三分で学ぶ フランク・ニッティ
三分で学ぶ フランク・ニッティ
今回は映画「アンタッチャブル」に登場する事でも有名なフランクニッティを紹介していきます。
フランクニッティの生い立ち
1886年1月27日、ニッティはイタリアに産まれた。
二歳の時に父が亡くなり母は再婚。
義父はほどなくして家族を養うために単身アメリカへと渡る。
1890年7月、継祖父に続いて母や兄弟と共にニッティはアメリカへ渡り、ブルックリンで生活を始めた。
学校に通うも13歳で退学、工場で働き始めたもののそちらもすぐに退職。
その後は床屋で働き始めた。
この頃、近所に住む少年 アル・カポネと知り合う。
二人は実はいとこ同士という事がわかり友達になった。
一方、家庭では次第に義父との関係が悪化。
24歳の時、ニッティは家を出て一人で暮らすことを決意。
工場で働くなどしながら各地を点々とした。
ちなみに本名はフランチェスコ・ラファエレ・ニットで、実は〝ニッティ〟とはほとんど呼ばれなかったとも言われています。
ニッティ、ギャングの道へ
26歳になったニッティはシカゴに移り住み、再び床屋で働き始める。
思うにニッティは床屋の仕事も好きだったのでは。。?
1917年10月18日、ニッティは結婚。
その後も平凡な床屋の仕事を続けた。
そんなニッティのギャングデビューはかなり遅く34歳の頃とされている。
地元のギャング ダイオン・オバニオンと知り合ったニッティは、酒の密輸や泥棒などのに手を出し始めた。
暗黒街で稼ぎをあげ始めたニッティは次第に有名に。
その存在に気がついたカポネはニッティをスカウトした。
ニッティはオバニオンと敵対するカポネの元に移り、めきめき出世していくこととなる。
当初はボディーガードやヒットマンとして働いていたが、やがて汚れ仕事よりも頭を使う方が儲かると気付く。
ニッティは明晰な頭脳を活かし、カポネから酒の流通を任されるまでに出世した。
ニッティの成り上がり
43歳の時、アルカポネが逮捕されるとニッティはジェイク・グージック、トニー・アッカルドと共に組織の管理を任された。
だが1931年、ニッティはカポネ、グージック等と共に脱税で有罪判決を受け、刑務所に送られてしまう。
しかしカポネほど刑が重くなかったニッティは18か月の1932年3月25日に出所。
と同時にシカゴマフィアのボスに選ばれた。
この選任はアルカポネによるもので、ポール・リッカやアッカルド(二人は後に長年シカゴマフィアのトップに君臨する)よりも、年上で経験豊富なニッティが相応しいと思ったそう。
ニッティは〝エンフォーサー〟とあだ名されるほどの大物となった。
ニッティの苦難
ボスになって間もなくの1932年12月19日。
ニッティの自宅は警察に踏み込まれ、銃撃戦に発展。
ニッティは発砲され撃ち返しただけだが、危うく殺人未遂で逮捕されそうになった。
踏み込んだ警官はなんとシカゴ市長からニッティ殺害を請け負っていたと言われている。
さらに二ヶ月後、市長は射殺されておりこの事件の闇は深い。。
一方私生活では妻のアンナ(実は2人目の妻)が1940年11月19日に他界。
ニッティは寂しさからかすぐに再婚した。
エンフォーサーの最期
1943年、シカゴマフィアの多くは、ハリウッドの映画スタジオへの恐喝で逮捕されることに。
警察の手がマフィアの上層部まで迫ると、ニッティは仲間から「事を荒立てない為にも刑務所へ行け」と言われてしまう。
しかし、実は閉所恐怖症のニッティは前回の服役で極度の刑務所嫌いになっていた。
今回はさらに長期の服役になるとみられ、ニッティは困り果てた。。
裁判を前日に控えた1943年3月19日。
ニッティは普段通り妻と朝食をとった。
その後、妻は協会へ、ニッティは「散歩に行く」と言い妻と別れた。
ニッティは大量の酒を飲みながら徘徊。
やがて異変に気がついた通行人が声をかけると、ニッティはリボルバーで自らの頭を3発撃ち死亡した。
一枚目の写真は映画「ゴッドファーザー」内で使用されています。
異例の遅さで暗黒街に踏み入り、異例の早さで出世したニッティは57歳でこの世を去ったのだった。。
ちなみに恐喝で逮捕され、ニッティを警察に売った男は後に報復され、粉々に吹き飛ばされている。