の具体的なオーナーやパートナーの名前を特定することができず、唯一その夏サラトガにチャーリー・ルチアーノがいたということくらいしか記事に残せなかった。

しかも紙面ではルチアーノを“カポネの部下”と紹介している。

これは1935年8月の時点でマフィアたちやその生業について世間がほとんど何も知らなかったことを証明している。

ラケット

1928年9月のデイリー・エクスプレスはこう書いている。

「ゆすり屋商売(racketeering)とは、アメリカの組織的犯罪の巨大産業を指す新しい呼び名である。」

違法や不正な手段で儲けを得るという意味の「ゆすり(racket)」という言葉の使用は古くは1800年代の初めにまで遡るが、アメリカの新聞や雑誌が使い始めたことで大衆に認識されたのは1920年代後半。

「ゆすり」は都市部の邪悪で腐敗した恐ろしいもの全てを指す言葉となっていた。

生鮮品業界にもゆすり屋がいた。

ニューヨークの肉、魚、果物や野菜の商売はどれも河岸と市場とホテルやレストラン業をつなぐネットワークの中に置かれていた。

流通の遅延で脅され、彼らは商品を運んでくれる運転手を始めとするあらゆる中継点で金を取られた。

中でもニューヨークの衣類製造業に寄生するゆすり屋はたちが悪かった。

ルイス・“レプケ”・バカルターとグラ・シャピロの二人はスト破り対応要員の用心棒として労働組合に雇われ、手腕を存分に発揮。

ルイス・“レプケ”・バカルター

だがそのついで暴力にものを言わせて婦人服産業へ入り込み、組合との間に和平を保障する代わりに所有権を乗っ取ってしまった。

のちに用心棒を使ってパンや小麦粉の輸送業でも同じことをした。

ラッキー・ルチアーノは専門をいわゆるサービス・ゆすり屋―馬券屋、宝くじ、売春、それに麻薬密輸入を少々―に絞っていた。

バグジー・シーゲルはクラップゲームと馬券屋。

フランク・コステロはスロット・マシーンと、ニューヨーク最大規模の馬券屋でフランク・エリクソンの事業にも名を連ねていた。

ランスキーはクラップゲームとカジノのスペシャリストとして君臨。

相変わらず自身がゴーサインを出した取引に関しては分配のプロだった。

ルチアーノは売春と麻薬も扱っていたが、ランスキーは意識的にそこを避けた。

ランスキーは麻薬ビジネスを避けていたし、詳しく聞きもしなかった。

マイヤーランスキー

麻薬で商売をしたことは一度もない。商売をしてる人のことも好きじゃない

仲間だからといって何でも共同で出資しなければならないわけではなかった。

フランク・コステロとマイヤーは共通の局所的な倫理観を持っていて、ルチアーノと“クリーンな犯罪”で組んだり、友人でいることに対しては抵抗がなかった。

ところが麻薬や娼婦のことになるとルチアーノは一人きりだった。

コステロとランスキーは社会が彼らを許容するギリギリの範囲内で動いており、何がその向こうに分類されるかを感知していたからだ。

暴力に関しても似たエチケットが存在している。

ルイス・“レプケ”・バカルターは定期的にリンチや暗殺で自分たちの力を強化しようとした。

それは彼らのビジネスの根幹を成しており、ニューヨーク・ワールド・テレグラム紙のハリー・フィーニーが冠した呼称、「殺人株式会社」を地で行っていた。

一方、ルチアーノは暴力をもう少し控えめに、政治的に利用していた。

彼の出世は確かにマッセリアとマランツァーノの暗殺をきっかけとしていたが、ルチアーノの商売であった宝くじやギャンブル、馬券屋などは必要以上に暴力を使わないものだった。

ちなみに、機会さえあれば喧嘩を始めるベニー・シーゲルは例外中の例外である。

ランスキーとフランク・コステロは、自分たちがそこから更に一歩下がっていると自負していた。

駆け出しこそ二人は乱暴者だったが、今では、その過去に葬りたがっていたのだ。

コステロとランスキーはもう暴力に頼らずに自分の望むものを手に入れる方法を会得したと考えており、サラトガのレイクハウスで富豪たちに大金を賭けさせようとするならば猶更、暴力や犯罪性の匂いは封じねばならなかった。

1930年代半ば、男たちはもうラトナーではなくより煌びやかなウォルドルフ=アストリアホテルのウォルドルフ・アパートメントへ集会場所を移していた。

マイヤーランスキー

チャーリーとベンはしばらくウォルドルフに住んでいた。
ベンと彼の家族をよく尋ねに行ったものだよ。
その頃ウォルドルフ・アパートメントにはハーバート・フーヴァー元大統領も住んでいたんだぜ

スイートでくつろぎ、ウォルドルフ・ノース・グリルを居間代わりにするチャーリー・ルチアーノとベニー・シーゲルは、ゆすりをうまくやればどれほど儲かるかを示していた。

コステロと彼の大柄な馬券屋パートナーのフランク・エリクソンは、ウォルドルフの一日を鏡張りの贅沢な理髪サロンでの髭剃りとマニキュアでスタートさせるのが好きだった。

入り口近くに革張りの椅子を置いたサロンは、いつしか非公式の本部となっていった。

マイヤーランスキー

午前中にそこで会うことが多かった。
二人のフランク、ルチアーノとベニーとよくギャンブルの話をしたよ

彼なりの思慮分別でビジネスの範疇を限定していたランスキーは、ゲーミング・ラケットの仕事に何も恥じることはないと思っていた。

マイヤーランスキー

どんな事業家でも自分の分野を選ぶのと同じように、私も選んだ。それだけだ

ランスキーが目をつけ。利益を作り出していたのは社会が違法と定める領域と、必要と定める領域との重なるグレーエリア。

地下組織は、社会のまっとうな人々が必要とするサービスを多く担っていたのだ。

変わりゆくニューヨーク

市長のジミー・ウォーカーの失脚は収賄やアーノルド・ロススタインとの繋がりが原因だった。

ロススタインの件を追及してウォーカーとタマニーに対抗して立候補したフィオレロ・ラガーディアは、1929年に敗れたものの四年後に市長に返り咲いた。

社会改革の風潮が彼の背中を押し、就任後ラガーディアはすぐに新しい警視総監にルイス・J・バレンタインを任命。

バレンタインはタマニーが選挙を牛耳っていた頃にしつこく汚職を追及したことで降格されていた。

ラガーディアの一番印象的な意思声明といえば1934年の10月にはしけに1000台以上ものスロット・マシーンを積み、大ハンマーで破壊したエピソードだ。

そのマシーンの多くはフランク・コステロの所有するもので、タマニーの守護の下で運営されていたバーやクラブハウス、ソーシャルクラブなどから押収されたもの。

小柄ながら大胆な市長はそののち、マシーンをロング・アイランド・サウンドの水の中に次々放り込んだ。

ランスキーやルチアーノとその仲間たちにとって、市長交代によって起きた一番の変化は1935年の特別検察官トマス・デューイの任命だった。

33歳、冗談が通じずギラギラと妥協のない彼はマフィアの取り締まりを任された。

ラガーディアは1933年に市長となったものの、タマニーがニューヨーク州地区検事の座を手放していなかったため、そこを回避するためにデューイを特別検察官としたのだ。

つまりはタマニーが触れようとしない人々を取り締まることがデューイの使命だった。

デューイがギャングスターの怖さを知ったのは1920年代後半、ミシガンはオウォッソーからニューヨークにやってきたばかりの頃である。

デューイは共和党の手伝い手として投票所でボランティアをしていた。

そこさひへ民主党とタマニー側のダッチ・シュルツに雇われた恐ろしげなギャングが現れ、警察の前で堂々と偽の投票者や二重投票者を投票所へエスコートした。

デューイは一日中、ただ見ていることしかできず、この事件はデューイの人生に大きな影響を与えた。

1935年7月30日夜8:30、特別検察官になって間もないデューイはニューヨークの人々へ公共の電波でこう訴えた。

「もはやニューヨークの街はまともな働き方で食べていく勇気、あるいは知能を欠いた低俗な犯罪者たちの組織の餌食」になってしまった。

救済はニュ―ヨークの手の中にこそある。

ゆすり行為は団結していなかったり、弱気だったりする証言者たちの恐怖や弱みにつけ込むことで成功しるからだ。

組織的犯罪の証拠を持っているなら、我々のところへ持ってきてほしい。そこからはこちらの仕事だ。最善を尽くす」

これに対する公衆の反応は凄まじかった。

ウールワース・ビルディング14階のデューイの事務所へ入ろうと列を成したニューヨーカーの数は一ヶ月で3000人を超えた。そこでは真面目な若い法学校卒業生が5×8インチのカードに人々の苦情内容や情報を記録していった。

最初のターゲットを決めるのにデューイは躊躇しなかった。

ダッチ・シュルツ、本名をアーサー・フレゲンハイマーは、1935年には6年前のシカゴにおけるカポネのような悪名高い存在になっていたからだ。

ニューヨークで最も売り上げる宝くじ商売をコントロールする彼は、自身の経営するレストランで取り巻きを引き連れてシャンパンに溺れる姿をたびたび写真に取られていた。

いよいよこれまでかと思われた訴訟を華麗な不正工作で覆した後はダッチ・シュルツはアメリカ一のゆすり員となっており、トマス・E・デューイは何としても彼を捕まえたいと思っていた。

だが暗黒街の方が先にダッチに死刑宣告を下した。

1935年の10月23日、シュルツは二人のボディガード及び自身の宝くじ事業の会計士オットー・“アバダバ”・バーマンとニュージャージ、ニューアークのパレスバー&チョップハウスで食事を取っていた。

そこへ店の奥の部屋へ二人の武装した男が侵入し、四人の男を射殺した。正確にはシュルツは即死せず、20時間ものあいだ、捜査員たちが病院のベッドサイドで彼の最後の言葉を読解しようと試みた。

「調和が欲しい、ママ、ママ…混乱して、嫌だと言っている。少年は涙を流したこともなく、千のを台無しにしたこともない…」

シュルツが言い遺そうとしていたことも、誰が暗殺を命じたのかも今も不明のままだ。

ダッチ・シュルツ

二人のヒットマンは口を割らなかった。

当時この事件はギャングスタ―という群れの内部の下剋上と解釈され、シュルツの後継者が誰になると予想するか尋ねられた警視総監バレンタインはこう答えた。

「新しい顔ぶれはチャールズ・ラッキー・ルチアーナ、チャールズ・バック・シーゲル、マイヤー・ランスキー、ルイ・レフティ・バックハウス、ジェイコブ・グラ・シャピロ、そしてエイブ・ロンギ―・ツイルマンの六人だろう」

総監の名前の間違いやスペルミスは、警察がこの顔ぶれのことをそこまで把握していないことを示していた。

それでも、名前があれば充分だった。

新聞各紙は新しい「エリート・ギャングスタ―」をビッグ・シックスと名付け、トマス・デューイの次なるターゲットも定まった。

5×8インチのカードにはラッキー・ルチアーノの名前が記されたものもあった。

1936年6月、34歳の特別検察官は強制売春の容疑でホシを狙いにかかった。

デューイの手にしているのはコーキー・フロー・ブラウンと呼ばれている麻薬中毒の街娼の証言。

これは彼女を数日、麻薬なしで投獄したのちに得られた証言だったが、麻薬を手に入れるためならどんな証言だってしただろうとルチアーノの弁護士は嘲笑した。

だがコーキー・フローは9時間近くに及ぶ尋問にも耐えている。

ルチアーノがマンハッタンの娼婦を組織仕様の商売にまとめようとしていたという彼女の証言を、判事は信じることを選んだ。

彼女によると中華レストランでルチアーノと会い、そこで売春を効率的に体系立てることを提案されたという。

その頃、青果や食品の販売を「スーパーマーケット」という新コンセプトで一新しようとしていたチェーン、A&Pと同じように。

デューイはルチアーノの派手なライフスタイルに注目した。

バルビゾン・プラザやウォルドルフ=アストリアの高級スイートで暮らしていることや、訴訟で取り上げられている娼婦の何人かにそこでサービスを受けていること。

ところが、思うようなネタは出て来なかった。

ルチアーノはこう語る。

ラッキールチアーノ

私は与えていた方だ。奪ったことはない

ルチアーノは買春を好むことについてはポジティブな誇りを持っているようだった。

だが、ルチアーノは法廷に立つとスマートではなかった。

デューイの追及を別の話題で雑にかわそうとしたり、何度かはごまかそうとしたところを鋭く切り込まれた。

マイヤーランスキー

ルチアーノは誰かにはめられたのだ。
娼婦たちは証言を強いられ、ルチアーノは売春と結びつけられた

確かに真実はそうであったのかもしれない。

だが証拠は同時に、欲求によってまともな判断ができなくなっている男を映し出していた。

よく知りもしない女を部屋に上げることは迂闊だったし、スーパーのように娼婦を陳列しようなどというアイデアは正気の沙汰ではない。

娼婦の話しだけではデューイの主張する強制売春の容疑は証明できなかったが、ルチアーノがいない方がニューヨークのためになると判事に判断させるには充分だった。

ラッキー・ルチアーノの裁判はトマス・E・デューイの出世の扉を開いた。

トマス・E・デューイ

鋭い目つきと口髭が特徴の特別検察官は、34歳にして国民のアイドルとなったのだ。

彼はゆすりという悪に対して一撃を放った男であり、本物のディック・トレイシー、元祖ギャングバスターと言われ、写真がニュースに登場すると人々は歓声を上げた。

1937年11月、デューイは余裕をもってニューヨーク地区検事に当選し、きらびやかな政界のキャリアを始める。

三期にわたってニューヨーク知事を務め、共和党の大統領候補に二度指名された。

彼は辛くも1948年の選挙でハリー・トルーマンに敗北したが。

重要参考人だった娼婦たちはハリウッドへ招待され、ルチアーノの裁判を題材にした映画で自分たち自身を演じた。

またラッキー・ルチアーノもギャングスタ―の伝統の中で偶像化され、30年から50年の懲役が始まろうとしている中でロススタイン、カポネやダッチ・シュルツとともに悪党として殿堂入りした。

かつては限られた輪の外でほとんど名の知られていなかったチャーリーは、没落によって有名になったのだった。

マイヤー・ランスキーはそのように有名になることも、別の意味で有名になることも望んでいなかった。

それがランスキーとその他の大きな違いである。

ルチアーノの去ったニューヨークはあまり居心地のいい場所ではなくなっていた。

アメリカ内にはお金であらゆることができる場所がまだまだあり、カジノビジネスに興味が出てきたお陰でマイヤー・ランスキーはニューヨークの外の方が都合のいいゆすりに身を投じていく。

カーペット・ジョイント

1933年から第二次大戦後にかけてほ15年あまりの、密造酒バーとラスベガスのカジノの特徴が合わさった施設がアメリカ中の都市の郊外に広まった。

それはカーペット・ジョイント。

マイヤー・ランスキーがギャンブラーとしての天職を完成させた舞台こそが1930年代と1940年代のカーペット・ジョイントだった。

サラトガのレイク・ハウスをモデルに、昔から親しまれてきた居酒屋とサルーンの奥の粗雑なクラップゲームを融合させ、カーペット等の内装をアップグレードしたものだ。

また、制服を着たドアマンや恭しい支配人などワンランク上のレストランやナイトクラブを髣髴とさせるスタッフも配置された。

それでも酒屋は酒屋、それがが魅力の一つでもある。

禁酒法がアメリカに及ぼした影響の一つに個人の楽しみを奪う法律は無視してしまおうという風潮があった。

カーペット・ジョイントの違法性は、その思考に着目した商売だった。

サラトガ同様に他の部屋からは隔離されたゲーミングエリアはアメリカの夜遊びの要素を全て兼ね備えていた。

美味しい食事、ダンス、そしてコパカバーナ風のフロアではマジシャンやコメディアン、名の知れたエンターテイナーのショーが、十数名の美女のコーラスラインでフィナーレを迎える。

買収が不可欠である点はレイクハウスと同じだった。

そのためカーペット・ジョイントは主要な顧客層の住む都市圏から州、あるいは群の境界を超えたところに建てられた。

そこへ行くにはある程度車を走らせねばならず、川を超えることが最も多かったがそれは「線を跨ぐ」ことが必要だからだ。

つまり郊外のより小さなコミュニティへ、そこでは地元の警察や政治家たちが既に買収されていた。

「線を跨ぐ」ことで色んな事が可能になったのは、今もそうであるように、アメリカの各州、その中の市、群、タウンシップなどに委ねられている権利や権力によるものだった。

中絶、離婚、死刑、車のナンバープレートの色に至るまで、アメリカの日常生活に関わる大小さまざまな事項はワシントンD.Cではなく州都で決定される。

ニューヨーク近郊でもっとも顕著な線跨ぎはニュージャージー州、バーゲン群のフォート・リーにあった。

そこで営業していたベン・マーデンのナイトクラブ・カジノ、リヴィエラは、ジョージ・ワシントン橋を超えてすぐの場所に建てられていた。

ここならデューイの目も届かない。

プレイヤー達はブロードウェイのある場所へ向かい、そこからリムジンに乗って川を超え、パリセイズの頂に鎮座するベン・マーデンの建てた白いアール・デコの建物へ吸い込まれてゆく。

可動式の天井が夏には開き、星空の下で踊ることができた。

二階にはゲーミング・テーブルがあり、ブラックジャックのテーブルが二卓、クラップテーブルが三卓、ルーレットが六台あった。

全てがマンハッタンから見渡せる施設の中に。

ハドソン川の西岸に位置するバーゲン群は、ニュージャージーで商売をしつつもニューヨーカーたちを顧客とするギャンブラーたちの聖域となった。

サラトガでマイヤー・ランスキーのパートナーだったジョー・アドニスは、爆発的に儲かる現金クラップゲームをベン・マーデンのリヴィエラから1マイルほど離れた場所のクラブで経営していた

マンハッタンの主だった馬券屋達の本部も全てニュージャージーに置かれていた。

朝にパーク・アベニューのウォルドルフの理髪サロンへ行けばたいていフランク・エリクソンに会えたが、一緒に賭けがしたければ川の向こう側に待機している彼の交換手に電話をかけるのだった。

アメリカ中でこういった違法性の棲み分けは静かに歓迎されていた。

シンシナティの真っ当な市民にとってはコンベンション参加者や訪問者たちが首都に拠点をおきつつも夜遊びにはケンタッキーのコビントンやニューポートへ出かけていてくれる方が好都合だったのだ。

ネブラスカのオマハからは、遊び人はアイオワのカウンシル・ブラッフスへ繰り出した。
ニュー・オーリンズからは、ジェファーソンへ。

普通のルールが適用されないこうした場所へは、車に乗ってたどり着くことができた。

映画「カサブランカ」の警察署長クロード・レインズがリックス・バーでギャンブルが行われているという可能性に憤りを示した後、自分の取り分を懐にしまう場面でアメリカ人観客が含み笑いしたのは、中東の偽善を笑っているわけではなかった。

1933年以降にアメリカ中で誕生したカーペット・ジョイントを経営していたリック達は多くの場合、元密造酒バーのオーナー達だった。

テキサスのヒューストンではベニー・ビニオンがカウボーイ風に拳銃をこれ見よがしに携帯していた。

クリーブランドのマウンズのホストはトマス・ジェファーソン・「ブラックジャック」・マクギンティ。

アーカンソーのホット・スプリングスではかつてニューヨークのコットン・クラブをベン・マーデンと共に経営したオウニー・マドゥンがまるで引退後のロススタインのようにゲーミング・ルームを練り歩いた。

マンハッタンの外に拠点を持たなかったマイヤー・ランスキーはこれらの賑やかな面々に遅れを取っていた。

1936年、ランスキーは遅れを取り戻すべくニュー・ジャージーでドッグレースを開催するビル・シムズとパートナーシップを組んだ。

あちこちで自分の適所を模索していたランスキーだったが、やがてそれを見つけたのは周りのお陰でもあった。

ジュリアン・“ポテト”・カウフマンは投機家だった。

あだ名はシカゴの生鮮市場でじゃがいもの流通に目をつけ、取引をしていたことからだ。

もともと馬券屋だったカウフマンはシカゴでクラップゲームもやっていたが、グルになっていた高官たちが組織編成でいなくなってしまった。

そこでカウフマンは南フロリダで冬の商売をあさり始めた。

1920年代と1930年代の南フロリダは、未開拓地と開拓地のギリギリの場所。

1924年まではアシュリー・ギャングという無法者の海賊団がおり、銀行強盗をしてはエバーグレイズ湿地帯のアジトへと逃げ込んで暮らしていた。

鉄道がマイアミに敷かれたのは1896年で、ネバダまで開通する数年前のことだった。

地域の文明化はなかなか進まなかった。

1920年代初頭のフロリダ土地ブームはゴールド・ラッシュ並に沸いた。

東海岸の人々はこぞって南下して土地を買いあさったが、1926年のハリケーンがフロリダを含むカリブの砂州を直撃し、コーラル・ゲーブルズからボカラトンに至るまでの南東端の夢の開発地が壊滅状態となったのだった。

フロリダの土地は売れなくなり、恐慌の訪れとともに状況は悪化するだけだった。

フロリダは再び辺境の奥地となったのだ。

パーム・ビーチとマイアミは毎年、1月から3月にかけて寒さを逃れてきた裕福な人によって多少潤ったが、そこはあくまで例外であり、残りは蚊とトビムシに覆われた土地だった。

小規模の農家たちはトマトや果物を栽培して鉄道起点へ運び、北へ向かう汽車に積み荷を乗せる荷造り人たちと価格をめぐって押し問答した。

ポツリポツリと生き残りの不動産屋がまだ事務所を構えており、ムーア建築を誇るオーパ=ロッカや、ハリウッド・バイ・ザ・シー(海辺のハリウッド)のキャッチコピーを虚しく掲げていた。

この陰鬱な、それでいてどこかワイルド・ウェスト風の雰囲気の中でポテト・カウフマンはギャンブル・サルーンを開こうと思いつく。

彼が選んだ土地はパッと見にはあまり魅力的ではなかった。

ハランデールの「都市」は貧しい農民ばかりが数百世帯集まったコミュニティで、ブロワード群の最南端、マイアミとフォート・ローダーデールの中間地点だったからだ。

ハランデールはスウェーデン出身の不動産業者ルーサー・ハランドにちなんでつけられた。

1890年代後半、多くの北欧系移民を連れてきたことで知られる。

ハイシーズンでさえ、ハランデールへ来るのは「果物放浪者」達くらいだ。

トマトの収穫期である春になるとくる摘み手の労働者。

彼らはコリンズ・ホテルという一晩一ドルのノミだらけの宿に泊まっていった。

だがこの不毛の土地ぶりがかえってハランデールの成功の鍵となる。

どのような収入でもいいから欲しかった地元の住人らは、その他のアメリカの「線またぎ先」の住人と同じく、法律を無視することに抵抗がなかったのだ。

カウフマンは地元のレーシング電信(スポーツ結果の電信サービス)を運営していたブロワードの馬券屋、フランク・シャイアマンとパートナーシップを結ぶ。

さらに一人、愛想のよいフォート・ローダーデールのギャンブラー、クロード・リッテロールともパートナーになった。

このリッテロールは腕が片方なく、一本腕の悪党となあだ名されていた。

1936年の頭、カウフマンとパートナーたちは電信事業をトマト荷詰め小屋に移した。

近くには当時まだ未舗装の埃っぽい紅土のハイウェイだったが国道一号線と、デイド/ブロワードの群境界が交差する十字路があった。

そこに彼らは黒板、拡声スピーカー、梯子を置き、小屋の一角を馬券売り場の雑貨で埋め尽くし、密造酒バーの馬券屋版に仕立てた。

別の一角にはルーレットとクラップテーブルで間に合わせのカジノとし、また別のエリアをビンゴ・ホールとした。

カウフマンはこの施設をザ・プランテーションと名付け、1936年の春には盛況していた。

午後になると競馬に賭ける者が押し寄せ、日が沈んだ後はクラップテーブルがそれなりに繁盛した。

だが一番人気だったのは、B級映画によって当時広められたビンゴゲームだった。

カウフマンはやがて、その晩の目玉ゲームには3000ドルもの賞金を出すようになっていた。

キャデラック、もしくはパッカードを三台も買える金額だ。

デイド群の境界から人々はどんどんやってきた。

マイアミ・ビーチからもカード1枚に2ドルを賭けようとたくさんの客が。

ザ・プランテーションのビンゴエリアだけでは足りず、クラップテーブルや競馬パーラーの方にも人がはみ出していた。

荷詰め小屋だった建物に隣接する砂っぽいパーキングエリアはすぐに満車になるようになり、運転手たちは拡声器で告げられる数字を熱心に手元のカードから斜線で消していた。

ハランデールの40年の歴史の中で、もっともワクワクする催しだった。

そんな時、カウフマンの元に一人の客が訪ねてきた。

アン・ランスキーの友人、フロー・アロの夫のヴィンセント・アロだ。

ヴィンセント・アロ

ジミー・ブルーアイズの名で知られる彼はイタリア系アメリカンで、チャーリー・ルチアーノの友人でパートナーであり、その繋がりでマイヤー・ランスキーの友人でパートナーでもあった。

マイヤーとジミーはローワー・イースト・サイドの頃からの古い付き合いだ。

1923年、ジミー・ブルーアイズが強盗の有罪判決でシンシン刑務所にしばらく入ったときに関係は途切れたが、出所すると再び付き合うようになり、チャーリー・ルチアーノが投獄された今となってはジミー・ブルーアイズがマイヤーの最も親しいイタリア人の友人になっていた。

ちなみにフランク・コステロは高飛車なところがあったしジョー・アドニスはすさまじい自惚れ屋だった。

だがマイヤーとジミー・ブルーアイズは、仕事でもオフでも同じように控えめなので馬があったのだ。

お互いを尊敬し、尊重しており、妻同士も仲が良かった。

1936年、ジミー・ブルーアイズはダッチ・シュルツとチャーリー・ルチアーノが去った後に空いた隙間に、ひそかに自分の宝くじや馬券屋、ギャンブルの事業を確立させようと目論んでいた。

ジミーとマイヤーが一緒に仕事をするときはジミーが暴力を担当する。

つまりカウフマンは暴力の片鱗を見せつけられたのだ。

「ポテトが必要としているのはパートナーだろ?それもたくさんの」とジミー・ブルーアイズは言った。

ハランデールでカウフマンが展開している事業は多大な可能性を秘めていたが、ここから発展させるには資本と専門知識が必要だったからだ。

より大きな財源、新しいゲームをいくつか、それに守りももう少し固めてはどうか?

ジュリアン・カウフマンは慎重なギャンブラーで、リスクを分散させることを好んだので、ジミー・ブルーアイズにはイエスと答えることにした。

マフィアとと戦うよりも仲間になる方が賢いとわかっていたのだ。

既存の事業のシェアを一部譲る代わりに、これから新パートナーたちが創出すると約束している大きな事業のシェアを確保する。

配当はすぐに支払われた。

この頃地元の自警団が行動を起こし、プランテーションに対して公的不法妨害に基づく禁止命令が出されていた。

ギャンブルの禁止が土地建物の権利証書に対して法的にそして永久的に有効になる判決が下っていた。

これは高い金で雇った弁護士も控訴に成功しなかった。

マイヤー・ランスキーは賄賂で回避のできない禁止命令を注意深く調査した。

カーペット・ジョイントはその性質上、地元の警察やコミュニティが見て見ぬふりをすることで成り立っていたし、その外側の人間が内部に入ることが困難であることを前提としていた。

ギャンブルに対する禁止命令が発令されてしまったとなれば、その区画で営業を続けることはできない。

ランスキーはプランテーションの権利証書を見てみた。

そこにはいくつかの土地の区画が登記されていた。

プランテーションはそのうちの一つの上に建っているに過ぎない。

翌シーズン、プランテーションは姿を消していた。

だがその隣の区画に、魔法で移ったかのようにそっくりな施設が、今度はザ・ファームという名前で営業を開始していた。

施設がそっくりなのは、紛れもなく同じ建物だったからだ。

荷詰め小屋だった建物を横にずらすかたちで、禁止命令が発令されていない区画へと移転していた。

だがまた市民たちが声を上げれば禁止命令が再度発令されかねない。

そこでランスキーはサラトガで学んだコミュニティ・リレーションズのノウハウを発揮することにした。

オープン前の数ヶ月にわたり、運用管理者の弟ジェイクが献金して回った。

エルクス慈善保護会に、フォート・ローダーデール・シュライン・クラブに、ハリウッド釣り大会に、南フロリダ子供病院に。

実に24以上の地元団体へ国道一号線の交差点のビンゴ・パーラーから多額の寄付が贈られた。

プランテーション改めファームが1936年の12月に営業を開始した時、不満の声や禁止命令、自警団はどこにも見当たらなかった。

新しいファームのバージョンアップしたゲーミング・ルームでは、ランスキーのお気に入りのサラトガ従業員が司会を務めた。

ジェイク・ランスキーは勘定台を張り、ダイニング・ルームは新設。

ポカウフマンがプランテーションとして経営していた頃にはドリンクは提供しても食事はなかった。

最低限のギャンブル屋、カーペットというよりもおがくずが床を覆っていた。

だがマイヤー・ランスキーは美味しい食事を提供する重要さを知っていた。

食事を摂りに退出してしまえばそこで賭けは止まり、戻ってこないこともある。

よってファームとして蘇った後には新しいキッチンと、腕の確かなシェフたちも揃えた。

とはいえ、トマトの荷詰め小屋の雰囲気を変えることは困難だったため、ファーム以外の施設も建てられた。

シーズンを迎えてデイド/ブロワードの群境界に舞い戻ってきた博徒たちは、ビーチ・クラブ、204クラブ、それに固定オッズ方式と最新の電信情報を備えたいくつかの競馬サロンに迎えられた。

その中でも目玉は新しいカーペット・ジョイント、ベン・マーデンのコロニアル・イン。

カジノと呼んでもいいほどの設備はえんじ色と金と白で装飾されており、ハドソン川を臨むリヴィエラでマーデンの代名詞ともなった豪華なフロア・ショーも楽しむことができた。

ベン・マーデンはその前の冬にウェスト・パーム・ビーチで商売をひとつ始めるつもりだったが、そこではE.R.ブラドレ—大佐がカジノを開いており、競争は許されなかった。

仕方なくマーデンはより寛容なマイヤー・ランスキーとジミー・ブルーアイズのテリトリーである南のブロワードでコロニアル・インを開業したのだった。

コロニアル・インを含むハランデールのクラブの全てのパートナーシップに、ジミー・アロとマイヤー・ランスキーは自分の名前や他の者の名前で何らかの形で携わっていた。

ジェイク・ランスキーはプランテーションファームとビーチ・クラブのシェアを持ち、ミラー&ランスキーというパートナーシップにも名前を連ねていた。

アイク・ミラーはフォート・ローダーデール近くで「It」クラブと呼ばれる小規模クラップゲームを運用していた。

ジミー・ブルーアイズはハリウッド・ヨット・クラブで馬券屋をベン・シーゲルの友人モー・セドウェイとともに経営していた。

ここでもサラトガと同じように、各パートナーシップには地元で必要なコネが確保された。

ブロワード群ではフランク・シャイアマン、クロード・リッテロール、あるいは彼らの仲間の誰かがこれに該当した。

それに加えベン・マーデンをはじめとする国内の他の場所でもカーペット・ジョイントを経営しているような、影響力のある外部の人物が配置された。

テキサスのジョージ・サドロは陽気で周りに愛される男で、パンチョ・ビリャとパートナーシップを組んでメキシコでカジノを経営した経験からギャンブラーとしての知識を蓄積したと言われていた。

クラップゲームを道端から緑の布張りのテーブルへと移したのも彼だと言われている。

マーデンやサドロのような男たちは裕福なクライアントに対し、安心して遊べるフロリダへ冬の間、遊びに来るよう説得した。

そのような客たちはクレジットのデータ・ネットワークにも貢献した。

豊かな資金を持つ客が小切手でチップを大量に購入したら、サドロ、マーデン、ランスキーとアロの四名の耳にそのことが入らないわけはない。

この客になら何千ドル安全に前貸しできるかの情報を共有できるたである。

シーズンを重ねるにつれて顧客はどんどん増えていった。

1930年代が終わるころ、経済が上向いていることはアメリカ一の冬の娯楽街、南東フロリダのゴールド・コースの様子からも明らかだった。

1929年には12軒前後しかなかったマイアミ・ビーチのホテルが、1939には数百にも膨れ上がっていたのだ。

そして宿泊客の多くがリムジンやタクシーに乗って10マイル北のハランデールに向かう。

そここそギャンブラーの楽園。

ランスキーの友人でありニュージャージーでのパートナー、ビル・シムズは1936年にハリウッドでドッグ・レースを開業していた。

1939年にはハランデールでガルフストリームパーク競馬場ができ、優雅なヤシの木とハイアリアに引けをとらない湖が完成した。

遊びに来る人々は群境界に近づくにつれ、ハランデールのロードハウスや競馬パーラーがまばゆいライトで堂々と主張しているのが目に入った。

ファーム、ビーチ・クラブ、ベン・マーデンのコロニアル・イン―好みによって客は行き先を選ぶことができた。

大きな掛け金のクラップスは現金で、少しのんびりとルーレットで遊ぶか、駐車場に響き渡る音声のビンゴ・ゲームか。

フロア・ショーはブロードウェイにも劣らなかった。

ポール・ホワイトマン、ソフィ・タッカー、ハリー・リッチマン、ジョー・E・ルイス…スターたちはみんな、地方興業のスケジュールにハランデールの名前を書き込んだ。

1930年後半の打ち捨てられた砂州だったデイド/ブロワード群境界に、3ヶ月の長いシーズンを誇る冬のサラトガが誕生したのだった。

サラトガはラスベガスの前身のようなきらびやかさでもって、マイヤー・ランスキーやパートナーたちの懐を潤わせた。

アップダウン

1930年代の終わり、フロリダはハランデールの裁判所で執行されるのは手早く、実務的な判決だった。

    訴訟No.499:アーサー・ビーン。治安妨害。すなわち、日没後に街の白人地域で物乞いをした疑い。

罰金25ドル及び訴訟費用。
刑期の執行は被告が街を30分以内に去ることを条件に1年延期。

ハランデールの地方裁判所は、市長でもあるH.L.チャンシーが判事を務めていた。

彼の判決は今でも古い裁判所に、金メッキと革で装丁された元帳の形で残っている。

訴訟のほとんどは喧嘩や冒涜的な言葉遣い、公衆便所の設置などが争点。

それらに課せられた罰金は比較的小さく、大体5ドルから10ドル、大きくても25ドルだった。

それが突然1941年の1月終わり頃から元帳に記された罰金が二倍に跳ね上がった。

前代未聞の60ドルの罰金が白人男性のジョー・プライスに課せられたのは治安紊乱行為の容疑だった。

「不出廷のため60ドルの保釈金没収」。

1941年2月10日にジョゼフ・ソーヤという男が同じ容疑で50ドルの保釈金を没収され、二週間後、ソーヤはまたもや50ドルを没収されている。

3月の14日と31日にはヒュー・ペンダーが二度とも不出廷につき50ドルずつの保釈金を没収されている。

1941年の頭の二か月だけで、この小さな地方裁判所は平年一年分の没収保釈金に相当する額をプライス、ソーヤ、ペンダーに加えたもう二名の「治安紊乱行為」の保釈金で没収していた。

これはハランデ―ルの街独自の地方賭博税だった。

プライス、ソーヤとペンダーは馬券屋やギャンブラーだったのだ。

保釈金の没収は彼らの事業に対する課税であり、ギャンブル屋の数と規模が拡大するにつれて保釈金の額もだんだん大きくなっていった。

500ドル、1000ドル、1940年代の終わりには1500ドルも徴収されることがあった。

それは儀式化されていった。

冬の間、毎週月曜日の朝になると裁判所書記官が目の前に並んだギャンブル屋の経営者について治安紊乱行為の容疑を書き込んでいく。

どのような治安紊乱行為がなされたのかは具体的に書かれなかったが、各人が保釈金を現金で預け、一週間後の判決の言い渡しに再び出廷するように告げられる。

出廷を怠ると、保釈金は正式に法廷に没収されていった具合だ。

1940年代後半にハランデ―ルの法務官を務めたジョゼフ・ヴァロンは振り返る。

「冬は資金の貯め時だった。夏が終わる頃には財源が底を突きかけるので、銀行から1万ドルのローンを借りた。カジノが開くまで、それで乗り切った。」

1940年代の初頭、ランスキーはアメリカの反対側、アイオワのカウンシル・ブラッフスヘ招待された

カウンシル・ブラッフスは線跨ぎ先の飛び地。

要件は“助けて欲しい”というもの。

1937年、カウンシル・ブラッフスでは百周年記念エキスポが没案となった。

その頃流行っていたトレード・フェアのアイオワ版を開催しようとした都市は使い途を失った広大なエキスポ・パークと地元の債権者への1万2千ドルもの負債を抱えて途方に暮れていた。

1941年5月17日、ビル・シムズとランスキーはカウンシル・ブラッフスの公共公園委員会と契約を締結した。

ドッジ・パーク会場を週1000ドルの賃料で借り、今後5年間、年に少なくとも5週間はグレイハウンドレースを開催すること、という内容。

またトラックと小さなスタジアムを建設し、それらはリース期間が終わったら市に譲渡するという条件もつけた。

会場が活用でき、市の借金も解消できるいい話だった。

1941年の夏、ドッジ・パーク・ケネル・クラブはオマハの郊外を見渡すミズーリ川の東岸に大々的にオープンした。

レースは7月には始まり、初めから客が大入りだった。

市との契約、それも公共の公園の土地とあってはマイヤー・ランスキーとビル・シムズも公に賭けを展開するわけにはいかなかない。

しかし、実態は同じくらい楽しめるように工夫してあった。

ドッジ・パーク・ケネル・クラブのオープニングに客が集まると、会場には勘定窓口とその後ろに事務員が控えており、レース犬の「オプション」を「出資者」たちに売る宣伝をした。

自分がオプションを購入した犬が勝てば、そのオプションは価値が増し、トラックへ売り戻すことで利益を得ることができる。

犬が負ければそのオプションは無価値となり、出資金は戻らない。

つまり、どういうことかと言うと日本のパチンコ屋のようなシステム。

平たく言うとギャンブルだった。

この運用システムでランスキーとビル・シムズのドッジ・パーク・ケネル・クラブは1941年の夏の8週間に渡って大きな儲けを出した。

1942年には8週間半営業し、1943年には12週間以上開場。

債権者への1万2千ドルの借金はドッジ・パークの2年目のシーズンで既に完済されていた。

それ以後にトラックから自治体に支払われた金額はカウンシル・ブラッフスの財源になっていった。

賭博が法律で禁止されている街で、法律によって守られた賭博税が徴収されていたのだ。

こうしてアメリカで成功を納めたランスキーは満を持して海外進出に取り組むことにした。

キューバ

1938年、マイヤー・ランスキーはギャンブルサービスをキューバへ持ち込んだ。

五年前に元軍人から大統領となった若きフルヘンシオ・バティスタは、自国のゲーミング収益を押し上げたいと考えていた。

恐慌の前、街の競馬場であるオリエンタル・パークと関連のあるハバナの二つのカジノは裕福なアメリカ人の冬の遊び場となっていたが、今は経営状態が悪く、そこでマイヤー・ランスキーに白羽の矢が立ったのだった。

恐慌も原因の一端ではあったが、それよりも不正が深刻だった。

オリエンタル・パークは南国の観葉植物やフラミンゴの群れが暮らす湖がトレードマークの美しいレーストラックだった。

ハイアリアや、他のフロリダのトラックのモデルともなっていた。

だがバティスタが1933年に権力を握った頃にはすでにその評判は地に落ちていた。

不正を働くスチュワード、裏工作されたレース、薬物を与えられた馬。

アメリカの馬主はサラブレッドを船に乗せてハバナへ送り込むことを躊躇し、競馬場の馬券屋や地元のカジノで金を出そうとする賭け手はいなくなっていた。

1937年の1月にキューバのギャンブル事業の大半が市営から軍下に移されていたものの、フルヘンシオ・バティスタの期待する儲けを生み出すことはなかった。

そこでニュー・イングランドで幾つかの競馬場やドッグレースを経営して高く評価されていたルー・スミスがオリエンタル・パークの立て直しの契約を持ちかけられた。

マイヤーランスキー

スミスはカジノのやり方について何も知らなかった。
そこで私に話をもってきた

ルー・スミスはマイヤー・ランスキーが密輸稼業とギャンブルの事業を通して出会ったニュー・イングランドの友人の一人だった。

他にもボルステッド法の違反でしばらく投獄されていたドッグレース商売のジョー・リンゼイや、ホテル経営のベン・ゲインズ(ギンズバーグ)がいた。

バディの治療のために1930年代初頭にボストンに転居したマイヤーは、同業者たちとの関係を築いていたのだ。

ルー・スミスはオリエンタル・パークに降り立つや否や、すぐに舵を取った。

レースのスターティング・ゲートを機械のものに変え、地元のスチュワードを自分が連れてきたスタッフに入れ替えた。

馬の薬物検査も推奨し、馬券屋に不正のないようにニューヨークからフランク・エリクソンを呼び寄せた。

新しくなったオリエンタル・パークの冬のシーズンは好調に滑り出した。

ウィリアム・K・ヴァンダービルトや、女優のエレノア・パウエル、フィギュア・スケーターのソニア・へニー等が来場した。

オリエンタル・パークの目玉施設、ジョッキー・クラブ内ではハバナのレースが再びフェアになったともっぱらの評判だった。

ギャンブルについても同じことが言えた。マイヤー・ランスキーはトラックに併設された小規模ながら贅沢なカジノのキューバ人のスタッフを、自分が連れてきたクルーに入れ替えた。

レースが終わった夕方以降、一行は近くのマリアナオへ移動し、噴水や大理石の像に囲まれたギリシャ風のナイトクラブ、グラン・カジノ・ナショナルでナイトライフを楽しんだ。

クラップテーブルの運営にマイヤーはダウンタウン・マーチャンツ・クラブのアル・レヴィをリクルートしていた。

レヴィはもう若くはなかったが、ニューヨークの博徒たちの間では今でもブランドネームだった。

改装されたカジノのオープンを記念してレヴィとランスキーはセレモニーを企画。

そこでは「ゴールデン・チケット」が進呈されることになっていた。

バティスタ大統領も特別レセプションへ招待されカジノへの彼専用の「鍵」をプレゼントされた。

それは楽しく豊かな冬のシーズンだった。

当初、ルー・スミスにオリエンタル・パークとの契約のカジノサイドをお願いされたときランスキーはあまり乗り気ではなかったが、ハバナが好きになっていた。

アンと二人の息子、バディとポールを一か月ほど滞在させたりもした。

オープンで合法な環境でギャンブルを運営するのはランスキーにとって初めての経験。

周りに賄賂を配ったり疑似合法的な策略をめぐらさなくていいことが快適だった。

マイヤーランスキー

ソクラテスやプラトンですら道徳を定義しかねたのだとすれば、どうしてその辺の人間が、ギャンブルを非道徳的だと断罪できる?
アメリカでは許されない事もキューバでは合法だ

ハランデール、サラトガ・スプリングス、カウンシル・ブラッフス、それにキューバ。

金型屋を辞職してから20年の間にランスキーは自分が選んだ分野で頭角を現すようになっていた。

ここからランスキーは更なる高みを目指し始めるのだが。。

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