マイヤー・ランスキーPart4

マイヤーランスキーPart4

前回:マイヤー・ランスキーPart3

テディとマイヤー

ランスキーがセルマ・「テディ」・シュワルツと出会ったのは1948年の8月だった。

最初の妻、アンとの離婚判決が下りてから18ヶ月後。

出会いから4ヶ月後にはマイヤーとテディは結婚していた。

二人のランスキー夫人ほど、毛色の異なる二人の女性もなかなか見つからないだろう。

アンが静かならテディは賑やか。
アンが傷つきやすければテディは打たれ強かった。

そしてアンがマイヤーのことをあれこれ聞き出してきたのに対し、テディはひたむきに愛し続けた。

小柄な体に緑色の瞳、赤い髪は金髪寄りの色だった。

テディ・ランスキーはマイヤーよりも更に3インチほども背が小さく、5歳と少し年下だった。

結婚した1948年当時、彼女は41歳。

オーストリア出身の父とルーマニア出身の母に生まれた彼女もユダヤ系移民の娘で、二人のきょうだいと共にレノックス・アベニューの北端で育てられた。

そのころのハーレムはまだ白人が住人の中心だった。

テディは鮮やかな原色の洋服、中でも赤を好んだ。

口を開けば話し方はドラマの登場人物の話し方そのもの。

見た目も話し方もネイリストを思わせ、新聞各紙も彼女の職業をそのように書き立てた。

実際には若きセルマ・シアの最初の仕事はギンベル・デパートのパートナーの一人、ルイ・ギンベル・Jrの秘書というものだった。

その後まもなく一人目の夫である洋服商のフィリップ・シュワルツと出会い、結婚の約束をしたときのセルマはまだ20歳だった。

1927年、アッパー・ウェスト・サイドのアパートメントで新婚生活をスタートさせた彼らは、その二年後に結婚したマイヤーとアン・ランスキー夫妻と同じ世界で暮らしていた。

洋服商たちの間で贔屓にされていたポメンランツなどのレストランで食事をしていると、周りの会話からテディ・シュワルツの耳にルイス・バカルターやバグジー・シーゲル、マイヤー・ランスキーなどの名前が自然と入ってきた。

テディのドレスメーカーはエスター・シーゲルと同じだったし、きっとランスキーとも一度くらいは会っていたに違いないとテディは晩年に語っている。

さらにランスキーとルチアーノがよく通ったゴルフ場にもテディは行ったことがあった。

テディにはロマンチスト、夢見がちとも言える面がある。

10代の早いうちに、彼女はテディ・ローゼンバーグという男の子を好きになったのをきっかけに、大嫌いだったセルマという名前をテディと改名した。

また舞台に憧れているところがあり、ある日レストランでノーマン・ロックウェルがお店の反対側から彼女の所まで来て、写真のモデルになってくれないかと聞かれた思い出を生涯大事にしていた。

その気になれば自分はコーラス・ガールになれたのだと主張していた。

シュワルツ夫妻は1940年代の頭、ナイトクラブ経営に挑戦し失敗していた。

1948年の8月、テディは少しのロマンスを求めていた。

20年の結婚生活を経て離婚の手続きに入ろうとしていた彼女は、ティーネイジャーの息子を抱えたシングル・マザーになるところだった。

フロリダはハリウッドの小さな貸別荘に女友達と滞在していた際、夕飯に出かけようとしたある晩に隣の家から小ざっぱりとしたハンサムな男性が出てきたのに遭遇した。

「あら、マイヤー!」

テディの女友達は声をかけた。

彼女の夫はニューヨークのゆすり屋達とのコネがあるらしかった。

「どちらにお出かけだい?」とランスキーは誰かと食事をとれることを喜んだ。

その日は三人で夕飯を共にした。

それから4ヶ月後、テディのフィリップ・シュワルツとの離婚が認められたわずか数週間後にランスキーとテディは結婚している。

テディは長期的な関係を望んでいたわけではなかった。

彼女は言う。

「結婚する気はなかった。でもマイヤーの洗練されたところが大好きだった」

お洒落なレストランへ連れ出し、食べたこともない料理を注文してくれた。

初めてのデートではハリウッドの北に位置する岬、ライトハウス・ポイントまで彼女を連れて行き、周囲の暗い海を月明かりが照らす中でストーン・クラブの美味しさに出会わせてくれた。

ランスキーは外食が好きで、テディも同じだった。

彼は身綺麗で、寡黙で、スタイリッシュだった。

そして東海岸の最も洒落たナイトクラブをいくつか経営していた。

テディは新しい夫が違法な手段で稼いでいることを認識していた。

ランスキーは冬のシーズンに向けてクラブ・ボエムを準備している最中だった。

だがテディはギャンブルに罪はないと考えており、自身もブラックジャックを楽しむこともあった。

そして夫が実はもっと不穏なことにも関わっているのだとすれば―それは、敢えて知らずにいることを選んだ。

それは全てランスキーの事情だった。

テディはマイヤーを信頼し、それで十分だった。

ランスキーがテディ・シア・シュワルツを特別気に入った理由の一つは、余計なことを尋ねず、自分の判断に全てを任せるという点だった。

アンは常に夫に説明を求め、釈明を要求し、彼が間違っていると主張していた。

一方のテディはランスキーが悪いことをするはずがないと信じていた。

彼の味方となり、犯罪者が好む被害者スタンスを取り、むしろ社会に迫害されているのは自分たちなのだという考えを身に着けた。

だが心の一番内側では、テディもそれを信じていたとは考えにくい。

結婚してから4年間、フロリダから急遽ニューヨークにとんぼ返りするなどの極端な手段を取ってまで、年老いた病身の父が自分の新しい夫の正体に気づかないよう注意を払っていた。

1940年代後半にランスキーや、時々自分の名前までが新聞に登場し始めると、テディは父の老人ホームのスタッフに前もってそれらの新聞をが父の手に渡るのを阻止させた。

ただどのような疑念があったにせよ、それを彼女が表に出すことはなく、そんな彼女をランスキーは愛した。

「あなたと結婚したのがマイヤーの人生最良の日だった。」

マイヤーの妹、エスターはある日そうテディに言った。

新しいランスキー夫人はずけずけと強烈だった。

彼女のけたたましさはランスキーの家族や友人の多くを遠ざけたが、彼の唯一の女兄弟であった妹のエスターはことの本質を見抜いていた。

ランスキーがどんなことをしても無条件で支え、受け入れるテディの存在が彼を解放したのだ。

アン・ランスキーは夫に金切り声を上げた。

テディは世間に金切り声を上げた。

二度目にしてランスキーは自分の生き方にぴたりと合うパートナー、つまりはギャングスターの情婦を見つけたのだ。

1948年の夏、フロリダ・ハリウッドの不動産経営者ジョゼフ・バウムはイスラエルのために資金を集めていた。

国連によるパレスチナ分割の決議案が採択されると、アメリカ中のユダヤ人が中東に自分たちの故郷となる場所を創ることを目指し始めた。

ジューイッシュ・エージェンシーの政治部長、ゴールディ・マイヤーソン―のちのゴルダ・メイア―はこの頃、アメリカ中の地元のシナゴーグや事業主から5000万ドルもの寄付金を集めたところだった。

バウムはイスラエルの独立戦争を最前線で支えるテロ組織、ハガナーの資金を集めようとしていた。

バウムはランスキーに、自身のハガナー委員会に近隣で最も大規模で豪華な会場であるコロニアル・インでのチャリティ・オークションを開催させてもらえないか持ち掛けた。

ランスキーは快諾し、寄付金も出した。

コロニアル・インでのハガナーのチャリティ・イベントは1万ドルの寄付金を集めることに成功した。

イスラエルの生き残りと受容を賭けた戦いはランスキーの想像力を刺激した。

彼にとってそれは、自身の状況の比喩にも思え、また寄付することによって自分なりに貢献することができた。

ニューヨークの東60番ストリートにあるコパカバーナの上の、謎めいたホテル・フォーティーンがイスラエル人のエージェントの基地となった。

彼らはハガナーのためにアメリカの武器を違法に入手しようとしていた。

また同時に彼らはアラブ諸国へのアメリカの武器の供給を断つことを目的としていた。

ランスキーに紹介された彼らはピッツバーグの武器ディーラーの名前と、彼がニューヨーク・ニュージャージー海岸線からアラブ諸国へ向けて武器を運ぼうとしているとしているという情報を伝えた。

「なんなりと。」とランスキーは答えた。

第二次大戦の再来だった。

ランスキーはB‐3と協力していたころの関係者に話を通し、ピッツバーグの荷は船から海へと捨てられた。

また別の荷送はそのほとんどがイスラエル行きの船に乗せられてしまったことも。

ハッフェンデン司令官に港の情報を事細かに提供した同じ人間たちが協力しあい、その後も数か月に渡りホテル・フォーティーンのイスラエル人達の力となった。

40代後半に突入し、新たな伴侶とともに人生の新ステージに立ったランスキーは、ルーツであるユダヤの大義にこれまで以上に協力すること求められていた。

彼はハランデールのカジノパートナーたちにも声をかけ、イスラエル債権を買うよう説得。

フランク・コステロやジョー・アドニスには「いい投資になるぞ!」と呼びかけた。

そして、二人の息子をチェダーに通わせなかった男としては意味深な行動にも出ている。

戦後に人がフロリダへ流れ込み、ハリウッドやハランデールは年中大勢の人間が暮らすコミュニティになりつつあった。

そこに住む、イスラエルに協力していたユダヤ人たちは自分たちだけの礼拝の場所を建てる時が来たとして、ハリウッドのノース・レイク近くに角ばった白いシナゴーグ、シナイ寺を建立した。

そこにはチェダーも備わっていた。

新しいシナゴーグの年長者がマイヤー・ランスキーに寄付を求めてくると、ランスキーはエターナル・ライト―つまり昼も夜も聖櫃の中、トーラーの巻物の上で燃え続ける蝋燭を守るランタン―の費用を出そうと申し出た。

エターナル・ライトに自身の名前を彫るのに1000ドルを出したとジョゼフ・バウムは記憶している。

マイヤーのこの寄付は、毎年冬になるとハランデールのカジノから配られるものと同じとして捉えることもできるが、より個人的なものを象徴していた可能性もある。

ひょっとすると中年に差し掛かったランスキーはグロドノのシナゴーグの群衆の中を前へ進み出てトーラーを読み上げる大好きな祖父の姿を思い出していたのかもしれない。

マイヤーとテディはキューバで入籍の手続きをした。

ハバナの弁護士事務所で書類にサインをすることで行われ、マイヤーが新聞記者を警戒していたことや、アンや息子たちに再婚を知られたくなかったからそのような形が取られたのだった。

日付は1948年12月16日。

冬のシーズンにランスキーとテディがハランデールへ戻ると、夫婦であることを隠すのに彼は苦慮した。

下の子供二人、ポールとサンドラがクリスマスを父親と一緒に過ごしに来たが、彼らは義母ができたことを知ることなくニューヨークの学校へと戻っていった。

一週間ほどして今度はバディが長期滞在しに来た際、ランスキーは隠し通すことができなくなっていた。

19歳になったバディに真実を告げ、アンや下の妹弟に決して知らせないよう約束させた。

冬のシーズンが終わって一行が北へ戻ると、バディはニューヨークのセントラル・パーク・ウエストと81番ストリートの交差点にあるベレスフォード・アパートメントで母とポール、サンドラと共に暮らし始めた。

ランスキーがそこへ訪ねてくることも時々あり、それまでよりも幾分か友好的な態度で元妻に接していることにバディは気づいた。

離婚はある意味で二人の間にあった毒気を解放したにも見えた。

しかしランスキーがこの家を訪ねてくるときはパークを横切ってきただけであることを、バディだけが知っていた。

プラザの横、セントラル・パーク・サウスの40番のアパートメント14Cにランスキーは新妻と住んでいるのだった。

秋になり木々の葉が落ちると、斜めの五番街の方角を望めばアパートメントがこちらから見られるくらいだった。

欺瞞はマイヤー・ランスキーの人生の中心にあり、彼の長男もまたすんなりとそれを受け継いだ。

バディは記憶がある限りずっと、何が起きているのかを知らずに過ごすことが普通だと思って育っていた。

あらゆる真実は語られないだけでなく、意図的に隠されているものだと。

隠す側になった彼は母や妹、弟から父親の再婚の事実を隠し通した。

それが間違っているなどと思ったことはなく、父がそう望むのだからそれでよかった。

20歳が近づきバディは大人になろうとしていた。

だが一人で歩み出すことは困難だった。

バディの最初の仕事を見つけてきたのはランスキーだった。

デーモン・ラニアンのマンハッタンのど真ん中、ブロードウェイのハリウッド・チケット・エージェンシーでの仕事。

コーヒー喫茶で人とおしゃべりするのが父同様に大好きだったバディは近くのリゲッツやザ・ステージ、シックス・アベニュー・デリなどの常連だった。

たいてい友人に支えられながらよろめきつつ入店すると、すぐさま席に案内され注文を取りに従業員が来た。

何よりも彼の自尊心を満たしたのが名前を呼ばれて迎えられることだった。

この陽気な障害者の父親が誰なのかを知らない者はいなかった。

バディはまた、1940年代のワイズガイたちのお気に入りであるディンティ・ムーアで過ごすことも多かった。

ある日ムーアがバディの目の前で何気なく入れ歯を取り出し、洗い始めたときにバディは自分が一員として認められたと知った。

バディが初めて女性と関係を持ったのはムーアのバーマンが取り次いでくれてのことだった。

相手は99番ストリートに大きな犬と一緒に住むプエルトリコ出身の娼婦で、そこから娼婦との関係がバディの交友関係の中で大きな比重を占めていくことになった。

バーマンやウエイターがそこそこの金額で約束を取り付けてくれたり、コロニアル・インのショーに出る演者をスカウトしてくるウィリアム・モリスのエージェント、ジョージ・ウッドもセントラル・パーク・サウスの自分のアパートメントの鍵をバディに貸し、そこへ女性たちを連れ込むことを許容した。

バディは自分のこうした行動は父親から隠した。

女性を金で買うのはそうする以外ないからだと考えていたが、恥じることもなかった。

周りには障害もないのに同じことをしている人も大勢いた。

バディの身体障害を改善する最後の試みとして、父はイースト・リバー沿いのFDRドライブにあるベルビュー病院でのリハビリセラピーへと通わせた。

そこは理学療法リハビリのパイオニアだったハワード・ラスク医師が設立し、全国的に有名な病院だった。

ラスクは1943年に飛行機事故にあい、重い後遺症の残った歌手のジェーン・フローマンを治療した実績があり、ベルビューのクリニックには彼女が何年かのセラピーの末に復活を果たし、手放した松葉杖が飾られていた。

バディの母、アンもベルビューへ同行することが多かった。

長い時間座ったままで運動する息子を見守る姿は、20年前にボストンのカラザース医師に手足を伸ばされている赤子の息子を見守る姿と同じだった。

ヴィンセント・マーキュリオは訓練中の若い学生で、週に何回かボランティアとしてベルビューのラスク医師のクリニックで働いていた。

ある午後ヴィンセントがバディの歩行訓練を手伝った際、二人は仲良くなった。

ヴィンセント・マーキュリオはバディの相棒となり、ランスキーが買い与えたバディの車、ツードアのシボレーで彼をベルビューへ送ってやったりした。

夏になると二人の若者は毎週のように、隔週土曜日にホームでプレーしていたヤンキースやジャイアンツの試合を見に行った。

ランスキーが一緒に来ることもあり、ヴィニー・マーキュリオは何回かゲームが進むとランスキーが特定の選手の更新された打率を算出するためのパーセンテージを頭の中ではじき出せることに驚嘆した。

ランスキーはスポーツ観戦よりも参加するのが好きだった。

フロリダやサラトガではゴルフを、ニューヨークでは7番街とブロードウェイの間、57番ストリートのジョージ・ブラウンのジムに通って体型を維持してい。

そこへポールを連れていきハンドボールをすることもあった。

雨の冬の午後などは、もう少しおとなしくトランス・ラックスのニュースリール劇場を観賞していたとマーキュリオは思い出す。

バディの友人はランスキー家に家族のように迎え入れられ、よく家で食事を共にした。

ヴィニーはブルックリンのオーシャン・パークウェイでランスキーおばあちゃんとエスター叔母さんと食べるご飯が好きだった。

だけれどもシトロン家の方が楽しく、温かくエキセントリックな人柄のシトロンおばあちゃんはヴィニーにイディッシュであれこれ話しかけた。

ヴィニーはよくこう言った。
「僕はユダヤ人じゃないよ。イタリア人だ。」

彼女の反応は「黙ってお食べ」だった。

ランスキーとの外食はもう少し教育的だった。

彼はメニューを取り上げ、「代わりに注文するのが好きだった」とマーキュリオは思い出す。

「そして、『これはうまいぞ』とか、『これを食べてみろ』だとか、『それはダメだ。太るぞ。』などと言うのが好きだった。」

バディとヴィニーはランスキーと外食へ行くのが好きだった。

毎回いいお店へ連れて行ってもらえたし、ランスキーが会計をしてくれた。

ランスキーは5,6人のテーブルを取り仕切ることが多く、そうした姿を見ていたヴィンセント・マーキュリオは友人の父が何かしらの業界で権威のある人間なのだと悟った。

マーキュリオは思い出す。
「王様みたいだった。彼が話し、周りが耳を傾ける。それを僕は見ていた。」

ヴィンセント・マーキュリオは時として、別世界に入ったような気分になった。

ローワー・イースト・サイドのリトル・イタリー、マルベリー・ストリートで慎ましく育った彼も、ベレスフォードがニューヨーク屈指の高級アパートメントであることを知っていたからだ。

ランスキーがディナーの会計をする時、支払う金額は100ドルを下らないとヴィンセントは見ていた。

それはヴィニーにとって余裕のある月の一ヶ月分の生活費に相当した。

それでいて、コントロールと自制が感じられた。

ランスキーは息子のイタリア人の友人にちょっとした説教を垂れることもあった。

なぜ、キャデラックに乗ることだってできるのにオールズモビルに乗るのか。

ウィニーはこう言われたことをはっきりと覚えている。

「ウィニー、自分の富を宣伝してはいけない」

ヴィンセント・マーキュリオはマイヤー・ランスキーが服装に特に気を使っていることに気づいた。

「彼はいいスーツを着ていたが、見た目に分からなかった。

いい靴を履いたり、上等なコートを着たりしていても、あそこの店で買ったんだな、とわかるようなものはなかった。

普通のビジネスマンのような格好をしていた。」

平均的な、というには少し成功しているビジネスマン。

それがヴィニー・マーキュリオが考えていた友人の父の正体だった。

ランスキーの友人や関係者達も彼のように口数少なく、スマートな出で立ちだった。

アロ氏を見かけることが多かった。

目立たなかったが、どこか見くびれない感じがした。

ある晩バディはヴィニーに、上品でエレガントな紳士を紹介した。

低く、しゃがれたような変わった声で話す人だった。銀行員のような服装で、バディはフランクおじさんと呼んでいた。

バディもその人物たちが何をしている人なのか、どこから金がやってくるのかをよく分かっていない様子だった。

何かギャンブルと関係があるようだったが、そうであればやたらと質問をしないのが通例だとヴィンセント・マーキュリオは理解していた。

ジュークボックス長者のマイヤー・ランスキーはニューヨークのウエスト43番ストリートに本社を構えていた。

初めてバディがオフィスを訪れたとき、父の名前がドアに表示されているのに感動した。

電話に出たり、手紙をタイピングする秘書がおり、奥の部屋にはジュークボックス―ボルティモアのフェルプス医師のクリニックでジュリー・フィンクが設置してくれたのと同じようなガラスとベークライトの美しい機械たちが並んでいた。

ランスキーの他の事業と同じように、ジュークボックス販売も社会的な善し悪しの境界線の上に不安定に存在していた。

エンビー配送会社はきちんと設立された法人で、アメリカの四大ジュークボックスの一つであるウーリッツァーのニューヨーク及び東海岸各所における独占ライセンスを持っていた。

マイヤーランスキー

自動車エージェンシーと同じだよ。悪いことじゃない

エンビー(Emby)のMはマイヤーのM。

EとBYはそれぞれエドワード・スミスとビル・バイ。
いずれも元ウーリッツァーのエージェントで今はそれぞれに独立しているパートナー達の名前の文字だった。

パートナーシップの合法性はモーゼス・ポラコフが引き受けていた。

エンビーは1946年に一台1080ドルでウーリッツァーを販売していた。

相手はジュークボックス「ルート」のオペレーター、すなわち機械を管轄している地域のバーやクラブに設置する者たちだった。

ルート・オペレーターは担当地域の中で数百台に上るジュークボックスをコントロールし、週ごとの売り上げの50%から70%を受け取る代わりにレコードと修理サービスとを各マシンに提供した。

1940年代のニューヨークでは、一台につきいい週なら15ドルほどをオペレーターが受け取ることができた。

ウーリッツァー販売に加え、エンビー配送会社は業界の運営側にも関わっていた。

売り上げの悪いルートを買い、新しい販路で増強させたりした。

マイヤーランスキー

ルートを買って、少し肉付けしてまた売るということをしていた

生き馬の目を抜くニューヨークで利益率の高いルートをバー一軒ずつ、クラブ一軒ずつ「増強」させるテクニックこそが、ジュークボックスビジネスを手堅い戦略と違法性の間のグレーゾーンに引きずり込んだものだった。

ジュークボックス事業者団体の代表だったアルバート・デンバーはこんなことを訴えた。

1940年代半ば、マイヤー・ランスキーのエンビー会社はデンバーや同業のルート・オペレーターを脅し、アウトレットの数よりも多いジュークボックスを買うように強要し、そのうえ競合他社のジュークボックスをウーリッツァーのものに入れ替えるよう要求した。

デンバーたちがこれらの要求を拒否すると、デンバーによれば、エンビー配送は3か月のうちに250もの管轄地域から彼と同業オペレーター達を締め出したという。

デンバーのこうした苦情は人気商品に対するエンビーの独占権に向けられたものだった。

戦後のウーリッツァー1015はジュークボックス業界のスタンダードとなっていた。

ネオンチューブをあしらい、ジュークボックスと言えばこれ、という感じのデザインは現在もアイコンとして再現され続けている。

この頃のジュークボックス生産ランの平均は10,000程だったが、1946年と1947年、ウーリッツァーは年間で1015を56,246台出荷した。

またエンビー配送はバーオーナーたちに新しい1015を支払いやすい分割払いで購入できるようにし、仲介人を飛ばして各マシンの利益を直接エンビーに入るようなシステムを構築した。

こうした中で仲介人―ルート・オペレーターたちの事業団体が声を上げるのは当然のことだった。

だがエンビーのウーリッツァーの各マシンには、いかにもオフィシャルな雰囲気のシールが貼られており、そこにはレコードを補充するサービスマンが労働組合員であると書かれていた。

1958年12月、エンビーのルートで1940年代に働いていたサービスマンのハロルド・モリスは上院委員会の前で証言した。

エンビーで働いていた期間に労働組合に属していたことはなく、彼の知る限りは周りのサービスマンにも属していた者はいなかった。

「組合承認」のシールは詐欺であった。

上院委員会はまた、ジュークボックスのオペレーターが新たな販路を求めて勝手に「組合」を形成し、高官まで指名して「組合承認」のシールを偽造するというのが常套手段であることを知った。

強面の「組合員」が、自分たちのマシンを買おうとしないバーの外で座り込みを行っていたことも。

金とテリトリーを取り合うジュークボックス産業は後ろ暗く暴力的な領域だったのだ。

東海岸のジュークボックス帝国同士は境界線をめぐって脅迫や殺人に至る諍いを起こし、それぞれのトップにはブルックリンにルートを持つジョー・アドニス、ロンギー・ツイルマンと提携をしていたニュー・ジャージーのジェリー・カテナ、そしてラッキー・ルチアーノの子供時代の友人のマイク・ラスカリなどが降臨していた。

エンビー配送のマイヤー・ランスキーは立派なビジネスマンの自負を持っていた。

彼自身のお気に入りの写真の中でランスキーはエンビーのオフィスで気をつけをした姿勢で、裕福そうな出で立ちでポーズしている。警察のファイルに残る写真とは似ても似つかぬ洗練された善意を発しており、彼はその写真を引き延ばした白黒プリントを自分の子供たちに贈ったほどだ。

子供たちのイメージする父がこうであってほしという願いの表れであろう。

その写真は、テレビ番組で「マイヤー・ランスキーが堅気だったら、ゼネラル・モーターズの会長だって夢ではなかった」というようなテロップと共に今でも表示されることがある。

しかし1940年代の東海岸でジュークボックス・ルートを確保するというのは立派なビジネスマンの業務内容ではなかった。

ランスキーも自分の名についた箔がなければ生き延びることもできなかっただろう。

ウーリッツァーがEmbyのM が何の頭文字なのかを知ると、上層部の人間がランスキーに事業を手放してくれないかとお願いしてきた。

彼らはランスキーを信頼しているのだが銀行はそうもいかない、とやんわり前置きして。

マイヤーランスキー

彼らにとって私はリスクだと言われた

ウーリッツァーも銀行もマイヤーを追い出したことについて詳細な理由を記録しなかったが、ランスキーもそれを要求しなかったことにも意味があった。

倫理的にも実践的にも、暴力の脅威は暴力そのものと同意であり、マイヤーの事業は最終的にはそこに帰結した。

人々は背後に何か暗く冷たい怖ろしいものを感じ、それこそがマニューヨークでジュークボックスのルートを構築するにせよ、ラス・ベガスでカジノに出資するにせよ、ランスキーが物事を有利に進められてきたカギであった。

ジュークボックス事業の扉が閉ざされ、ランスキーは更にポテンシャルを秘めたアミューズメント・マシンへ目を向けた。

コンソリデート・テレビジョンはエンビーのジュークボックスを置いていたバーやクラブにテレビを売る会社だった。

エド・スミスとビル・バイが再びパートナーとなり、ジョー・アドニスとフランク・コステロも参加した。

ランスキーはコンソリデートの約150,000ドルの運転資本のうち、10%を出した。

それは賢く、見通しの明るい事業に思えた。

エンビーのネットワークを最新のエンタメトレンドに生かし、これからはどのバーもクラブもテレビを必要とするはずだった。

当時多くの製造社が作っていた家庭用のベニヤ家具のようなテレビではなく、カウンターや棚に設置する大スクリーンのテレビを製造しするのがコンソリデートの計画だった。

同社の17インチのモニターはテレキングと名づけられた。

だが実用的な問題があった。

ジュークボックスと違ってテレビは現金収入を生まない。

一度きりの売り上げだった。

バーやクラブに設置されているテレビが自動販売機業者によって供給されていないのは、サービスや硬貨の回収が必要ないからである。

バーオーナーはテレビを購入し、壁にかけて、その後は忘れる。

ところがコンソリデートのテレキングを忘れることはできなかった。

頻繁に故障を起こしたからだ。

ベレスフォードのランスキー家にも父の売るテレビが一台、設置されており、バディはそれによく癇癪を起こしていた。

「いつも不具合を起こしていた。僕は野球が好きで、ニューヨークでは昼も夜もテレビで野球をやっていた。父によく『このテレビを直して!』と叫んでいた。なぜ壊れるのか、父は分からなかった。」

コンソリデートのエンジニアはベレスフォードに常駐するような状態だった。

そしてエンビーのルート沿いのバーやク
ラブ各所でも同じだった。

どこでも同じ問題が起きていた。

テレキングは品質が悪かったのだ。

ランスキーとパートナーたちが契約した二人のエンジニアはRCAよりもいいテレビを安く作るショートカットを発見したと当初は言っていたが、ショートカットの常として、最後には高くついた。

コンソリデートの会計、ジョージ・ゴールドスタインは言う。「その二人の男は、約束を守らなかった」

呆れたバーやクラブは次々とテレキングをコンソリデートへと返品し、二年と持たず事業は廃業となった。

スミス、バイ、ランスキー、アドニス、コステロのメンバーは投資した金を1ドル残らず失った。

1940年代後半、テレビに出資して富を築いた投資家は多かったが、正しい選択をするには事前調査や応用、忍耐力が必要だった。

ただチャンスに飛びつき、計算ができるだけではダメだった。

「組合承認」シールや、いかつい肩をした組合員や買収された保安官でも足りなかった。

商品が悪ければそれをごまかせる裏技はない。

マイヤー・ランスキーと暗黒街のトップたちによるテレビ事業の失敗は、フィールドが平等な場合の彼らのビジネス力を示す結果であるとも言われている。

イタリア旅行

イタリアに向かうランスキー

1949年の夏、マイヤー・ランスキーは新妻を連れて遅い新婚旅行へ出発した。

ヨーロッパを訪れたことのなかったランスキーは一流の旅を計画していた。

トーマス・クックを通じてナポリ行きのホーム・ラインズの客船「イタリア」のスイートを予約し、そこからイタリアとヨーロッパを旅行してブリュッセルから船で帰るというプランだった。

「イタリア」は1949年6月28年にニューヨークを出航する予定だった。

麻薬取締局はニューヨークへ出入りする客船の乗客リストに目を光らせていた。

善良に見える市民たちのスーツケースに潜んでアメリカに麻薬が流入してくることが非常に多かったからだ。

それはラッキー・ルチアーノの指示で動いている密輸人たちのルートであり、ルチアーノの関係者としてランスキーは国際容疑者リストに名前が載っていた。

ランスキーは169番だった。

169番がチャーリー・ルチアーノの拠点であるナポリに行こうとしていることは麻薬取締局の目に非常に怪しく映った。

取締局が把握している限りでは、イタリアへ強制送還されたルチアーノの主たる事業はアメリカへの麻薬密輸だったからだ。

二年前の1947年2月、麻薬取締局はラッキー・ルチアーノをキューバで発見した。

イタリアに送還されて一年も経たないうちにルチアーノはひそかにハバナに移動し、都市の西の方のメンダレズ川を渡ったミラマーにアパートメントを借りていたのだ。

取締局の派手好きな所長ハリー・アンスリンガーはルチアーノがキューバをアメリカへの麻薬輸出の拠点にしようとしていると合点し、ハバナにルチアーノがいると聞きつけた数日後にはアメリカからの合法的な医療麻薬の輸入を止めると脅した。

キューバ政府はすぐにルチアーノを逮捕し、1947年3月に大西洋を渡る貨物船でイタリアに送り返した。

その後ルチアーノが大西洋を横断することはなかった。

過去に有罪判決を受けた、コネクションだらけの麻薬ディーラーがアメリカに近づいていればそれを疑うのがアンスリンガーの仕事だったのだ。

だが取締役所長はルチアーノの意図をほぼ確実に読み違えていいた。

ルチアーノはハバナのギャンブルに手を出そうとしていた。

それは彼にとっていい収入源になったであろうし、シーズン中にキューバへ来ている友人たちと旧交を温めるいい機会でもあった。

またルチアーノがランスキーとカジノのパートナーシップを結んだことも知らなかった。

ランスキーもまた、戦前のようにキューバでゲーミング事業を再びうまく行かせようとしていた。

キューバ警察はルチアーノのミラマーの居宅からオペレーター経由でかけられた電話履歴を入手し、その情報をFBIへ送った。

コロニアル・インへの電話が何度かかけられており、そのうち一度は「ランスキー氏」と通話を試みていた。

ハリー・アンスリンガーの麻薬取締局はアメリカ合衆国財務省の管轄であり、マフィアという名のイタリア系アメリカ人集団が存在し、組織的・全国的に違法行為を行っているという意識を持ち浸透させた最初の法執行機関だ。

そのルーツはシチリアへと辿ることができた。

司法省の管轄であるFBIのJ・エドガー・フーバーは異なる。

フーバーはゆすり屋やギャングスターはアメリカの地域に根差しているものと考え、そのため連邦指令とは関係なく州や都市単位で対応すべきだと考えた。

だが地球半周ほども離れたところまで麻薬の供給ルートが伸びていることを突き止めた取締局は必然的に国を跨いだコネクションも見つけるのだった。

しかも、アンスリンガーが就任してから麻薬の使用率は上がっていた。

彼は犯罪を統合された世界的なものと捉えるようになり、ランスキーのナポリへの旅はその裏付けとなるように思えた。

1949年6月27日、麻薬エージェントのジョン・H・ハンリーとクロフトン・J・ヘイズはマイヤーがイタリアへ行く理由を聞き出すべく接触するよう指示された。

ランスキーの写真とプラザ3‐8176の電話番号を頼りに、ハンリーとヘイズはある月曜日の午後に電話をかけた。

メイドが応対し、ランスキーは出かけたところだと告げた。

エージェントたちはセントラル・パーク・サウス40番あたりをうろつき、7時間にも渡って張り込んだが、接触に成功しなかった。

翌朝8時半に再び電話をかけると今度は本人が電話に出た。

そればかりかランスキーは躊躇なく二人を呼び寄せ、3分後にはエージェントたちはホシとアパートメント14Cの室内で話をしていた。

ランスキーはハンリーとヘイズに妻とのヨーロッパ旅行があくまで行楽目的であることを説明し、イタリア滞在中にチャーリー・ルチアーノには会うであろうことも告げた。

ルチアーノは古い友人だったし、ランスキーは何年も前から親しくしていた。

それでも現在はルチアーノと仕事上の接点があることを否定し、友人が麻薬を扱っているのではないかという意見に強く異議を唱えた。

「チャーリーは捕まる前の金がまだ少し残っている。」
ランスキーはそのようにルチアーノの現在の経済状況を説明した。

ランスキーはまた、禁酒法時代にルチアーノと彼が酒の密売に携わっていたことを認め、そのうえで「禁酒法とともに始め、撤廃とともに終わった」ことだと主張した。

エージェントたちに現在の生業を問われランスキーは答えた。

マイヤーランスキー

よくいるギャンブラーだ。
誰かを騙したり脅したりはしていない。こんな出会い方じゃなかったら、君には自分のことをレストラン経営者と自己紹介していただろう。
親しくなったら、よくいるギャンブラーだと打ち明けたと思う。
偽りの旗で航海することはしない。

捜査官二人に話していると思えないほどランスキーはオープンだった。

収入の大半はフロリダのギャンブル事業で得ていること、ボエムとグリーンエイカーという二つのギャンブル屋を経営陣の一人であることを話した。

どちらも経営者は弟のジェイクだった。

ニューヨークでは大きな仕事はしておらず、最近、コンソリデート・テレビジョンに投資したが、これは「良い投資ではなかった」とランスキーは話したという。

1947年2月にハバナからハランデールへかけられた電話の内容を問われると、ランスキーはそれがチェスター・シムズとコニー・イマーマンによってかけられたものだろうと推測した。

その二人は1930年代終盤にマリアナオのナショナル・カジノの手伝いに雇った人間で、二人はランスキーがキューバを去った後もカジノを引き継いだ人間の元で働き続けることを選んでいた。

時々ランスキーに電話をかけ、客のクレジットに関する情報を共有した。

ランスキーは、その通話のどこかの時点でルチアーノが替わって挨拶くらいはしたかもしれないが、その記憶は曖昧だと話した。

ルチアーノとの長く古い関係を考えれば、これはあまり説得力のある話ではなかった。

それにランスキーはやたらと家族の話をしたがった。

息子のポールは、とランスキーはいくらか誇らしげにエージェントたちに言った。

ホーレス・マンを卒業し、ウエスト・ポイントに進学しようとしているのだ。

障害者の息子バディは、現在は名医ラスク医師のもとでベルビュー病院で療養をしていた。

医師はリハビリの本も執筆している。マイヤーは医師のサイン入りの本をエージェントたちに見せた。

結論としてランスキーは「麻薬の売買に携わったことは一度もない」と強く主張し…自分の前でそういったことについて話されるのも忌み嫌っている話した。

二人のエージェントは別れの挨拶をし、ランスキーとテディは午後に無事イタリア号に乗船した。

その日の朝8時半に最初に電話をかけたハンリーは、船ではなく家でインタビューをしたほうが「メディアに注目されなくていい」のではないかと提案していた。

ところがエージェントたちは約束を守らなかった。

船のランスキーの部屋の前ではニューヨーク・サン紙の記者とカメラマンが待ち構えていた。

「新聞に載るのは嫌よ!」カメラマンを見たテディは鋭く叫んだ。

フラッシュが焚かれるとランスキーは顔をしかめた。

「写真はやめてくれないか。これは観光旅行だ。」

そう言ってからランスキーは記者の質問に答えた。

「5週間くらいの予定だ。いや、イタリアに親戚はいない。」

向こうでラッキー・ルチアーノと接触する予定は?

その質問に対して、と翌日のニューヨーク・サンは報じた。

ランスキー夫妻は部屋のドアを乱暴に閉め、鍵をかけた。

その記事は一面に載った。

驚いた表情のランスキーの写真の上の見出しは
「ランスキー、豪華スイートでイタリアへ。」だった。

「ルチアーノと接触か。暗黒街の要人と妻、片道2600ドルの豪華スイートに宿泊。」

サン紙の記者は手柄を立てた。

ランスキー夫妻が到着する前に彼はイタリア号のリーガル・スイートを覗いており、それが船で最も高級なスイートであると報じていた。

それは船長室の真下、船の前方プロムナード・デッキの先の5室のうちの一室だった。

同紙によれば、ランスキー夫妻はバチカン天文台長ウォルター・J・ミラー牧師やハーバードのアートキュレータージョン・クーリッジ(故大統領の息子)らよりも贅沢な待遇で旅をするようだった。

クーリッジとその妻子は「質素なキャビンクラス」だった。

その理由は何であれ―テディへの愛を示すためだったのかもしれないし、新しい妻の派手好き、主張好きな部分を反映してのことかもしれない。

ランスキーはヴィニー・マーキュリオに自ら語ったルールを破っていたとも言える。
「自分の富を宣伝してはいけない。」

出発の前にマイク・ラスカリ夫妻に訪問を受けたランスキー夫妻はシャンパンや蘭に囲まれて出航した。

それは権力も財力もある暗黒街の中心人物としてのランスキーのイメージにふさわしいものだった。

1949年6月まではマイヤー・ランスキーの名前は時々ゆすり屋やギャングスターにを扱う記事に載るくらいであり、彼の名を良く知るのはニューヨークのゆすり調査員や犯罪専門記者の人間たちだけだった。

関係者として登場することが多く、ルチアーノやバグジー・シーゲルら暗黒街のスターの相棒のような位置づけだった。

ところがニューヨーク・サンの一面に写真が載ったことでマイヤー・ランスキーは暗黒街のスターとして扱われるようになりはじめた。

サン紙の記者、マルコム・ジョンソンはそれらの記事の内容からマイヤーの軌跡を記した。

「1938年に、故警視総監バレンタインはマイヤー・ランスキーを『公共の敵』とし、ある捜査官の報告書によれば『彼ら(地下シンジケート)の中で最も知恵が働く』と評されている。」

その後も記事はランスキーとバグジー・シーゲルの関係について触れており、バグジー&マイヤーズギャングのことや、1949年6月時点で港湾部の強圧にからむ殺人罪でシンシンで死刑を待っていた身のジョニー・“コックアイ”・ダンとの関連も書かれていた。

ダンは殺人の少し前、フロリダにあるマイヤーのハランデール事業で目撃されていた。

マイヤー・ランスキーのコックアイ・ダンとの関係は深いものではなかった。

B‐3に頼まれた戦時中に情報収集に協力してもらったことと、ホテル・フォーティーンでイスラエル人エージェントに代わってアラブの武器輸出について相談したこともあったかもしれないくらいで、ダンの残酷な殺人活動に関わる理由も、そうしていたという根拠もなかった。

ただランスキーは港湾部におけるダンの力の根拠を知らないほど無知ではなかった。

コックアイはより粗暴な仲間の一人だった。

ランスキーはその脅威を躊躇なく利用し、自分に都合のいいように使い分けた。

よってニューヨーク・サンがイタリア号の蘭やシャンパンの話の続きに記した不穏なランスキーの人間関係について、文句を言える立場にはなかった。

「ダンは7月7日に電気椅子で処刑される予定である。」
サン紙の文末にはこうあった。

「彼が椅子に連行されても、ランスキーは何の影響を受けることもなく、イタリアでホリデーを楽しんでいることだろう。」

サン紙はベレスフォードの自宅で購読していた新聞だった。

1949年6月28日の夕方にバディ・ランスキーが帰宅すると、新聞は玄関の外に配達されていた。

一面に載った父の写真が目に入り、記事を読み始めると、これまでのことが腑に落ちる思いがした。

「それで父を嫌いになるようなことはなかった。」とバディは振り返る。

それよりも全てのピースがはまるような感覚だった。

「その時は、『他の人たちと一緒に名前が出ているだけいいか』と思っていた。」とも語った。

19歳半にしてバディ・ランスキーはベンおじさんやフランクおじさん、アドニスさんやその他の人間たちの正体を悟ったのだ。

そしてバディは、父がそういった人たちと一緒に記事に書かれていることの意味を考え始めた矢先に、記事にはギャングスターとしてのマイヤー・ランスキーの正体が書かれていると同時に、既婚者であることも明らかにされていることに気づいた。

バディの母、アンは家の中で彼の帰りを待っていた。

元夫が別の女性とめぐりあったことはおろか、今まさにこの瞬間、花のあふれるリーガル・スイートの中で彼女と蘭とシャンパンとともに大西洋を渡っていることも知らずに。

家の中に入りながらバディは、母がその日のサン紙の夕刊を見ることのないよう、細心の注意を払った。

ランスキーはジムやハンドボールのおかげか、常に引き締まった体型を誇っていた。

だが新妻のテディはそれが見掛け倒しであることをほどなくして知った。

結婚して間もないころランスキーは左腕の痛みを訴えた。

医者はそれを髄液包炎と診断し、ついでに全身を診ているうちに背中に硬いしこり―腫瘍を発見した。外科手術によって髄液包炎嚢と腫瘍の両方が取り除かれ、腫瘍は寮生であることが分かった。

だがそのあとまたすぐランスキーは腹部の激痛を患った。

今度は十二指腸潰瘍だった。

ランスキーは最善の治療を望み、かかりつけの医者はそれを探し出した。

ハーバード医学大学院のシーモア・J・グレイ医師はボストンのピーター・ベント・ブリグハム病院で診察をしており、彼の専門は胃腸疾患だった。

ランスキーが診察室へ入った時、グレイ医師は診断書以外の情報を何も持っていなかった。

手始めにグレイ医師は職業を尋ねた。

ランスキーは『まぁ、ギャンブラーといったところかな』と答えた。

それから少し後ろに身を反らして、「ドクター、ギャンブルはしちゃいけない。必ず負ける」と言った。

ランスキーを診て十二指腸潰瘍の診断を確定させると、シーモア・グレイは新しい患者にいくつかのアドバイスを授けた。

ランスキーはもっと淡白で香辛料の控えめな食事をする必要があり、デリやレストランの食べ物を控えなければならなかった。

そして移動しながらの小分けの朝食も駄目。

また心理学的にも改善が必要だと加えた。

シーモア・グレイはストレスが体に及ぼす化学的な影響について研究しており、ランスキーの病気もストレスに起因するものだと説明した。

ランスキーはグレイ医師のアドバイスにいたく感銘を受けた。

その後もボストンのハーバード教授のもとを訪れ、ヘルニアや変形性関節症、気管支炎やさまざまな心臓病に至るまであらゆる疾患についてのアドバイスを仰いだほどだ。

グレイはそれぞれの病気の専門家へランスキーを紹介してくれた。

その間も潰瘍の治療は自身で続けていたが、なかなか改善が見られなかった。

グレイが行きついたのは、ランスキーの精神のあり方が完治を妨げているという考えだった。

「潰瘍持ちの人たちは何でも抑え込む。」とグレイ医師は説明する。

「それが問題なんだ。潰瘍持ちの人たちはもっと表に出さないといけない。『叫びたい気分なら、叫べ!』我慢してはいけない。彼は我慢するたちだった。」

多くの人は医師の診察の前にきれいな下着に着替える。

ランスキーの下着は、グレイ医師が気づいたところによれば、特別にきれいだった。

洗いたて、アイロンしたて、シミ一つなかった。

「たくさんの患者を見てきたが、マイヤー・ランスキーほどの潔癖な人間はいなかった。」

グレイ医師はこの患者の疾患の原因が、神経質でコントロール・フリークなこの一面なのだと結論付けた。

「彼は言語化が得意ではなかった。

それは彼の容姿とも大きく関わっていた。

背が低く、移民であり、そのせいで社会的な地位が低いという自覚があった。…
かれは非常に頭脳明晰だった。

イースト・サイドのユダヤ人では高い地位につくことができないと知った彼は自分がボストン・ブラーミンではないということをひしひしと自覚していた。」

ランスキーは若かりし頃のローワー・イースト・サイドの武勇伝をグレイ医師にたびたび話したという。

マイヤーランスキー

小柄だから、やり返さないといけなかった。喧嘩は強かった。小さいからと吹っ掛けられることが多かったが、私は拳の使い方を分かっていたからな

ランスキーは医師にこうした話を誇らしげに語った。

取締役

1947年12月、フロリダ・ハリウッドの市委員会は公開会議を終えるところだった。

その日の議題の中には次の冬のシーズンに関する行政上の扱いなどが含まれていた。

解散しようとするタイミングで、地元弁護士のウィリアム・J・フラックスが意を決したように立ち上がった。

「市長殿、ギャンブルについてはどうするおつもりですか?」

その場にいた人間は一斉に彼に注目した。

フラックスはこう続けた。

「皆さんは現状をご存知ですよね。警察長が買収されていることも。あらゆる酒場、ビリヤード・ルーム、そしてナイト・スポットがギャンブルを公然とやっている。もう容認し続けるわけにはいかない。そうしたことを阻止するために動かなければならない。」

静粛とは言えない、騒がしい集会だったが、フラックスの発言でその場は水を打ったように静まり返った。

ハリウッド市長のロバート・L・ヘイメーカ―が小声で緊張気味に市の法務官と話すのが聞こえてきた。

「市民はそれぞれに行動を起こすべきである。」

ようやく口を開いた市長はこのように言った。

「ギャンブルに異議を唱えるのであれば、警察署で宣誓して逮捕状を出させたらどうだろうか。ここは立法の場であって、法執行機関ではない。」

ウィリアム・フラックスはこの手の説明を聞き飽いていた。

ブロワード群保安官であるウォルター・クラークの返事もいつも同じようなものだった。

もはやギャンブルについて問われた南フロリダの公務員の殆どが似たような返答をするのだった。

「法執行は民間の人間たちの義務ではないでしょう。」フラックは食い下がった。

「法が守られていないことを見過ごしている役人がその順守を徹底させるべきです。」

市長は黙るほかなかった。

助け舟を出したのは五名の委員会委員の一人、レスター・ボグズだった。

「警察官に丸投げをするのはよしましょう。」

ボグズが助け舟を出したのは、市長にではなく、声を上げた図厚かましい弁護士の方にだった。

ボグズは続けた。

「14年間委員をやってきたが、ギャンブルを取り締まるべきだと声を上げた勇気ある人は初めてだ。
我々の代で終わりにさせる動きを始めようということだね。
その動きは私が始めよう。」

そうしてボグズは市の警察長、フィリップ・A・トムプソンの方を向いた。

「市内の対象となる場所をすべて閉鎖させるということです。」とはっきりと言った。

「ホテル、店屋、ナイトスポット、全てです。例外は作りません。
徹底しなければ責任を追及されます。
いかなる贔屓も許されません。」

市長はまだ動揺していた。

「宝くじも、と言うのか?」

ボグズ委員は言い切った。

「違法な行為全てです。ホテルのポーカー・ゲームも。」

ボグズ委員による、ハリウッド市のギャンブル事業を全て閉鎖させるべきだるという提言はラルフ・C・トムプソン委員の支持を受け、投票をすることとなった。

まだ静まり返る会議室の中で、反対を唱える者はなかった。

1947年12月、ハリウッド市委員会議で起きたのは稀な出来事だった。

まずレスター・ボグズ委員はそれまでハリウッド地域で積極的にギャンブルをむしろ推進していた側の人間であった。

あるハリウッド住民によると、
「ボグズが一枚噛んでいない馬券屋は町に一軒もなかった。」そうだ。

ボグズは町の腐敗槽産業を独占しており、そのため下水システムが町には存在しなかった。

だが彼は機転の利く政治家だった。

あの日フラックの執拗な追及に何かを感じたのか、瞬時に彼を支持する方に回ることを決断した。

お隣のハランデールでも似たようなことが起きていた。

1948年の2月12日、州検事補佐ドワイト・C・ロジャースがコロニアル・インでのギャンブルを迷惑行為とし差し止め命令を求めていた。

ロジャースはフォート・ローダーデールの影響力ある住人10名に証言してもらう手筈を整えており、差し止め命令は発行された。

その晩コロニアル・インが営業を始めると、食事やダンスはあったが、カジノは提供されなかった。

「どうして僕の時にこうなるんだ。」その日のショーの目玉だったジョー・E・ルイスは閉じたままのギャンブル・ルームの扉を示しながら言った。

当時「マイアミ・ニュース」の記者だったフィリップ・ワイドリングは、数日後クロード・リッテロールやランスキーに案内されてコロニアル・インの無人のゲーミング・ルームに入った時のことを覚えている。

彼らは地元の記者たちに残った食べ物や酒をふるまうため招待したのだった。

ゲーミングテーブルが生み出す利益がなければ営業を続ける意味もなく、まもなく閉鎖する予定だった。

彼らはワイドリングに、差し止め命令が誰のアイデアだったのかを教えてくれれば5000ドルを渡そうと持ち掛けた。

ワイドリングは思い出す。「愚かなことに私は断った」

ランスキーとリッテロールは地元紙のオーナー、R・H・ゴアが背後にいると疑っていた。

「私から彼に話をつけられないか、と言われた。」

ワイドリングは当時を振り返る。

「彼にも分け前があれば応じるかな?と言うので、そんなことはあり得ないと私は答えた。」

ランスキーはハランデールの自警団に勝利を味わわせてやることにした。

差し止め命令の出ていない二つのクラブ、グリーンエイカーとボエムにギャンブルを集中させることにした。

コロニアル・インはニューヨークのバーレスク興行主、ジョン・ミンスキーに売却した。

ハランデールの違法なギャンブルを嫌悪する善良な市民たちは、合法なストリップの方が本当にマシかどうか判断すればよい、とでもいうように。

1949年にはグリーンエイカーとボエムが再び営業を再開した。

今シーズンはハランデールでもハリウッドでも、市民からの苦情が出ることはなかった。

それでも予言的な警報はすでに発せられていた。

1940年代後半、それまでギャンブルが野放しとなっていたアメリカの至る所で緊張感が走っていた。

禁酒や大恐慌が明けたことで黙認されていたもの、第二次大戦の終結によって人々が浸っていた自由と喜びの中で大目に見られていた事柄も、より規律を重んじるアイゼンハワー時代に向かう中で不適切と見なされるようになっていた。

1943年夏、ニューヨーク地方検事フランク・ホーガンの元で働く調査員がフランク・コステロのニューヨーク自宅の電話を盗聴していると、驚くべきことに最高裁判所の裁判官候補者トーマス・オーレリオの声が聞こえてきた。

オーレリオは言った。
「おはよう。ご機嫌はいかが?いろいろと有難う。」

「おめでとう。完璧だった。当選確実、もう安心だ…」とコステロは応じた。

未来の裁判官は言った。
「あなたたへの忠誠を誓おう。永遠に変わることはない。」

その後大陪審によってトーマス・オーレリオの調査が行われたた結果、政治機関を通じて当選に必要な票数を確保しようとしたその他の候補者と大して変わらないことが判明した。

オーレリオはその後、ニューヨーク州最高裁判所で24年の任期を全うした。

その間彼はゆすり屋とのコネのある者には厳しく、内偵捜査の実施に積極的な考えを持っていた。

電話盗聴を承認する裁判命令も、他のニューヨークの裁判官より多くサインした。

オーレリオの一件でフランク・コステロの名は人々の知るところとなった。

翌年コステロはうっかりルイジアナのスロット事業の売上金27,200ドルをニューヨークのタクシーに置き忘れ、さらに取り返しに警察の拾得物保管所へ弁護士を送り込むという失態を演じた。

コステロのニューヨークのスロットマシン事業をつぶすことで任期をスタートさせていたフィオレロ・ラガーディアは、すぐさまその現金を「犯罪者の金」とし、違法な活動によって生じた拾得物に関するニューヨークの条例に基づいて返還を禁じた。

コステロは法廷で金の法的所有権があることを証明して見せたが、そのころには内国歳入庁が現金に対する抵当権を行使し、コステロが取り戻すことができたのは120ドルだけだった。

一連の出来事の中でコステロについて明らかになったことがいくつかあり、それらは必ずしも強要された自白ではなかった。

フランクコステロ

アーノルド・ロススタインとのつながりを認め、東海岸どころかアメリカ最大の賭け屋、フランク・エリックソンと懇意であることも認めた。

そして自らのことを「スロットの王」と形容した。

フランク・コステロは法廷に立つことをどこか楽しんでおり、弁護士を困らせた。

日焼けマシンで肌色を整え、仕立てのエレガントな服で法廷に臨むことにこだわった。

「頼むから安いスーツを着てくれ!」
弁護士のジョージ・ウルフはそう懇願したという。

1920年代から暗黒街について出所の疑わしい記事を書いてきたハーバート・アスベリー。

彼は1947年4月にはコリアーズ誌で二部編成のコラム「アメリカのナンバー1ミステリー・マン」を執筆した。

彼はコステロこう書いた。

「彼こそが暗黒街のボスである。その界隈では彼は『首相』と呼ばれている。
ゆすり事業をこれまで6つは展開し、国中のギャンブルを牛耳っている。」

アスベリーの記事を書き直したような内容をどこの記者もニュース局も流した。

1949年末にはコステロは国中の有名人だった。

1949年10月17日号のタイム誌はコステロを表紙に据え、「アメリカの伝説的な人物になりつつある」と形容した。

ニューズウィークも11月21日に後に続いた。

コステロは、市民犯罪コミッションが叩き直すべきと感じているアメリカの問題の代表となった。

タイムズ誌によれば大衆は彼のことを「巨大で謎めいた悪の暗黒街を支配し法律をせせら笑う、幽霊のように影に溶け込み、サタンのように狡猾な犯罪マスター」と認識しているとした。

だがニュース誌たちはその主張の裏付けをとっているわけではなかた。

コステロは不動産投資や酒の販売で大きな富を築いていたが、それは正しく申告され、課税されたものだった。

それらは密売屋をやっていた時代の遺産の上で成り立っていたが、禁酒法時代に生まれたその他の酒類製造業者と同じく、特に法に抵触していたわけではなかった。

直近の事業に違法性があるとすれば、スロットマシン会社やカーペット・ジョイントのパートナーシップで巨額を稼いでいるという点と―それでもいくらかは税金を払っていたが―ニューヨークの政治家たちと非常に仲が良かったという点だ。

この政治的後援は、暴力団員やギャング、友愛会など、のちに犯罪ファミリーとして知られるようになるイタリアコミュニティの中でのコステロの地位を著しく押し上げた。

それでもコステロが高利貸しや麻薬取引、売春などに関わっているという証拠は一つもなく、その手の事業にコステロが手を出す必要もなかった。

ランスキー同様、コステロはキャリアを路上犯罪でスタートさせ、若い頃には前科を重ねていた。

そしてランスキーと同じように、そこからより安全で儲かる仕事へと前進していた。

フランク・コステロが法廷でタクシー内の現金が合法的に稼がれたものだと証言したのも、「堅気の」記者たちのインタビューに応じたのも、抜け目ない犯罪マスターの表向きの顔作りだったと推察できる。

路上犯罪の出自を完全に捨て去ったと確信している男の行動だったのだ。

1949年の1月、フランク・コステロは救世軍の寄付金集めに協力した。

コパカバーナでディナーを開催し、経費のすべてをコステロが負担したところ10,000ドルもの純利益を上げた。

下院議員アーサー・クライン、ニューヨーク州最高裁判所の判事5名、別の裁判所の判事が3名、マンハッタン・ボローの区長を含む100人の著名なゲストが参席し、全員がディナーの一皿に快く100ドルを支払った。

コステロはこのイベントが自分のコミュニティ精神や人望を証明するものだと考えていた。

ところがその晩の招待客名簿と、コパカバーナを後にするゲストたちの写真が公となると、アメリカの人々はその正反対の感想を持った。

歴史は書き直された。

1920年代にロススタインがコステロに金を貸したのではなく、実は逆だった。

東海岸のギャンブル屋達とアル・カポネがアトランティック・シティで1929年に会合したのも、コステロが計画したことだった。

組織的犯罪の知識をつけたレポーターたちは、1949年代初頭に労働関係のゆすりでハリウッドの金を取り立てていたレプケ・バカルタ―を、1941年にFBIへ自白させたのはコステロだったと書き立てた。

1947年にバグジー・シーゲルの暗殺を言い渡したのが彼だったとも。

どの話も新しいバージョンが古いバージョンよりも正確であるという証拠はまったくなかった。

それでも人から人へと伝承されていくにつれて真実味と凄みを増し、政治家とのつながりの深さから地下世界で「首相」と呼ばれていたコステロはいつしか「暗黒街の首相」と呼ばれるようになっていた。

フランク・コステロは自分の評判をもう少し現実に沿ったものにしようと試みたが、ことごとく失敗した。

新しく形成された犯罪コミッションの懸念をますます刺激し、現状を変えなければならないという焦りを新たにさせた。

アメリカの暗黒街にも首相と組織があるのだとしたら、国の公式な組織がいい加減にそのことをどうにかすべきだという声が高まっていた。

1949年末、ワシントンD.Cで二人の新米上院議員が国内の犯罪をどうしたものかと頭を悩ませていた。

民主党のジョゼフ・R・マッカーシーは注目を集めることで1952年の再選を狙っていた。

1949年11月のニューズウィークで記事を執筆したハロルド・ラヴィーンによればウィスコンシン出身、41歳の議員マッカーシーはフランク・コステロと酒類業者との関係を調べていた。

彼は特別調査委員会のメンバーでもあり、新聞の一面を飾るような調査を実施するには好都合だった。

1950年の頭、マッカーシーは特別調査委員会の領域を犯罪捜査に絞ろうと試みた。

テネシーの民主党下院議員エステス・キーフォーヴァーはジョゼフ・マッカーシーに注目を奪われるつもりは毛頭なかった。

チャタヌーガ出身、長身痩躯に眼鏡がトレードマークの46歳のキーフォーヴァーは地元でアライグマの毛皮の帽子をかぶってキャンペーンにのぞんだ。。

ワシントンでも1949年に州をまたいだスロットマシンやギャンブル情報の行き来を禁ずる法案を提出し、有能さを見せつけた。

1950年1月には院内総務に対して自らが率いる犯罪捜査の特別委員会を要求し始めた。

1950年5月にキーフォーヴァーの要求は通り、同分野で活躍を目論むジョゼフ・マッカーシーの野望は潰えた。

ウィスコンシン出身の上院議員は共産主義者や旅人を求めて意識を外に向けざるを得なくなった。

エステス・キーフォーヴァー信仰深い家に育った。

テネシー州マディソンヴィルでバプティスト派の牧師を勤めていた祖父の説教を毎週日曜日、2時間も聴かされた。

こうしたストイックで田舎じみた生い立ちが原因で大衆主義的なスタンスをとるようになったが、ノックスビルの大学を出てイェールのロー・スクールに進むうちにキーフォーヴァーはもう少し世界指向の人間になっていた。

アーカンソーのホット・スプリングスで一年過ごし、下院議員としてワシントン入りしその後上院議員になる頃には彼は競馬を愛好するようになり、ワシントン近郊のローレルやピムリコの競馬場を頻繁に訪れていた。

そして賭けるだけでなく、経営者から入場無料券などの優遇を求めた。

上院決議202に準ずる州際通商における組織的犯罪の特別委員会でキーフォーヴァーと共に声を上げた人物は似たような出自だったが、世界と妥協をしていなかった。

ニュー・ハンプシャー出身の民主党上院議員チャールズ・W・トビーは子供時代、トランプ遊びも、映画館も、日曜日の子供向けの新聞を読むことも許されておらず、そのことが自分をよりよい人間にしたと信じていた。

1950年時点で70歳だったトビーはアメリカがピルグリム・ファーザーズの理想に立ち返るべきだと考えていた。

彼は不満げに言った。
「信じられない数のアメリカ人が神をおろそかにして生きてきた。」

キーフォーヴァー委員会が賭博屋や元密売屋、そして元カーペット・ジョイント経営者の証言者リストを一つずつ調べていくとともに、怒りに燃えたチャールズ・トビーはアメリカのプロテスタント達の声を代表するようになっていった。

ある時、彼はフランク・エリクソンに詰め寄った。

「『こんな地獄みたいな商売は嫌だ…一人の男として、アメリカ市民としてあるまじきことだだ』と思わんのか?」

「そのように感じたこともある。」

エリクソンは認め、悔いているように項垂れた。

ところが後に、実際には笑っているのを悟られないように下を向いていたのだと彼はフランク・コステロに語っている。

1950年の夏、ランスキーとテディ・ランスキーは二度目の海外旅行へ出かけた。

今回は新聞記者に気づかれることなく、キュナード社のクイーン号の一つに乗ってヨーロッパの一ヶ月の旅に出た。

当時ランスキーとテディはセントラル・パーク・サウスから36番ストリートのアパートメントへ居を移しており、一緒にバディも住んでいた。

ランスキーたちの不在の間、その自宅にヴィンセント・マーキュリオが滞在していた。

ある日、ランスキー宛の電報を彼は受け取った。

「開封して。父からかもしれない。」
バディはそう言った。

だが開けてみると父宛の電報だった。

ヴィンセント・マーキュリオはその文面を覚えている。

「召喚状 キーフォーヴァー委員会の前に証言のため出廷すること。」

旅行から戻ってきたランスキーーはそれを何かのいたずらだと思っていた。

最終的にはキーフォーヴァー委員会の特別調査員、パトリック・マレーが1950年9月19日の夕方6時少し前にマイヤー・ランスキーを見つけ出し、召喚状を突き付けた。

ランスキーはブロードウェイ近くディンティ・ムーアでテーブルに一人で座り、ドリンクを楽しんでいた。

それから数週間後の1950年10月11日水曜日、ランスキーはニューヨークでキーフォーヴァー委員会の前に立っていた。

「これが召喚状ですか?」

最初にランスキーは書類を見せながらこう尋ねた。

「召喚されたという事実を記録しておきたい。」

「ええ、そうです。」とキーフォーヴァーは答えた。

「ところで要請のあった本や記録は持ってきましたか?」

マイヤーは答えた。「いや」

「なぜですか?」キーフォーヴァーは尋ねた。

「罪を負わされる原因になりうるので、断ります。」

冒頭に交わされたこの言葉はその後のやり取りを象徴するものとなった。

マイヤーはフランク・コステロを始め、ジョー・アドニス。ジミー・アロ、バグジー・シーゲル、ロンギー・ツイルマン、ジョゼフ・スタチャー、ラッキー・ルチアーノら暗黒街の面々と知り合いであることを認めつつ、その関係について委員会から問われると、マイヤーは修正第5条に頼った。

「黙秘権を行使されるようなので、これ以上の質問は無駄のようですね。」

キーフォーヴァーは言った。

委員会は、翌朝に弁護士を伴って再び出廷するようランスキーに求めた。

狙いとしては、修正5条を理由にランスキーが口を割ろうとしない事柄について弁護士がもう少し話すよう説得してくれないかというものだった。

ランスキーはモーゼス・ポラコフの同伴を拒んでいた。

聞いたところによると、委員会は召喚された人物を伴って出廷した弁護士を「ギャング弁護士」としての汚名を着せることがあるとのことだった。

それはあながち杞憂でもなかった。

翌日、ポラコフが名乗るなりキーフォーヴァーは言った。

「ルチアーノの一件に関係していましたね?」

ポラコフは認めた答えた。

「ルチアーノを弁護したのですか?」

信じがたいという表情で、トビー上院議員が口を開いた。

「そうです。」ポラコフはまたも認めた。

「いったいどんな経緯であのようなドブネズミを顧客としたのですか?」

トビーは憤慨した。
「法の世界に倫理は存在しないのですか?」

モーゼス・ポラコフにつっかかって点数を稼ごうとしたトビーは当てが外れた。

ポラコフはこう返した。

「有罪でも無罪でも誰でも法廷に立ち得ますが、我が国の憲法はその人間が法に守られるの範囲の外に出ないことを保証するものです。
もし、それが侵されることがあれば自由にはく奪に相当します。
マイノリティの人間や悪評のつきまとう人間ほど、いわゆる名誉の人間よりも法に守られる権利があります。

あなたに謝罪する筋合いはありません―」

「謝罪など求めていない。」上院議員トビーは言った。

「ーそして私の顧客について、あなた以外の人に謝罪する筋合いもありません。」

「まったく大した人だ。」トビーは呆れて言った。

「まったく大した人だ。」

同じく呆れたポラコフはその言葉をおうむ返しにした。

「合衆国の上院議員ともあろう人間が、そのような発言をするとは」と付け加えて。

審問はその後あまり発展を見せなかった。

ポラコフに促されランスキーはサラトガ・スプリングスやニュー・オーリンズで仕事をしたことがあることや、1949年のヨーロッパ旅行ではチャーリー・ルチアーノの住むナポリやローマに滞在したことも認めた。

そこで何をしていたかとの質問にランスキーが答えることはなかったが、イタリアで仕事関係の会合に出席したかを問われると、彼はポラコフと密談した。

そして断固たる否定の姿勢を現した。

「誰とも仕事の会合はしなかったと言った」

1950年5月から1951年8月の間にキーフォーヴァー委員会が収集した詳細な証言の数々はアメリカにおける組織的犯罪のデータとしては史上最大規模であった。

それでも委員会自体が明るみに出した証拠は非常限られていた。

調査員は比較的少なく、キーフォーヴァーにとって最も価値ある情報はシカゴやマイアミ、ニュー・オーリンズの市民の犯罪コミッションや、ニューヨークのフランク・ホーガンに代表される地方検事が提供するものだった。

それが委員会の仕事の進め方を定義していくこととなった。

都市ごとに地元の犯罪コミッショナーが情報を提供し、その裏付けとなる証人を召喚する。

テネシーを始めとして委員会の議員たちが代表する地域に彼らが矛先を向けることがない点について、キーフォーヴァーの批評家たちはすぐに気づいた。

それらの都市にも堂々と営業する賭博屋やカーペット・ジョイントがあったにもかかわらず。

調査対象も偏っていた。

キーフォーヴァーが自ら定義した委員会の目的は、州の境を超えた組織的犯罪を調べ、取り締まるための新たな法を立案するというものであり、それには麻薬売買、窃盗、ハイジャック、非課税の酒や煙草の密売、誘拐、恐喝、売春、ポルノグラフィ、相場操縦、債権詐欺などの犯罪が含まれていた。

ところが実践においてこうした複雑で多種多様な犯罪の調査についてキーフォーヴァー委員会は舌先三寸に終わっていた。

コステロやランスキーを始めとした証人が関与していなかったこれらの犯罪には委員会はほとんど焦点を当てず、ギャンブル業や馬券屋などの攻撃しやすいターゲットに集中した。

キーフォーヴァーは一年のほとんどをサラトガ・スプリングスやブロワード郡などを回りながら過ごし、その先ではウォルター・クラークが一時間かけて口ごもりつつ恥をさらす証言をした。

地元のギャンブルを取り締まる気がないことは明らかだった。

委員会はそうした証言を「新事実」として発表し、新聞各紙もそのように報道したが、その実キーフォーヴァーたちは10年も前から白昼堂々行われてきたことについてただ説明し直しているに過ぎなかった。

調査委員会のこれ見よがしのやり方はエスカレートした。

1951年1月、ニュー・オーリンズに来ていた委員会が地元テレビ局のカメラの前で進行を公開すると、絶大な効果があった。

ルイジアナでの審問には人々が殺到し、テレビ局には3日間で1,300通もの手紙が寄せられた。

2月のデトロイトでは、キーフォーヴァーの調査隊が珍しくギャンブル以外に焦点を当てた。

フォード・モーター・カンパニーの悪名高い総務部長、ハリー・ベネットの犯罪組織との関係や労働者への暴力を取り上げると、テレビ局2局が放送編成を変更してまで証言を放送。

一説によると地元のヒーローであるジョー・ルイスのボクシング試合よりも高視聴率をとったという。

その月の下旬のセント・ルイスではワールド・シリーズの視聴率をも上回った。

彼については後日詳しく。。

1951年3月にエステス・キーフォーヴァーが最終審理にニューヨークへ戻ってくると、テネシーの上院議員は全国区の有名人となっていた。

1951年3月12日にはタイムズ紙の表紙を飾り、人々はショーウィンドウ越しにテレビを眺めるためにマイナス10度の寒さの中で店の外で集った。

テレビ画面のあるバーやレストランからは人があふれ出た。

主婦たちは午後のトランプ会を「キーフォーヴァーパーティー」に変更した。

ニューヨークのテレビ局であるWPIXとのプール契約を経て、キーフォーヴァーのニューヨークの審問は東海岸の20以上の都市で3つのテレビ局によって放送された。

民主主義の様子を自ら見よと学校では高校生が早くに帰宅させられ、委員会が昼休憩を取った正午には八百屋や肉屋の売り上げが大きく伸びた。

ハント上院議員の言葉では、犯罪調査委員会への市民のあまりの関心の高さからラッシュすらも消えたということだった。

トビー上院議員はカメラのフラッシュから目を守るために緑色の眼鏡を身に着け、ますます野心的な地方紙の編集者のようだった。

エステス・キーフォーヴァーは新たな世界に踏み込んだのだ。

アメリカの政治もと国全体が永久に変わったのはこの時だった。

ニューヨークはキーフォーヴァー委員会の調査のクライマックスだった。

そこでの審問は委員会の首席顧問であるルドルフ・ハレーが下調べをして整えていた。

有能で積極的な37歳の弁護士だった彼はフルタイムで働き、審問で場を取り仕切ることも多く、委員会の人気はキーフォーヴァーと同じくらいハレーの手柄でもあった。

1951年3月13日から21日にかけて行われた審問は人々の期待を裏切らなかった。

毎日30分から半日に及ぶ証言に呼ばれたフランク・コステロはキーフォーヴァー、トビーとハレーの集中砲火に悶え、自身になすりつけられる数々の悪事に苛立ちながらも、自身の収入の違法性を否定することをできないでいた。

コステロの枯れたような声がまたますます役柄にぴったりだった。

のちにコステロが説明したところによると、若いころに喉のポリープを焼く治療を受けたところ、しくじった医者が声帯の一部を修復不能なまでに焼いてしまったというのだ。

あるコメンテーターに「カモメの死前喘鳴」に例えられたその声は「ゴッドファーザー」のマーロン・ブランドのモデルにもなっている。

コステロの顔が大写しになることや、審問にあわせるように手入れの行き届いた手を組んだりほどいたりしている様子が映し出されることに彼の弁護士のジョージ・ウルフは抗議したが、その情景はアメリカ中のリビングルームにテレビ時代を印象付けたのだった。

ハレーはさらに、ヴァージニア・ヒルを投入することで観衆の興味をひときわ煽った。

その頃オーストリア人のスキーインストラクターを夫としていた彼女はベニー・シーゲルの恋人だった時と比べていくらか太って顔も疲れていたが、相変わらず好戦的だった。

彼女の証言によってシーゲルの暗殺の新事実が明らかになることはなかったが、ミンクのケープと派手な黒いつば広帽という出で立ちのヒルが委員会室から出てきて記者たちに囲まれると、彼女は一人のレポーターの向う脛を蹴りつけ、ニューヨーク・ジャーナル・アメリカンのマージョリー・ファーンズワースを平手打ちし、「原子爆弾」が全員の上に落ちればいいと毒づいた。

そんなドラマが繰り広げられる中でマイヤー・ランスキーの証言はあまり注目を浴びなかった。

キーフォーヴァー上院議員の前で証言するのは三度目であり、新聞社やテレビ会社が立ち会えないプライベートな審問だった。

五ヶ月前の最初の曖昧な証言と比べると、ルドルフ・ハレーと仲間の議員たちが全国放送における振舞い方に慣れてきただけでなく、テレビ向けの演出という概念が両者の行動に変化をもたらしていた。

最初に対峙したとき、ハレーはひたすらに大量の質問をランスキーに浴びせるのみで、マイヤーもまた5条を理由に貝のように押し黙ったままだった。

ところが1951年3月にはハレーはそうした膠着状態の回避法を身に着けていた。

ある時彼は進行の途中でやや楽し気にこう言った。
「あなたとこのゲームで対戦する方法が分かってきました。」

ランスキーもまた、ショーの一員である自覚を見せた。

モーゼス・ポラコフが戦時中にコムストックへチャーリー・ルチアーノを訪ねていた話をしている最中、マイヤーが「常に一緒にいた」ことを説明すると、マイヤーはおどけたようにこう口をはさんだ。

「ええ、フロントガラスを突き破るときもね!」

ハレーはこの証人が5条に逃げるであろうと分かっている話題をなるべく避けるようにした。

ギャンブル、サラトガ、ブロワード郡、及びコステロのビバリー・クラブにパートナーとして名を連ねていたニューオーリンズ。

代わりに、マイヤーが有罪にされることを危惧せず話せる分野に集中した。

エンビー配送、コンソリデート・テレビジョン、そしてギャンブルが合法であるために何でもオープンに議論することにできるキューバのグラン・カジノ・ナショナルなどだ。

ランスキーはまた、戦時中にルチアーノと海軍情報局に協力した話も積極的に共有した。

モーゼス・ポラコフがその証言に自身の記憶を上乗せした内容はのちに出版され、関係者による最初の克明な記録を成した。

ランスキーはリラックスしていた。

コンソリデート・テレビジョンでバーやレストランにテレキングを売りつけていた頃のことを、悔しげに振り返りこう話した。
「そうすれば今ごろ億万長者になっていたかもしれない。」

1951年3月にはキーフォーヴァー熱の影響でブロワード郡やサラトガ・スプリングスを始めとするアメリカ中の開け放たれたギャンブル屋が閉鎖に追い込まれており、ランスキーはその影響を懐に感じているらしかった。

ある時ハレーは1920年と禁酒法の話に再び焦点を当てようと試みた。

「当時酒を販売していましたか?」

「ええ。」ランスキーは短く返答した。

「そうなのですね?」ハレーが食い下がると、「その話もしなければなりませんか?」とランスキーは諦めたように応じた。

するとハレーは思いやるかのように別の話題に移った。

審問は平和な空気の中で終わった。

委員会は証人から聞き出した情報に満足し、それはランスキーの違法ギャンブルについて何かをはっきりさせるものでは殆どなかったが、ある時ランスキーはキーフォーヴァ―にもっと本質的な質問を投げかけた。

「ギャンブルの何がそんなに悪いのですか?
あなたもギャンブルしますよね。嗜むことを知っていますよ」

ランスキーはこの時のやり取りについて20年後にイスラエルで言及している。

彼に記憶によれば、キーフォーヴァーは質問の本質を避けようとはしなかった。

「確かにそうですとキーフォーヴァーは答えた」
「だがあなた方が牛耳っているのは嫌なのです。」とも

「あなた方」という言い方がランスキーやフランク・コステロのような暗黒街の面々、つまりキーフォーヴァーが救いようのないギャングスターとみなしている人間たちを指していることには間違いなかった。

彼自身の嗜むギャンブルは明らかになっている限りは合法的なものであり、競馬場のパリミューチュエル窓口を通して行われていた。

にも関わらずランスキーは突如として上院議員のコメントを人種差別的なものとして受け取ったのだった。

「その時は『お前らユダヤ人にイタリア人』という意味だと思い込んだんだ’。そのことで逆上した。」

ぴしゃりとキーフォーヴァーに反応した。

「なんでもあなたの聞きたがる話をしてくれるマイアミ・ビーチのユダヤ人ホテル経営者たちとは私は違う。ユダヤ人だからという理由で虐げることは許さない。」

対するエステス・キーフォーヴァーはこう言い放って話題を完結させた。
「ランスキーさん。あなたは大変な有名人なのですよ?」

キーフォーヴァー委員会の掲げる理想と実態の食い違いを問いただすことについてはバージニア・ヒルの方が上手だった。

公開審問の前の非公開会議で、四度の結婚をしているヒルが結婚していない期間はどのようにして経済的に自立していたのかについて上院議員トビーがしつこく聞きたがった。

特に、男性から贈られてくる大きな金額の正体を知りたがっているようだった。

トビー議員は特に、もう恒例のシカゴの馬券屋、ジョー・エプスタインから定期的に来る仕送りについて興味津々だった。

それはヒルが結婚と離婚を繰り返す間も忠実に続けられたばかりか、バグジー・シーゲルのような危険な人物と恋仲にある時も止まることがなかった。

いったいどうすれば自分の娘ほどの年齢の女にそれほど入れ込み、金を送り続けることができるのか、そこのところをトビー上院議員は追究してきた。

「彼はなぜそうしたのですか?」とトビーは答えをはぐらかす証人を無視して何度も質問した。

そしてやがてうんざりした彼女は観念したようだった。

「どうしても知りたいの?」

トビー上院議員は答えた。
「どうしても知りたいんですよ。」

「それなら教えて差し上げるわ。」ベニー・シーゲルやジョー・アドニス、ジョー・エプスタイン、そして数知れぬ他の男たちを惹きつけてきた率直さでヒル女史は答えた。

「私のフェラはアメリカ一だからよ。」

キーフォーヴァー委員会は、上院や下院の調査委員会がすべからくそうであったように、発展途上のアメリカが英国のコモン・ローから受け継いだ探索的な性質の産物だった。

その性質がもっともはっきりと表れるのは大陪審の制度。

アメリカにおいては大陪審は司法の重要な構成要素として発展を続け、その特徴の一つが修正5条である。それは証人が有罪とされることなく証拠提供のために召喚されることを可能とする。

時としてこのシステムはシュールな状況を作り出すこともある。

調査員、あるいは公開審問の場合群衆は、ある犯罪に核心に迫っているという手ごたえがあるのに実は核心から限りなく離れた場所にいるという感覚だ。

ランスキーとフランク・コステロがキーフォーヴァーに互いとの関係を問われて5条の保護を求めたとき、大衆の想像の中で二人は何か膨大な犯罪帝国のネットワークのイメージが沸き上がっていた。

銃や女やドラッグ、それ以外にも何が絡んでいるかわかったものではない。

現実にはどちらの男もただ違法のギャンブル経営をしていることや、税金の申告をごまかしていることを言いたくないというだけのことだったにもかかわらず。

こうした不明瞭な部分が犯罪者の謎めいた魅力を増していた。

あらゆることが暴かれるはずだった審問で大した情報が明らかになることなく、出てきたギャングスターたちはレポーターの手厳しい質問を受けつつもまるで無敵のオーラを背負っているようだった。

社会は違法事業の存在を知るだけでなく、それらに対して手を打つことの難しさを思い知らされる。

二つの事実の間にできた隙間には答えの欠如だけがあり、大衆の想像力がふくらむ余地がそこには大いにあった。

キーフォーヴァー委員会の場合、それは全国でヒステリーを引き起こし、群衆の正義感が増幅していくのを見ても委員会は特に何もしなかった。

キーフォーヴァー委員会はフランク・エリクソンや、マイヤー・ランスキー、フランク・コステロ、ジョー・アドニスがパートナーシップを結んでいたいくつかのカーペットジョイントの会計士だったジョージ・ゴールドスタインからフランク・ホーガンが入手した記録を元に、冬にはハランデールやキューバで働き、春にはニュー・ジャージー、ケンタッキー、クリーブランド、デトロイトなどの北のカーペットジョイント都市へ、そして場合によっては8月に一ヶ月ほどサラトガへ移動していたディーラーやチェフ、バーマンやメートル・ドテル達の姿を浮かび上がらせることに成功した。

委員会の調査資料を見れば、これらの労働者は直接ゲーミング・テーブルで働いているわけでもなく、そのため法律違反を犯しているとも言い難く、要するに独立したフリーランス業者に過ぎないということが明らかだった。

彼らは所得税を納め、社会保険料も支払い、果物摘み作業者と同じように仕事のある所へ一年をかけて移動しているだけだ。

だが委員会が紡ぐ暗い陰謀や複雑に入り組んだシンジケートの話からは、これらのカジノの裏は意外と合理的で規則化された経済モデルに基づいていることなど誰も想像できなかった。

まして事業の中心にいるマイヤー・ランスキーのような人物ですらもそうした合理性を基礎に据えていることを知る由もなかった。

キーフォーヴァー委員会の基調こそが陰謀だった。

社会学者のダニエル・ベルが委員会の軌跡を分析したところによれば、「アメリカ全体に…『どこかの』『誰かが』この混沌とした世界の紐を操っているのだという感覚がある。」ということだった。

委員会はその説明を麻薬取締局長のハリー・アンスリンガーのセオリーに見つけた。

人種的な陰謀がその根底にはある、と。

1951年2月に発表された二度目の中間報告で委員会は「アメリカ国内にはマフィアという名の犯罪シンジケートが存在し、中央集権化された指導の下に全国で活動している」という主張を繰り広げた。

数多くの証言がこのことを裏付けており、調査を引き続き行うとのことだった。

三ヶ月後には方向性が固まっていた。

「他国との繋がりを持つ、マフィアなる不穏な犯罪組織が全国で活動をしている。」

1951年5月の三度目の中間報告の論調は断定的だった。
「これはシチリア島で形成された同名の犯罪組織の直系の組織である。」

それ以前に委員会は「この国には政府に内包された政府がある」とし、その内包された政府とは地下世界のものだと述べていた。

それに具体的な名前がつけられたというわけだった。

マフィアは、とエステス・キーフォーヴァーは続けた。

アメリカの犯罪の元締めである二つの巨大シンジケート、すなわち「シカゴに本部を置くアッカルド・グージック・フィスケッティ・シンジケート、及びニューヨークに本部を置くコステロ・アドニス・ランスキー・シンジケート」を結びつける「バインダー」であるということだった。

二つの巨大シンジケートがマフィアなる中央集権とどのような関係なのか、委員会は詳らかにすることはなかった。

そして彼らによればイタリアの、それもピンポイントでシチリアの組織であるにも関わらず、ジェイク・グージックとマイヤー・ランスキーという二人のユダヤ人が非常に重要な位置に就いていることに関しても特に疑問を抱いていないようだった。

アンスリンガー自身もそのあたりに言及する際は注意事項を付していた。

「非常に複雑な内部構造であるが…」麻薬取締局長は1950年6月の証言で説明した。

「国のある一部分が別の部分を操っているという言い方は避けます。」

委員会はその注意深い言い方を聞いていたはずだったが、アメリカ国民に公開した内容はそれを反映していなかった。

実際にはキーフォーヴァーら議員たちが取り組んでいる問題は他でもないアメリカが作り出したものだった。

ある物やサービスを片手で禁じながらも反対の手でそれらを手にしようと大金を払うような、巨額の富を所有しつつも未熟で混沌とした社会の矛盾の産物だった。

だがその問題を一部のよそ者のせいにする方がよほど楽なのだった。

委員会がその理由を説明することはできなかったが、彼らは本質的に悪い人間であり、そして、非アメリカ人だったのであった。

キーフォーヴァー委員会はあらゆるところにコネを見出した。

トビー上院議員は仰々しく告げた。

「我々の最大の敵である犯罪者と共産主義者は共謀している。アメリカよ、目を覚ませ!国中にその触手を伸ばす犯罪を今こそ全国民が自覚せよ。」

委員会の前で証言した者がことごとく「マフィア」という呼び名を使おうとせず、のみならずマフィアの存在すら認知しようとしなかったことがますます組織の秘匿性を証明しているように映った。

腕のいい調査員は疑惑と陰謀の匂いを決して見逃さない。

警察官や探偵、調査官のような職の人々は性悪説を前提としなければ成果を上げることはできないだろう。

だがエステス・キーフォーヴァーは疑惑を自らの中で膨らませすぎて、理屈さえも見失い、物事の因果関係を逆に捉えていた。組織的犯罪をマフィアの仕業とするのは、南部の人種差別をKKKの仕業だと主張するようなものだった。

だがFBI長官の方針は違う。

委員会が執着するギャンブルというビジネスは他の犯罪と何ら変わりない、というのがJ・エドガー・フーバーが1951年3月に答えた内容だった。

「それはコントロール可能なものである。」

委員会はFBI長官の意見を仰ぐまでに一年近くもアメリカ各地で証言を訪ね回っていたが、その事実もフーバーのメッセージに信憑性を与えていた。

「ギャンブルを取り締まる、州や自治体レベルの法律が本気で強制されれば、組織的ギャンブルなどこの国のどのコミュニティからも48時間以内に抹殺することができるはずだ。」

フーバーはキーフォーヴァーを支持している部分もあった。委員会の調査の終わりである1951年3月が迫り、時間も資金も切羽詰まって来た際には自身の権威で検事総長J・ハワード・マックグラスと協力して期日を延長させてやった。

だが、全国的な組織的犯罪の陰謀説にはまるで関知しなかった。

「簡単に言えば、」長官は繰り返した。

「世論によって動かされた地域警察が地域の法律を通じて問題を潰すべきだということだ。」

地域、という単語を発するたびに人差し指を振り、下あごを突き出すのでますますブルドッグのような風貌になった。

マフィアは幻であるというフーバーの意見は、キーフォーヴァーの唱える全国規模の陰謀説と同じくらい不正確なものだった。

過去40年にわたり、FBIを含むいくつもの法執行機関がアメリカ中に存在するイタリア派生の犯罪者集団を明らかにしてきた。

それらをマフィアと呼ぶこともできるだろう。

難しいのは、マフィア団員たちですらも明確な答えを持たない、全体的に見たときにそうした地域的な集団がお互いとどのような関係にあるのかという部分だった。

マフィアとはフリーメーソンのようなものである。

どこにでもいながらどこにも存在しないのだ。

キーフォーヴァーのもうひとつの勘違いは、この広大で脅威的なネットワークの主たる収入源が違法ギャンブルであるという考えだった。

それは1950年8月、1951年2月の委員会の最初の報告書では触れられていない説だった。

ギャンブルは「基本的な脅威」であり「公然とした悪事」と形容されていた。ところが1951年5月、キーフォーヴァーとハレーが大部分を作成した報告書が出来上がるころ、委員会がギャンブラーにばかり固執しすぎだという意見が聞かれるようになっていた。

キーフォーヴァー上院議員が外交軍事委員会になぜ出席してないのかといぶかしがるテキサスのトム・コナリー委員長は、嘲笑するように「どこかでクラップ屋を追いかけてるんだな」とコメントしていた。

1951年5月、キーフォーヴァー上院議員はそのような下卑た意見へこのような断定文で反論した。
「ギャンブル利益はゆすり屋やギャングスター達の最大の収入源である。」

弁明者はギャンブルを無害な娯楽と正当化するかもしれないが、上院議員の言葉を借りれば、それはアメリカ国内の犯罪の資金となっているということだった。

キーフォーヴァー委員会の試算によれば、組織化された伊保ギャンブルの年間取引高は200億ドル、GDPの7%にも上った。

ダニエル・ベルは多様で分散した秘密主義の業界の取引高がいったいどのようにして算出されたのか、興味を持った。

クラップゲーム屋ですら自らの仕切るゲームの売上高を予想できないのではないかと委員会のメンバーに尋ねると、その委員は「実のところよくわかっていない」と認めた。

「カリフォルニア犯罪委員会は120億ドル、シカゴのヴァージル・ピーターソンは300億と見込んでいるので、その間の数字を選んだんだ。」

だがこの予想は、数字そのものとしても試算の方法としても今日に至るまでアメリカの違法経済の指標になり続けている。

ニューヨークにネズミがどれほどいるかという試算と同じように、「専門家」たちが否定の心配なく意見を出すことのできる話題である。

自分の考えを否定する人々について、エステス・キーフォーヴァーは自らの執筆したベストセラー「クライム・イン・アメリカ」で殆ど触れなかった。

「全国的な犯罪シンジケートはアメリカ国内に存在する。」そう彼は主張した。

「犯罪者や利己的な政治家、現実を見ようとしない愚か者や心得違いをしている者たちがいくら反論しようとそれは事実である。」

彼の倫理的な自己過信は、そもそも彼が怒りを向けていたはずのメカニズムを正しく分析することを阻害した。

違法ギャンブルで利益を得ている者たちが犯罪者であることは間違いなかった。

エステス・キーフォーヴァー

そう定義するほかない。だがカジノや馬券で何万ドルも儲けている者が、その金を売春だとか窃盗だとかの路上犯罪へ再投資する理由がなかった。

それらの商売は低リターンであるばかりか、見つかれば逮捕される可能性も高かった。

ランスキーやフランク・コステロ、馬券屋のフランク・エリクソンに至るまで、公式な報告書で「ドブネズミ」や「クズ」と呼び、不道徳な経営者としてとらえようとしないそのこだわりは、簡単に儲けを得られるようになった人間がそれまでのゆすり活動を簡単に捨て去り得るのだということをエステス・キーフォーヴァーが理解していないことの表れだった。

ランスキーが自らを「ありふれたギャンブラー」と形容したとき、それは一種のステイタスを勝ち取った自負を含む言葉だった。

普通の成功しているビジネスマンと同様、成功している犯罪ビジネスマンには専門分野が存在する。

専門分野以外の場所に自分や、自分の金を投じることに合理性はなく、危険性しかない。

麻薬、密売、売春、衣類製造業の強制労働、徒党による恐喝、ナイトクラブやレストランの「用心棒」、裏取引された建設契約、馬券屋、違法クラップゲームにカーペットジョイント…1950年代のアメリカの犯罪は20年ほど前からそうであったように分野化されたゆすり屋の寄せ集めだった。

地元レベルでは事業から事業へと渡った資金も当然、あっただろうが、馬券やギャンブルがシステム全体の資金を供給しているという考えは現実離れしていた。

「ゆすり屋」という概念はキーフォーヴァー委員会の調査や報告に多くは登場せず、組織的犯罪を理解するキーワードとしては1950年代を通じて徐々に使われなくなっていた。

法の及ばないところで行われていることの総称として代わりに「マフィア」が多用されるようになり、やがて「モブ(暴徒)」に統一されていった。キーフォーヴァーがゆすり屋という単語を避けたのは、当時まだ共和党内で力を持っていたゆすり取り締まり屋、トマス・デューイが使用しているイメージが強かったということもあるかもしれない。

毎年8月サラトガ・スプリングスでニューヨークの共和党員が是認していたあからさまなゲーミングは、ニューヨークの共和党知事、デューイのダブル・スタンダードを露呈させている、とキーフォーヴァー委員会は正しく指摘した。

キーフォーヴァー委員会は、普段は隠れている社会の薄暗い基層を一部でも記録し、定義し、理解しようとしたアメリカ最大の動きであった。

彼らが取り付けた証言の数々―国立公文書館内に所蔵された90フィートにも及ぶ書類―は、アメリカ社会や犯罪史を学ぶ者にとっては宝庫である。

政治的な意味では、キーフォーヴァー委員会はあまり目立たなかった委員長を1952年初頭の大統領予備選挙まで押し上げることに成功。

エステス・キーフォーヴァーは民主党候補指名をめぐって争い、4年後にはアドレー・スティーブンソンの副大統領候補に指名された。

だが立法の観点から見れば委員会は失敗だった。唯一制定した法律は50ドルの「賭博税スタンプ」で、違法馬券屋を課税する試みだったが、実践不能であった。

そしてキーフォーヴァーが煽った恐怖心や過度の単純化は、今でもアメリカの組織的犯罪の理解を阻害している。

コミッションの議長

ところで「シチリアの組織であるにも関わらずマイヤー・ランスキーという二人のユダヤ人が非常に重要な位置に就いている」という部分については非常に不思議な事だった。

ランスキーはユダヤ人にも関わらずコミッションの議長を務め、ラスベガスやハバナのビジネスを仕切った。

もしランスキーがイタリア人だったならばそうはならなかったろう。

イタリア人同士ならばビジネスの奪い合いが起きてランスキーはあっという間に殺されたはずだ。

しかしランスキーは“ユダヤ人”。

しかもルチアーノやコステロが信頼を置く人物で、誰にも誠実だった。

イタリア人達は“争いを控える”という意味でも、“優れな船頭にアドバイスを仰ぐ”という意味でもランスキーを利用した。

そしてランスキーも彼らを思う存分利用していた。

ただしランスキーは全面的に信頼されていたわけではない。

1930年、ランスキーはマフィア達の無用な殺し合いを防ぐべく殺し屋集団“マーダーインク”の設立を提案。

全ての殺しは殺人株式会社が取り仕切ることとなった。

ただしルチアーノを含むマフィア達はランスキーを殺人株式会社のリーダーにしたがらなかった。

ランスキーが武力を握れば暗黒街は制圧されてしまうと思ったからだ。

結局、殺人株式会社のリーダーにはルイス・バカルターが任命される。

しかし殺人株式会社にはランスキーと旧知の仲のバグジー等ユダヤ人が多く参加。

マフィア達は念には念をとイタリア系のアルバート・アナスタシアを副リーダーに末、監視に当たらせた。

ランスキーは決して言わなかったが、ルチアーノは“ランスキーがマフィアを支配するつもりだ”と思っていたという。

ラッキールチアーノ

ランスキーがトップの座を望んでいることは知っていた

キーフォーヴァーの同年輩、ジョゼフ・マッカーシーが起こした反共産主義運動は長くは続かなかった。

その最中は国が混とんとしたものの、マッカーシーの事実の湾曲や陰謀に国民が気づくのに時間はかからなかった。

極左派の脅威はソビエトのスパイほどのものではなく、異議も多かった。

同様に、ほとんどのギャンブルを違法とみなす国では犯罪にも等級が存在した。

大西洋の反対側では1951年に競馬・宝くじ・賭博に関する王立委員会が設立され、英国の町中の馬券屋や合法カジノが展開し始めるとマイヤー・ランスキーたちはシルクハットとモーニングを身に着け、アスコットへと向かった。

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