三分で学ぶ マレーハンフリーズ
三分で学ぶ マレー・ハンフリーズ
目次
今回はシカゴマフィアの影の主役 頭脳派マフィア マレー・ハンフリーズを紹介していきます。
マレーハンフリーズの生い立ち
1899年4月20日、ハンフリーズは貧しいイタリア移民の子として誕生。
イギリスのウェールズ出身という説もあります。
産まれた時の名前はルウェリン・モリス・ハンフリーズ。
また、この時のあだ名はカーリー。
このあだ名黒い巻き髪だった事からつけられた。
あまりの貧しさ故にハンフリーズは小学校を中退し新聞の売り子を始める。
働いても稼げない事に気がついたハンフリーズは少年ギャングに加入し、悪さを繰り返すようになった。
ここまでの人生を見るととてもハンフリーズが頭脳派マフィア、 マフィアの知恵袋となるとはとても思えない。
2人のマレー
13才の頃、ハンフリーズに意外な出会いが訪れる。
悪さを繰り返すハンフリーズを心配しる人物が現れた。名前はジャック・マレー。
裁判官のジャックはハンフリーズ少年をなんのか更正させたい、出来れば司法の道を歩ませたいと考えて、何かと目をかけてくれた。
もしかするとジャックはハンフリーズの才能に気がついていたのかもしれない。
この時期からハンフリーズはやたらと法律などに詳しくなったうえ、名前をマレー・ハンフリーズと改めている。
だが結局ハンフリーズはジャックに背きマフィアの道へ。
ハンフリーズはマフィアになるか裁判官になるか悩んだに違いありません
ジャック・マレーが結果的に偉大なマフィア マレー・ハンフリーズを産み出してしまったということは想像に難くない。
頭脳派少年ギャング
ハンフリーズはその後も強盗などを繰り返し、16才の時に逮捕され服役を余儀なくされる。
その際、ハンフリーズはなんと裁判官に刑を軽くするよう直談判しこう話した。
「あなたは私を強盗で起訴させようとしますね。
ですが私は大陪審で泣きます。
彼らはおそらく私を起訴しないでしょう。
私はまだ16歳で若いので刑務所に送るべきではないと判断されるでしょう。
しかし、あなたが強盗から小額の窃盗に刑を引き下げるならば、私は有罪を認め軽い刑を受け入れます。
あなたは記録的にも汚点が残らず、お互いに特をする。
誰もが幸せになります。
さらにあなたは適切な贈り物を受け取るでしょう」
結果、ハンフリーズは減刑に成功した。
堅気のハンフリーズ
ハンフリーズは強盗の傍ら正業に就くやうになった。
訪問販売のセールスマンや料理人として働き、1921年には結婚。
堅気になるかと思われたがそうはいかなかった。
時代は禁酒法真っ只中。
ハンフリーズの働くレストランによく訪れていたギャングは密造酒ビジネスのパートナーとしてハンフリーズに目をつけた。
二人は酒を作ることは出来なかったので、もっぱら他ギャングの酒を盗んでは売るように。
盗み方もあらっぽく暴力や殺人も厭わないハンフリーズは、ある日アル・カポネのトラックを襲撃し、運転手を殺害してしまう。
ハンフリーズはすぐに捕らえられ、カポネの元へ連れていかれた。。
カポネ帝国へ
アルカポネはハンフリーズの流暢な語りに驚き、ビジネスのやり方に驚き、自らの組織にスカウトすることに決めた。
後にこの時の事をカポネは「ハンフリーズのようなやり方のヤツを見たことがなかった」と振り返っているが、何を言われたのかは明かさなかった。
27才にしてマフィアの一員となったハンフリーズは強請や殺しの仕事をこなしながらキャリアを築いて行く。
頭の良さから仲間からは〝アインシュタイン〟とまであだ名された。
もっと有名なあだ名は〝キャメル〟これにはラクダのコートを着ていたから、キャメル色が好きだから、など諸説ある。
ちなみに家庭でのハンフリーズはいい父で、クリスマスにはサンタに仮装して近所の子供にまでプレゼントを配っていた。
ハンフリーズが唯一怒鳴ったのは、キーフォーヴァー委員会に娘の事を詮索された時のみだったという。
ハンフリーズの落とし穴
労働組合委員長の誘拐などで悪名を轟かせたハンフリーズは〝パブリックエネミーNo.1〟の栄誉を授かってしまう。
カポネ服役後、いかんせんハンフリーズは目立つ存在になってしまっていたのだ。
特に不味かったのは誘拐の自作自演に手を貸した件。
国税局はハンフリーズが身代金を受け取ったとして、収入を調べ始めていた。
誘拐徹底的に捜査が行われると感じたハンフリーズは、自ら有罪を認めて13か月服役。
目立ちすぎるのは良くないと学んだハンフリーズは以後、影のような存在となって行く。
マフィアの頭脳へ
1956年 カポネの兄貴分ジェイク・グージックが亡くなると遂にハンフリーズは出世を果たす。
とは言ってもボスの座には付かず、〝フィクサー〟として組織運営を手助けしたり外交を担当したりした。
この時ハンフリーズは67才。
紆余曲折を得て名実ともに大物に。
ハンフリーズはフィリピンやイランなど世界中の大統領と対談出来る程になっていた。
この頃、組織のフロントボスを勤めたサム・ジアンカーナも狂暴なチンピラの頃からハンフリーズを崇拝しており、ハンフリーズの前では熱心な学生のようだったという。
なのでジアンカーナが出世した際にはハンフリーズを顧問に据えている。
FBIとハンフリーズ
実はFBIもハンフリーズの事が好きだった。
1957年、アウトフィットのアジトを盗聴していたFBIはハンフリーズがマフィア達を集め
「おはよう、紳士諸君。
そして聴いてくれている人達。
これからシカゴ暗黒街恒例の朝9時のミーティングを始める」と話すのを聞いた。
ハンフリーズは紳士で粋な男だったのだ。
また、ある時はFBIの尾行に気が付いたハンフリーズが捜査官に「一日中私を追うのかい? なら2台の車が必要ですよ。私はあなたと一緒に乗ります」と話し、その日一日を一緒に凄し、ランチまで奢っている。
さらにはハンフリーズは仕事を必要とする釈放されたばかりの囚人の世話をしたり、アウトフィットがメンバーの未亡人や障害者となったメンバーに年金支払っていた。
捜査官はこれに感銘を受けたとか。
誰にでも紳士で争いを好まない。それがハンフリーズが好かれる理由だった。
ハンフリーズの引退
1958年 私生活では離婚と再婚を経験しハンフリーズは少々疲れていた。
心臓の調子も思わしくなくハンフリーズは引退しフロリダへと引っ越して家族と暮らそうと考えた。
実際にそうしたものの、アウトフィットはまだまだハンフリーズの頭脳を必要としていて、ハンフリーズは度々シカゴに出向かねばならなかった。
老後のハンフリーズ
1965年 サム・ジアンカーナが投獄され捜査の手がハンフリーズにも迫っていた。
この頃にはハンフリーズの体調は思わしくなく、片目は失明状態にあり移動はもっぱら電車を使用していた。
そんなハンフリーズは体調を理由に召喚状を無視していたが、電車内での目撃証言から〝体調が悪く移動できない〟というのは嘘であるとされ、逮捕状が出される。
自宅にやってきた捜査官に対してハンフリーズはギャングと勘違いし銃を持ったままドアを開け、捜査官は「銃を降ろしなさい」と促した。
それには素直に応じたハンフリーズだぅたが、金庫を開けることには断固拒否。
だが無理矢理に金庫の鍵を奪われ、その場で逮捕されてしまう。
その夜8時30分頃、釈放されたハンフリーズは自宅でひっりと息を引き取った。
倒れているハンフリーズを家族が発見したが、既に亡くなっており死亡した状況は不明。
様々な説が囁かれているが、死因は心臓発作とされている。
在りし日のアルカポネは、ハンフリーズについてこう話していたと言う。
「ハンプは頭を使う。 いざとなれば撃てるのだが、できるだけ金で話をつけようとする。彼のそういうところが好きなんだ。」