三分で学ぶトーマス・ピテラ

三分で学ぶトーマス・ピテラ

トーマス・ピテラの生い立ち

1954年12月2日、ピテラはニューヨークのブルックリンで誕生した。

両親はイタリア系アメリカ人のジョセフ・ピテラと、ドイツ系のラインラント・キャサリン・ブゴウスキー。ジョセフは真面目なビジネスマンでキャンディ卸売りする事業を営んでいた。

そんな中、トーマスは228アベニューの学校に進学するが、すぐ空想に更ける引っ込み思案な性格と甲高い声のせいでいじめにあっていた。

担任の教師はピテラについて
「目立たなかったので印象にない」と話している。

そんなピテラの夢はプロ野球選手。

しかし同級生からは仲間外れにされていたため野球部に入ることは叶わなかった。

その腹いせとしてピテラは夜間に学校に侵入。

野球部の道具を盗んだうえに売りさばき、逮捕されてしまった。

この事件でピテラは有罪となったが、未成年だったこともあり警察の記録は開示されていない。

日本へ

12歳の頃のピテラはテレビ番組「The Green Hornet」の大ファンで、俳優のブルース・リーとヴァン・ウィリアムスの活躍を見て格闘技に興味を持つようになる。

感化されたピテラは、“いじめられない強い男”になる事を誓い格闘技にのめり込んでいった。

やがてピテラはブルックリンのシープスヘッド・ベイにある空手道場に入門。

数年後には道場一の武道家になった。

その秘訣は毎日の筋トレに加えて、ある物を見ていたこと。

ある物とはは、極真空手の本とカンフー映画である。

にわかに信じがたいがピテラは見よう見まねで道場一番になったのだった。

最終的にはピテラは、カンフーよりも空手が強いという結論に至り、日本人に憧れ始めた。

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もみ上げを伸ばし、定期的に寿司を食べ、東洋哲学にと学んだようです

合わせて鍛練も続けたピテラは、シープスヘッド・ベイで開催された空手大会でも優勝。

優勝の特定として日本の東京に留学する権利を獲得した。

ピテラは27ヶ月間、尊敬する日本の武術家の下で空手と忍術を学ぶことに。

加えてトンファー、ヌンチャク、ジャパニーズソードを使う訓練も受けたという。

その間、ピテラは魚、米、海藻だけを食べ、戦争や戦いに関する本を読み学問的な知識を身につけていった。

ある時、母と叔母のアンジェリーナが彼を訪ねて訪日したことがあった。

2人はピテラの外見の変化、成熟度、感性、日本の文化や人々への理解に感銘を受けたそうだ。

外見の変化とは、ブルース・リーをイメージして髪を肩まで伸ばしたことである。

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ちなみにピテラは日本で箸の製造工場でバイトしたこともあったそうです。

最強のマフィアへ

ブルックリンに戻ったピテラはボナンノファミリーにスカウトされ殺し屋になった。

革ジャンのピテラ

ピテラの上司はアルフォンス・インデリカート。

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インデリカートは映画「フェイク」に当時するソニーレッドのことです

ソニー・レッドはボスのフィリップ・ラステリと内部抗争を繰り広げており、少しでも腕の立つ者を欲しがっていたのだった。

しかしソニー・レッドはピテラを使う機会がなかった。

1981年、ラステリ派がソニー・レッドを暗殺。

ピテラはコンシリエーレのアンソニー・スペロのアドバイスに従い別の幹部の部下になった。

この頃からピテラは正式なマフィアのメンバーとなり、“トミー・カラテ”のあだ名で通っていたという。

そのあだ名の通りピテラは空手を使い無数の男達を叩きのめしたそうだ。

カラテマフィア

1988年8月29日、ウィルフレッド・”ウィリー・ボーイ”・ジョンソンを待ち伏せして殺害した。

ジョンソンは、ピテラはガンビーノファミリーのボス、ジョン・ゴッティの長年の仲間であり、運転手でもあった。

ジョンソンが1966年から政府の情報提供者であったことをゴッティが知り、ピテラに暗殺を任せたと言われている。

ピテラはジョンソン殺害の容疑で起訴されたが、裁判では無罪となった。

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崩壊へ

こうした活躍からピテラは部下を束ねるリーダーにも抜擢される。

そんなのぼり調子の最中、ピテラの部下であるロイド・モデルとフランク・マルティーニがコロンビア人の麻薬の売人2人を殺害する事件を起こしてしまう。

しかも2人は16キロのコカインを盗んだ後に、遺体をトランクに入れ、車を駐車場に放置してしまった。

当然、遺体は警察に発見されることに。
しかも使われた銃はピテラのものであった。

冷酷な殺し屋

ピテラはブルックリンのアパートで麻薬の売人タラ・シクシクを殺害したことがある。

ピテラはシクシクの背中を4発撃ってから、死体を6つに切り刻んでから“遺体処理場”に埋めた。

ピテラが遺体処理場と呼んでいたのはスタテン島にある墓地。

そこの土は湿っており腐敗を促進させる。
また野生生物保護区であることから工事などで遺体が掘り起こされる心配もなかった。

さらに、ピテラはより確実な方法を常に模索しており、解剖学の本と遺体を切り刻むための道具を常に持ち歩いていたようだ。

加えて、ピテラは警察犬が匂いを感知できないことにもこだわり、

遺体のをビニールに包んだり、スーツケースに入れたりして、地中深くに埋めていた。

ところが警察は状況提供者を使いピテラの“遺体処理場”を特定。6人の遺体を発見した。

しかしピテラは遺体の首を切り、頭を体と別々に埋めていたので、歯科記録による身元確認は困難を極めた。

ピテラと遺体の関連を証明することは困難なのか。。

否、完璧な遺体処理を行うピテラにはひとつ欠点があった。

ピテラは殺した相手の戦利品を自宅にコレクションしていたのだ。

家宅捜索を行った警察は戦利品や60丁以上の自動小銃、ナイフ、刀、暗殺技術や拷問、死体の解体について書かれた文献を発見する。

1990年6月4日、ピテラは麻薬取引と7件の殺人事件に関与したとして起訴された。

捜査当局は他にもピテラが60件の殺人事件に関与していたと主張している。

裁判

裁判ではピテラの部下 フランク・ガンギが寝返り証言した。

ちなみに寝返るきっかけは飲酒運転で逮捕されたことだったという。

フランクは自分が知る全ての殺人を告白。

それによるとピテラは女でも容赦なく殺す男だった。

殺された女はフランクの彼女 ブルディ。

ピテラは麻薬中毒のブルディがフランクに悪影響を与えたとして、拷問後、射殺。

彼女をバスルームで6つに切断したという。

また、ピテラはささないな喧嘩からナイフを取り出して麻薬の売人を滅多刺しにしたこともあった。

ピテラの裁判で、主任検事のデビッド・W・シャピロは死刑を要求。

シャピロ検事は、ピテラが被害者を拷問し、わざと時間をかけて殺す「冷酷で非情な殺人者」であると説明した。

その一方、ピテラの叔母は「彼は愛情深く、思いやりのある家族だった」と証言している。

はたして、どちらがピテラの素顔なんだろうか。

1992年6月25日、ピテラは殺人と麻薬取引で有罪に。

担当判事はこう述べた。
「ピテラさん、被害者たちもそうですが、死ぬべき人などいないのです」

それから終身刑が言い渡されると、ピテラは記者たちに笑顔で親指を立てた。

ピテラは今も刑務所でのうのうと暮らしている。

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