三分で学ぶ ジョー・コロンボ
三分で学ぶ ジョー・コロンボ
目次
今回は映画「ゴッドファーザー」の公開を妨害したことで知られるコロンボをご紹介します。
ジョー・コロンボの生い立ち
1923年6月16日、ブルックリンのイタリア系家にジョゼフ・コロンボは誕生した。
彼の父アンソニー・コロンボはプロファチファミリーのメンバーで、コロンボにとってマフィアは身近な存在だった。
しかし、父アンソニーは1938年に愛人と共に絞殺されているのが発見されおり、コロンボはあくまでも自力でのしあがって行くこととなる。
コロンボはというと高校を卒業後、湾岸警備隊に入隊。
1945年に精神病と偽り除隊処分を勝ち取ると食肉会社のセールスマンとして働き始めた。
6年後、食肉会社を退職したコロンボは不動産会社に就職。
セールスマンとして真面目に働きつつも、マフィアの仲間入りを果たしハイジャックなどのビジネスに精を出していた。
またプライベートでは1944年に結婚し子供を授かっている。
マフィア生活
やがてマフィア稼業を本業にしたコロンボは瞬く間に出世し幹部に抜擢される。
そんな折、プロファチファミリー内でクレイジー・ジョーによる反落が勃発。
争いは1961年11月にクレイジー・ジョーが逮捕されたことで終結したが、翌年ボスのプロファチが体調を崩し亡くなってしまう。
そしてファミリーのボスには長年アンダーボスだったジョゼフ・マリオッコが任命された。
そしてコロンボに大きな転機が訪れる。。
ファミリー皆殺し計画
1963年ボスとなったマリオッコとボナンノファミリーボス ジョゼフ・ボナンノは共同で敵対ファミリーのボスを皆殺しにする計画をたてた。
ターゲットとなったのは
・カルロ・ガンビーノ
・トーマス・ルッケーゼ
・ステファノ・マガディーノ(バッファローファミリーのボス)
・フランク・デシモーネ(ロサンゼルスファミリーのボス)
この計画がうまく行けばマフィア界はボナンノ・プロファチ同盟の天下になると思われた。
そしてコロンボにはガンビーノ暗殺が割り当てられる。
コロンボは考えた。
この計画は成功するのか?
戦争が始まればどうなるのか?
自身は計画が終わったあと報われるのか?
そしてコロンボは計画の全てをガンビーノに密告する事を決意。
この密告を手土産にガンビーノに取り入ろうと考えたのだ。
その結果マリオッコとボナンノ引退を強いられ、コロンボはプロファチファミリーのボスに任命されたのだった。
この期にコロンボはファミリー名をコロンボファミリーに改名しています。
最年少のボス
ボスとなった時コロンボは若冠41才。
しかも初のアメリカ生まれのボスだった。
まさしく新世代といえるコロンボは数々の型破りな行為を始める。
ある時警察が殺人事件についてコロンボを警察署に呼び出した。
コロンボは弁護士も連れず現れスピーチを行った。
「私は真面目なアメリカ市民です。確かにあなた達のようなバッジは持ってはいないが、懸命に働き生計を立てているのです」
コロンボは自身を一般社会でひとかどの人物にみせようとしていたのだった。
そしてこの考えが思わぬ騒動を巻き起こす。。
イタリア系アメリカ人人権同盟
1970年4月、コロンボはイタリア系アメリカ人人権同盟なる組織を設立した。
ことの発端は息子のコロンボJr.が銀硬貨を溶かした罪で起訴されたことにある。
コロンボはこの起訴について「これはイタリア人に対するFBIの嫌がらせである」と主張。
「イタリア人を守ろう!差別をなくそう!この団体は全ての人種の為に活動を行う。あらゆる差別と戦おう」と訴え始めた。
イタリア系アメリカ人人権同盟の会員数はだるま式に膨れ上がり、マスコミも注目し始めた。
1970年4月30日からコロンボはFBI本部の前で大規模なデモを開始。
このデモは二週間も続き大きな話題を呼んだ。
1970年6月29日にはニューヨークのコロンブスサークルで大規模な集会を開催。
数千人が集まり集会は大成功に終わった。
活動の効果か1971年2月にはコロンボJr.が不起訴になり、コロンボはさらに勢いづいて行く。
これに怒ったのはFBIとコミッション(マフィア議会)だった。
面と向かって非難されたFBIはコロンボのマークを強め、目立つことを嫌うマフィアはコロンボを排除したいと思うようになってゆく。
ゴッドファーザーとゴッドファーザー
1971年、超人気小説「ゴッドファーザー」を映画化するという企画が持ち上がった。
どうやら「ゴッドファーザーはイタリア人はマフィアだと主張する差別的な娯楽小説らしい」
コロンボはこう考え絶対に映画の製作などさせないと誓った。
コロンボが各方面に圧力をかけた結果、ニューヨーク市内でのロケは不可能となり製作陣は苦境に立たされる。
さらにコロンボは製作会社を脅迫、製作をやめないと大変なことになるぞと迫った。
しかし製作陣は映画の撮影を絶対に止めなかった。
そんな状況を打開すべく映画プロデューサーのアルバート・ラディがコロンボと膝を付き合わせ話し合うこととなる。
コロンボは屈強な部下を従えて話し合いの場に現れ威圧的な態度をとった。
対するラディは意外な申し出を行う。
「これをご覧ください。映画の台本です。これを読めばゴッドファーザーが差別的な作品ではないとわかるはずです。ただし絶対に内容を公言しないでください。」
コロンボはくだらん申し出だと一蹴し、部下に台本を読んでやれと申し付けた。
台本を読んだ部下は意外にもこう言った。
「こりゃ素晴らしい作品ですよ」
ここからコロンボのゴッドファーザーに対する誤解は溶けていった。
ゴッドファーザーは差別的な、マフィアを非難するような作品ではなかった。
むしろイタリア系のありのままを描き、マフィアを人として、神聖な存在として描いていたのだ。
コロンボは一転して映画の製作に賛成し始めた。
「私に出来ることがあったら何でも言ってくれ」
この言葉のとおりコロンボはニューヨークでロケが行えるようにするなど様々な助力を惜しまなかった。
ただし“マフィア”という言葉を使用しないという条件を申し付けたが。
その他にもコロンボと製作陣が親しくなったことにより様々なマフィアのボスが撮影現場を訪れたり、身内を出演させるなどの珍事件はあったものの、撮影は順調に進んでいった。
新たな火種
1971年、プロファチと争いを繰り広げたクレイジー・ジョーが出所した。
コロンボはファミリーとジョーの関係を改善しようと、和解金1,000ドルを申し出る。
しかしジョーはこれを拒否し10万ドルを要求した。
この時点でコロンボはジョーを始末する事を決定し準備を始めた。
ブローカー
1971年3月11日、表向きな不動産のブローカーであると称していたコロンボは“資格を取るために嘘をついた”という偽証罪で有罪判決を受け、2年半の服役を宣告された。
コロンボはこれを上訴、取り敢えずは服役を免れた。
この間にもコロンボは精力的に活動を行い、テレビのインタビューに答えたり、募金活動を主催したり、講演会も開いた。
また、政治活動家のメイル・カハネが率いるユダヤ防衛同盟と同盟を結び、両グループが政府から嫌がらせを受けていると主張した。
凶弾
1971年6月28日、コロンボはイタリア系アメリカ人人権同盟の第二回集会を開催した。
しかし突如、黒人の男がコロンボに向けて発砲。
頭部を撃たれたコロンボは倒れ病院に運ばれた。
この犯行はクレイジー・ジョーがやった、カルロ・ガンビーノ率いるコミッションがコロンボを黙らせるためにやった、もしくはその両方であると言われている。
しかし実行犯の黒人が騒ぎの中で何者かに射殺された為、事件は未だ未解決である。
その後のコロンボ
一般的に撃たれたコロンボは植物状態となり、1971年8月28日に自宅に移され、その後死亡したとされているが実際には少し違うようだ。
1975年、裁判所による検査の結果コロンボは指を動かすことが出来たと報告されている。
また、翌年の検査では少しばかり話せるようになっていたとも報告されている。
最期は1978年5月22日、体調が悪化したコロンボは再びニューヨークの病院に運ばれそこで死亡した。
コロンボが完成した映画「ゴッドファーザー」を見る機会は永遠に失われてしまった。。