三分で学ぶ黒人ギャング ステファニー・セントクレア編

三分で学ぶ黒人ギャング
ステファニー・セントクレア編

ステファニー・セントクレア

ステファニー・セントクレアの生い立ち

1897年12月24日、ステファニー・セントクレアは西インド諸島のグアドループに生まれた。

家庭には父親がおらず、母親は懸命にクレアを育てた。

しかし、クレアが15歳の時に母が病に倒れ、亡くなってしまう。

クレアは生きるため、単身アメリカ、ニューヨークのハーレムへ渡り、働き口を探した。

クレアがアメリカに来て最も驚いたのは、黒人たちがまともな教育を受られず、計算や読み書きができないこと

さらに、学がないゆえに政治やビジネスに無関心なことであった。

というのもフランス領である、グアドループでは現代とそん色のないレベルの教育が黒人でも受けられたのだ。

そのためクレアは、15歳にして当時のハーレムの中では、学がある方だった。

また、クレアは、自頭もよかった。

アメリカに来る前はフランス語しか話したことのなかったクレアだが、数か月で、しかも独学で英語を学び、話せるようになったという。

このように能力の高いクレアだが、それでもまともな仕事を見つけることはできなかった。

クレアは生きるために、ギャングの元を訪ね、買収婦の仕事を紹介してもらう事にした。

しかし、働いても貰える金額は数ドルほど。

そこでクレアは、自分でビジネスを始めた方が儲かるのではないかと思いつく。

しかし、大きなビジネスを始めるのには元手がいる。

そこでクレアは、てっとり早く軍資金をつくるため、麻薬を売りさばくことにした。

しかし、当時のハーレムの暗黒街も、現代と変わらず男社会。

クレアは、なめられないようにエドというチンピラを仲間に引き入れた。

クレアは、売春婦時代の顧客に麻薬を売りさばき、たちまち成功を収める。

その売り上げは、2か月で30,000 ドル、現在の価値で44万ドルにもなった。

これに満足したクレアは、逮捕の危険が高い麻薬ビジネスから足を洗う事に決める。

しかし、これにエドは猛反対。二人は激しい口論になった。

エドは激怒しクレアに襲いかかる。

揉み合いの末、クレアはエドの頭をテーブルに叩きつけ殺害。

男顔負けな殺害方法の噂はハーレムに広まり、ギャングたちもクレアに一目置くようになった。

女王の誕生

ステファニー・セントクレア

30,000 ドルもの軍資金を手に入れたクレアだが、新しいビジネスの立ち上げは思うようにいかなかった。

というのも、当時、ハーレムで展開されているビジネスはほぼすべての裏にマフィアがいたからだ。

そのため、飲食店や売春宿など同業種のビジネスを立ち上げるのはケンカを売るに等しい行為だった。

また、仮に同業種のビジネスを始めたとしても、資金力で圧倒されるのは目に見えている。

そこでクレアは、この金を合法企業に投資することを思い付く。

しかし、当時の銀行や企業は、どんな条件であろうと黒人の出資を受け入れようとしなかった。

こうして行き詰ったクレアは、遂にある答えを見つける。

自分で新しいビジネスを作ればいいのだ。

そしてクレアが目を付けたのが、ナンバーズ賭博だった。

ナンバーズ賭博とは、1 から 999の3桁の数字を当てると、当選金がもらえるというギャンブル。

ルールは現在のロトシックスなどとほぼ同じだが、当時は競馬場の1日の配当金の合計額の下3桁など、公平性が担保される数字で行われていた。

そんなナンバーズ賭博は、1920年代には貧乏人の遊びとされていた。

というのも、掛け金は一口1 セントからで、配当金も600ドルほどだったからだ。

マフィアたちは、あまりに儲けが少ないので参入しない。

ナンバーズ賭博を運営しているのは、黒人のごろつきだけだった。

しかし、クレアはしっかりと組織だって運営すれば、ナンバーズ賭博は大金を産むビジネスだと気が付いた。

クレアは軍資金から10000ドルを支払い、ナンバーズ賭博を運営しているハーレムのならず元たちを雇い、一つの組織にまとめ上げた。

この組織はやがて、フォーティー・シーブスと呼ばれるようになる。

これまでは個人で請け負っていたのを、役割ごとに分担制にし、賭けを引き受ける係、掛け金を本部に届ける係、本部でそれを集計する係、配当金を届ける係を設けた。

加えてクレアは、ナンバーズ賭博の利益を政治家や警察の買収に使い、ナンバーズ賭博を、おおやけに運営できるような環境を整えていく。

そうすることで老人や子供、主婦も後ろめたさを感じずにベットできるようになり、市場はどんどん拡大してゆく。

ナンバーズ賭博はハーレムで最も雇用を生むビジネスに成長。

多くの人に食い扶持を与ええたクレアは、堅気の人間からも、ギャングからも慕われるようになった。

そしてクレアの組織には、効率よく稼ぎたいギャングが集うように。

その中には、後に大物となるエドワーズ・バンピー・ジョンソンがいた。

武闘派ギャングだった彼は、クレアのビジネスの手腕に感服し、右腕になりたいと名乗り出た。

バンピー・ジョンソンという暴力装置を得たクレアは20歳にして、ハーレム一のギャング団のボスになった。

女王の政治

ステファニー・セントクレア

こうして一大帝国を築いたクレアは、やがて女王とあだ名されるように。

その暮らしぶりは、その名にふさわしいものだった。

住まいは当時、富裕層がこぞって部屋を借りていた高級マンション、エッジコム アベニュー 409 番地。

レンガ作りの14階建てで、当時の最高裁判所判事サーグッド マーシャルも住んでいたという。

身につける衣類も高級品ばかり。彼女は特に特注品のターバンと、ミンクのコートをよく身に着けていた。

ちなみに当時のミンクのコートの平均的な価格は300ドルほど。企業に勤める人の平均月収が25ドルというと、その高級さがわかる。

それから当時の新聞には彼女の裕福さを伝える、こんな1文がある

「現金で約 500,000 ドル(現在の800 万ドル)と、いくつかのマンションを所有している」

こうした華々しい生活を送るクレアだが、やがて大きなトラブルに見舞われる。

ダッチ・シュルツvs黒人ギャング抗争

1931年、禁止法時代が終わると密造酒ビジネスを主なシノギとしていたイタリア系・ユダヤ系マフィアは各々の新たなビジネスを模索し始めた。

マフィア屈指の武闘派、ダッチ・シュルツは新たなシノギとしてハーレムのギャンブル事業を奪おうと画策する。

手始めにシュルツは、クレアの元に使いを送り、命が惜しければ、組織を明け渡すか、シュルツの傘下に入るかを選ぶように伝えた。

対クレアはこう答えたという

「私はどんな男にも屈さない、ナンバーズ賭博は黒人のものだ。もしシュルツがハーレムに足を踏み入れたら、ネズミのように踏みにじって殺してある」

こうしてダッチシュルツ一味と、フォーティー・シーブスの抗争が始まった。

先手を打ったのはダッチシュルツだった。

彼は無差別にナンバーズ賭博の賭け屋40名を拉致し、殺害した。

街の異変にクレアが気付く頃、彼女の自宅に電話がかかってきた。

電話越しにシュルツはこう話した。

「お前の部下たちは既に地面の下だ。降伏しろ」

この攻撃に戦力差を感じたクレアは、暴力では勝てないと悟る。

そしてバンピーらに身を隠すように命じ、対抗措置として買収している警察を動かすことにした。

クレアは警察に、シュルツが運営するあらゆるレストランやカジノを手入れするように命令。

警察はシュルツの部下12 人を逮捕し、約 1,200 万ドル (2021 年の通貨で約 1 億 9,060 万ドル) を押収した。

しかし、それでもシュルツの攻撃の手は緩まず、クレアの部下が次々と行方不明に。

劣勢に立たされたクレアは、マフィアのまとめ役ラッキー・ルチアーノに助力を求めた。

対するルチアーノは、こう述べた。

「フォーティー・シーブスがマフィアの仲間に加わるのなら、もちろん助ける」

クレアは、あがりを収める約束はしたものの、あくまでも傘下ではなく同盟関係であると念を押し、この条件を受け入れた。

ステファニー・セントクレア

1935年、ルチアーノの命により殺人株式会社がシュルツを暗殺を決行。

レストランで撃たれ、意識がもうろうとした状態で病院に担ぎ込まれたシュルツに当てて、クレアはこう電報を送った。

「お前が撒いた種だ。お前が刈り取れ」

この電報を受け取ったその日のうちに、シュルツは息を引き取った。

こうして抗争が終結。

多くの部下が死亡したことに責任を感じたクレアは、組織を後任にゆずり、堅気の人生を始めた

波乱の引退後

1930年代行半、引退したクレアは、黒人の置かれた環境を変えようと政治的な活動に精を出した。

その過程で出会った公民権活動をするスーフィー・アブドゥルハミドと恋におち、1936年に結婚した。

しかしスーフィーの正体は、ナチス思想を持つカルト宗教の教祖で、目当てはクレアの財産。しかも浮気ぐせがあった。

そのわずか2年後、1938年1月19日クレアは彼の浮気に怒り、銃撃。3発発砲し、1発は彼のあごに穴をあけた。

彼は重傷を負ったものの、命に別条はなかった。

これについてクレアは後に、「殺す気なら殺していた」と語っている。

クレアはすぐに逮捕され、2年から10年間の不定期刑を言い渡された。

クレアは服役中、地元の新聞に黒人の人権についてのコラムを執筆して過ごした。

出所後の生活は謎に包まれているが、グアドループに戻り、一人でひっそりと暮らし、2度と犯罪に関わることはなかった。

そして、1969年、79歳の時、心臓発作でこの世を去った。

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