三分で学ぶダイオンオバニオン
三分で学ぶダイオンオバニオン
目次
今回は指折りのキャラ立ちギャング ダイオン・オバニオンを紹介していきます。
知ったら好きにならずにはいられないはず!
オバニオンの生い立ち
1892年7月8日、オバニオンはアイルランド系の両親の元に誕生した。
9才の時、母親が結核になってしまう。
オバニオンは毎日母親に手紙を書き、花を差し入れ、神に無事を祈ったが、祈りは通じなかった。
母が死去した事をきっかけに家族はシカゴへと移住。
オバニオン曰く花を差し入れる事は元気を分け与える事だそう。
家族が移住したのはシカゴの北側にあるアイルランド人街〝リトルヘル〟という治安の悪い地域で、オバニオンは不良達に揉まれながらも逞しく成長した。
不良ながらも歌が好きだったオバニオンは教会の聖歌隊に入っていた。
また、幼い頃事故に合ったことが原因で左足が短くいつも足を引きずって歩いていたという。
このように不良の中では悪目立ちしてしまいそうなオバニオンだったが、彼のカッとなりやすい気性が幸いして、彼を馬鹿にする者は一人もいなかった。
オバニオンの事を子供時代の友人は「正に悪魔。悪魔そのものだった」と話している。
オバニオンのギャング団
成長したオバニオンは友人のハイミー・ワイス、ヴィンセント “ザスキーマーー”ドルッチ、ジョージ “バグズ”モランとギャング団を結成。
窃盗と強盗を繰り返すようになった。
オバニオンが彼らのリーダーとなったのは面倒見のよさと優しい一面を慕われたからでした。
やがて悪名を高めたオバニオン達は新聞社に雇われ、新聞を仕入れない販売店を襲撃する仕事に就く。
しかし長くは続かず、17才の時に逮捕され1909年、オバニオンは初めて逮捕され、矯正施設に送られてしまう。。
ウェイター・オバニオン
ジャバに戻るとオバニオンはウェイターの職に就く。
そこでオバニオンは歌を披露しながら働き、たいそう楽しんでいた。
しかし堅気の仕事で満足するオバニオンではない。
オバニオンは客の酒に薬を混ぜ、意識が朦朧として帰宅する所を仲間達が襲うというシステムを開発した。
禁酒法時代
禁酒法時代が始まるとオバニオンはたちまちシカゴの主役へと躍り出る。
オバニオンは禁酒法が施行に備えカナダの供給業者と契約を結び、ウイスキーとジンを山ほど密輸入していた。
しかしそれでも酒が足りないオバニオンは、他のギャングの酒を奪うことを思い付く。
やり方は至って単純で輸送中のトラックを襲うというものだった。
この酒密輸トラックのハイジャックは、この後多くのギャング、マフィアが真似するようになりました。
時代を先取りし続けるオバニオンはシカゴの北側〝ノースサイド〟を支配するようになりノースサイドギャングと呼ばれるように。
稼ぎも手下も雪だるま式に膨れ上がっていった。
天使と悪魔が住む男
29才になったオバニオンはヴィオラ・カニフという女性と結婚。
夜は出歩かず自宅で妻と、もしくは友人を招いてゆっくりと過ごす事を好んだ。
愛妻家としても知られ、愛人も作らなかったという。
この頃も相変わらず歌が好きで、休みの日はピアノの自動演奏に合わせて歌って過ごしていた。
オバニオンのもう一つの趣味はお花。
オバニオンは花好きが高じてフラワーショップをオープンした。
オバニオンは毎日店先に立ち、フラワーアレンジメントも自分で行っていたという。
ただしこのフラワーショップの二階はギャングの拠点で、客の多くも葬式に出す花を買い求めるギャングだった。
オバニオンの私生活を知る人は
「あの人は天使だよ」と口を揃えて語っている。
しかし一方では、カッとなると人混みでも関わらず銃をぶっ放すという一面ももっていた。
vsアルカポネ
ノースサイドを支配したオバニオンと拮抗する勢力を誇っていたのがサウスサイドのジョニー・トーリオと部下のアル・カポネ。
ノースサイドとサウスサイドは協定を結び住み分けを行っていたが、トーリオが本拠地を隣街のシセロに移した事をきっかけに再び争いが始まる。
トーリオはサウスサイドに加え、シセロでも大金を稼ぐようになっていて、オバニオンはそれが気に食わなかったのだ。
そこでトーリオはオバニオンにシセロの一部を譲渡した。
だが満足のいかないオバニオンはシマの外にあるスピークイージー(酒の降ろし先)に対して、自分のシマ内に移転するように迫り始める。
トーリオはシセロに加えサウスサイドの一部もオバニオンに譲渡したが、オバニオンはそれを撥ね付けた。
加えてオバニオンはもう一つ戦争を始めることになる。
シカゴのリトルイタリーを支配していたジェンナ兄弟がオバニオンのシマの切り崩しを始めたのだ。
この争いはトーリオが仲裁に入ったものの、怒り心頭のオバニオンは「シチリアの糞共はくたばれ!」といい放ち宣戦布告。
ジェンナ兄弟の酒を盗むことで対抗し始めた。
ジェンナ兄弟はオバニオン暗殺の許可を得るべく、シカゴのシチリア系を仕切るマイク・メルロに許可を貰おうとする。
しかし穏健派のメルロはこれを拒否しジェンナは渋々、暗殺を諦めた。
策士オバニオン
オバニオンの特筆するべき点は、カッとなるだけではなくズル賢さもあわせ持っていた事である。
ある時、警察に追われている仲間から助けを求められた。
最早、逮捕は免れないと感じたオバニオンは彼とフォーデュース(トーリオの店)で待ち合わせ、それからドライブに連れ出し殺害。
これにより疑いはトーリオにかけられるよう仕向けたのだった。
続いてオバニオンは自身の醸造所が摘発されるという情報を警察関係者から入手する。
するとオバニオンはトーリオに「引退を考えているから醸造所を買い取ってくれ」と相談を持ちかけた。
オバニオンに悩まされていたトーリオは二つ返事でこれを承諾。
トーリオが醸造所を購入したとほぼ同時に警察が押し掛け、オバニオンとトーリオ、トーリオの部下を逮捕した。
オバニオンは禁酒法での前科がなく釈放されたが、トーリオは長い裁判を余儀なくされることに。
トーリオはオバニオンに支払った50万ドルを返金して欲しいと申し出るが、オバニオンは勿論拒否、トーリオとの仲は険悪になった。
トーリオは密かにオバニオン抹殺を決意。
一方オバニオンも大量の武器を購入するなどして来るべき戦いに備えるのだった。。
オバニオンの最期
1924年11月8日シチリア人を束ねていたメルロが亡くなるとジェンナ兄弟とトーリオ・カポネはオバニオン暗殺を計画し始めた。
数日後、メルロの葬式に出す花を依頼したいとニューヨークのギャング フランキー・イエールがフラワーショップを訪ねてくる。
オバニオンは快く注文を受けたが、イエールの目的は別にあった。
1924年11月10日の朝、オバニオンが店で花の手入れを行っていると、そこに注文の品を受け取りにイエールと二人の男が現れた。
二人はジェンナ兄弟の部下のジョン・スカリーゼとアルバート・アンセルミ(後にバットで撲殺される)。
イエールの求めに応じてオバニオンが握手をしたとき、エールはオバニオンの手を強く握った、と同時にスカリーゼとアンセルミが発砲。
弾丸は胸に2発、喉に2発命中し、オバニオンは床に倒れこんだ。
まだ生きていものの、頭にとどめの一発を食らいオバニオンは絶命した。
その後オバニオンの葬式は空前絶後の壮大さで行われ、カポネ側にとっては〝殺害祝いパーティー〟のようなものだった。
しかし戦争はこれで終わらなかった。
オバニオンを慕っていた部下のハイミー・ワイス、ヴィンセント “ザスキーマー”ドルッチ、ジョージ “バグズ”モランがジェンナ兄弟を殺害。さらにトーリオを引退に追い込むなどの反撃を見せ、戦争は1929年まで続いてゆく事となる。
ワイスとドルッチは戦いの末に死亡。
モランはカポネよりも長生きした。
歴史に名を残したオバニオン
意外と知られていないが1931年に公開された映画「民衆の敵」のモデルは何を隠そうダイオン・オバニオン。
友人のモデルはハイミー・ワイスで、特に殺害されるあのシーンは、かなり史実に基づいている。
映画を見る際にはぜひオバニオンを思い出してやってください。