ケネディ暗殺とオズワルド

ケネディ暗殺とオズワルド

ケネディ暗殺とオズワルド

マフィアグッズ専門店
マフィアグッズ専門店

今回はケネディ暗殺事件の専門家ガス・ルッソの見解を元に事件の謎を紐解いていきたいと思います。

ルッソによると1954年~64年まで2人の兄弟がFBIのために共産党の情報を提供していたという。
兄弟のひとり、モリス・チャイルズは、モスクワからアメリカ共産党への資金の公式な運び屋の地位にまで上り詰めていた。
彼らは党内でも高く評価されており、共産主義国の指導者との交流も多かったそうだ。

1963年11月22日にケネディ大統領がダラスで暗殺されてから7ヵ月後の1964年6月、兄弟は共産圏のキューバで知らず知らずのうちにキューバの指導者フィデル・カストロと会っていた。

兄弟はカストロから、ケネディ暗殺犯とされるリー・ハーベイ・オズワルドが1963年9月にメキシコシティのキューバ大使館を訪れたことを聞いた。

その際、オズワルドはキューバに移住するためのビザを求めたが、すぐには取得できず絶望したという。

オズワルド

カストロは『事件が起きる事を知っていた』と言ったが、『それはオズワルドに報告されたからである』と付け加えた。

さらに詳しく聞いた所によるとオズワルドは
『ケネディの野郎を殺してやる』と言ったそうだ。

チャイルズ兄弟はこの会話をFBIに報告した。

その情報はウォーレン委員会に伝えられたが、何も行われず、報告書は1990年代半ばまで極秘にされていた。

「カストロがオズワルドの意図について知っていたことが書かれた文書」は、ウォーレン委員会が機密解除した最後の文書とされており、大部分は1960年代に公開されたものである。

ルッソによれば、キューバとのつながりは、オズワルドの動機とケネディ暗殺につながったものを理解する鍵となる。

オズワルドは、数週間前から仕事を始めていたテキサス教科書倉庫ビルの6階の窓からケネディを撃った。

オズワルドは、マンリヒャー式のカルカノ・ボルトアクション・ライフル(正確には、イタリア製、第二次世界大戦の軍用余剰品であるモデル91/38カルカノに、日本製の4×18伸縮式照準器を取り付けたもの)を使用。

弾はケネディに2発命中した。
1発目は右上の背中(喉を通る)、2発目は大統領の後頭部(頭蓋骨の右上を通る)。
3発目は完全に外れている。

ルッソはオズワルドには9秒の時間があったという。

長年、弾丸は5.6秒の内に3発、発射されており、一人で撃つのは不可能と言われてきた。

しかし実際には9秒だと、つまりオズワルドには3発を撃つのに十分な時間があったのだ。

キューバとのつながり

何十年にもわたる憶測、1980年代、1990年代、2000年代に発表されたアメリカ、ロシア、キューバの情報機関の文書の数々、そして亡命してアメリカで自分の話をした元キューバ人やロシア人のスパイたちの証言を総合すると、キューバとのつながりが、JFK暗殺の最も妥当な説明として浮かび上がってきた。

ダラスのエルム通りにあるディーリープラザの草むら別の銃声がしたという説もあるが、ルッソはこれにも否定的だ。

つまりオズワルド以外の狙撃者もいなかったと言いたいのだ。

ルッソは2005年にドイツのテレビチームで暗殺事件を調査した際、メキシコ、キューバ、南米を訪れて目撃者に話を聞いた。

その中には引退した元キューバのスパイも含まれており、KGBがオズワルドのロシア滞在ファイルをハバナに転送した1962年後半からオズワルドのことを知っていたと報告している。

それによるとオズワルドは1959年にソ連に出国し、ミンスクで2年以上過ごした。

そこでKGBとキューバのエージェントの両方と交流し、彼のアパートのすぐ近くで訓練を受けたそうだ。

また、オズワルドがキューバ大使館で突然、ケネディ暗殺を申し出たことも分かった。

キューバのエージェントたちはこの男をどうしようか?と悩んだ末、ケネディ殺害を勧めるという決定をした。

関係者はこう語る。

「オズワルドはメキシコシティに6日間滞在しました。
しかし、我々が発見した目撃者によれば、彼は昼食や夕食を共にし、共産主義者の集まりにも参加していたという。
彼はカストロの情報部員と会っていて、彼らは彼を励ましていた」

また、将校はこう言っている。

『我々は彼にお金を提供したが、彼はお金には興味がなかった。
彼にとってはすべてがイデオロギーだったのです。
だからキューバの諜報員は彼に闘牛を見に行ったり、メキシコシティを歩いたりするのに必要な数ドルを与えた。
しかし、それは彼の意図するところではなかった。
彼はキューバ革命に自分を証明したかった。だからエージェントたちは彼に挑戦するように勧めた。
彼が成功するかどうか、幸運に恵まれるかどうかはわからなかったが、何の損もないだろうと言っていた」

メキシコシティにいたキューバのスパイたちは、ケネディ大統領が何年も前からカストロを暗殺しようとしていたことを知っており、その仕返しをしたのだ。

とはいえキューバはオズワルドをけしかけただけなのだろうか?

メキシコシティでキューバ情報部に所属していた2人きよるとそうではなかったと語る。

「『オズワルドが成功したら救出すると約束した。そして我々は彼をハバナに飛ばす』と言っていた。

あの日、ダラスの民間飛行場に飛行機があって、暗殺後にハバナに向けて離陸したという報告がたくさんあったことがわかったんです。

我々は彼を救出してハバナに連れて行くつもりはなく、メキシコ湾上に捨てようとしていた。

この男とは関わりたくなかったんだ。

彼らの考えは、彼を捕まえて殺し、それで終わりにしようというものだった」

しかし銃撃から1時間後、オズワルドはダラスの通りで偶然にも警察官J.D.ティピットと出くわした。

そしてオズワルドは彼を撃ち殺した。

体に3発、頭に1発、至近距離から撃った。

ルッソは「キューバ人との待ち合わせ場所に向かう途中で彼を止めたのかもしれず、それが事態の全体像を変えた」と話す。

またルッソはこうも話している。

「狡猾なカストロは、殺害の数時間前に、短波ラジオのアンテナを、ワシントンDCやマイアミからの米国の通信を監視するのではなく、ダラスに向けるように情報部員に指示していた。
この狂った男が実際にそれを成し遂げたかどうかを最初に知る必要があったのだ」

ジョンソン大統領が暗殺事件を調査するために設立したウォーレン委員会は、オズワルドがメキシコシティでキューバ人と一緒に行動したことを真剣に調査しなかった、とルッソは言う。

問題は、アメリカ政府が、JFKの陰謀、つまりカストロの殺害計画や、キューバを不安定にするための米軍の秘密裏のコマンド部隊の出動などを、ウォーレン委員会にも公然の秘密にしていたことである。

そのため、委員会は重要な手がかりを得ることができなかったのだ。

逆にカストロの熱狂信者なファンであるオズワルドは、『ミリタント』などのカストロ寄りの新聞を何ヶ月も前から読んでいたし、キューバ人との会話からも知っていたと思われる。

反カストロ派の計画を知っていて、それを明らかにされたくない上層部には、大統領の弟のロバート、ジョンソン大統領、そして元CIA長官のアレン・ダレスがいた。

ウォーレン委員会の委員に任命されダレスはケネディ家の親しい友人でもあったし、調査を妨害したとしても不思議ではない。

マーク・レーンとロシア人

委員会が報告書を発表したのは1964年の秋だった。

この報告書は、オズワルドの単独犯行というウォーレン委員会の結論を批判し、オズワルドを法的に擁護するかのように書かれている。

この本は何年にもわたってセンセーションを巻き起こし、多くの若者に暗殺は他の人がやったのではないかと思わせる影響を与えた。

レーンは「草むらでの第二の狙撃者」「CIAがすべてを計画し、無実のオズワルドをはめた」「オズワルド以外の誰かがティピット巡査を殺した」「マフィアがダラスのナイトクラブのオーナー、ジャック・ルビーを送り込み、オズワルドを射殺して口封じをさせた」など、悪名高い陰謀論を展開。

これらの報道は、ウォーレン委員会の調査結果を世間に知らしめた。

しかしレーンの報告書は、「全くの不正確で、多くの虚偽が含まれており、全くのフィクションであった」とルッソは言う。

実際、長年ロシアKGBのアーキビストを務めていたヴァシリ・ミトロヒンは、1999年に出版した共著『剣と盾』の中で、KGBのスパイ機関がアメリカのKGB秘密情報源であるゲンリク・ボロビックという偽ジャーナリストに、JFK殺害に関する偽情報を密かに流していたと主張している。

ミトロヒンは、レーンが(知らず知らずのうちに)この偽情報を信用し、それを利用してCIAの関与を偽装した本を書き、アメリカ人の目にアメリカ政府の信用を失墜させようとしたと主張した。

そして1975年、ABCのテレビ番組「グッドナイト・アメリカ」で、ケネディ大統領のリムジンに銃弾が命中した時のカラー8ミリのホームムービー「ザプルーダー・フィルム」が公開された。

このフィルムは、ケネディの頭部に命中した銃弾が後方ではなく前方から発射されたことを示しており、第2の襲撃者が大統領を撃ったことを示唆していると多くの人が考えた。

ザプルーダー・フィルムに対する世間の関心と、CIAによる隠蔽工作の疑惑から、1978年に米国下院暗殺特別委員会がJFK事件を再び調査することに。

その報告書では、11月22日に警察のオートバイから録音された音声をもとに、ケネディに向けて4発目の銃弾が発射されたことから、陰謀であり、草むらから2人目の狙撃者がいたと結論づけている。

下院委員会は、草むらから撃ったとされる人物をマフィアが雇ったという説を唱えた。

また、キューバ政府は関与していないが、反カストロのキューバ人は関与している可能性があるとした。

しかし、それから間もなく、別の音響分析によって警察の録音の価値が否定され、複数犯説は破綻した。

ジム・ガリソンとオリバー・ストーン

1991年、オリバー・ストーン監督の映画「JFK」が公開され、JFK陰謀論の次の大きなエピソードが生まれた。

ルッソは当初、このプロジェクトにコンサルタントとして参加していたが、脚本を読んで辞退。

その後、ストーン監督の研究者が映画の本に脚注をつけるのを手伝うことになっている。

映画の主人公になったガリソンはリムジンに乗っていたケネディとジョン・コネリーテキサス州知事をオズワルドのライフルで撃って負傷させたというウォーレン委員会の「単弾説」に反論していた。

ガリソンは、オズワルドがケネディを撃ったのではなく、オズワルドは実際には「英雄」であり、誤って銃撃の責任を負わされたのだと考え、CIAが大統領に対するクーデターのようなことを企てたのだとも考えていた。

映画でもこのシーンが登場するがルッソの考えは違う。

「ガリソンは知らなかったが、KGBも彼に情報を与えていた。
KGBの心理戦部門であるサービスAが彼に全くの嘘を教えていたのです。
彼らは、ケネディ事件に飛びついて、ガリソンが夢中になるような偽情報をあちこちに仕込んだ。
後に『Farewell, America』として発売される)の原稿を全部ペンネームで書いて、ガリソンに渡したんだ。
翌日、ガリソンは事件を解決したと言って記者会見を開いた」

オズワルドは決して英雄ではなく、妻のマリーナを殴り続け、1963年の初めにはケネディを撃ったのと同じライフルでエドウィン・ウォーカー将軍を殺そうとし、ケネディ大統領とティピット巡査を殺害し、最後には逮捕に抵抗して2人目のダラス巡査を撃とうとしたとルッソは言う。

彼は、連続殺人犯志望で、暴力的な社会病質者であり、CIAが幹部や資産として採用するような人物ではなかった、と。

マフィアとオズワルド

ジャック・ルビー

マフィア犯人説についてもルッソは否定的だ。

1963年11月24日にテレビの生中継でオズワルドを撃ったジャック・ルビーはマフィアと関連する人物である事も“マフィア説”が根強い一因だ。

この件についてルッソはこう話す。

「ダラスのナイトクラブオーナー、ジャック・ルビーは、暗殺の2日後にオズワルドを射殺した。

ルビーはケネディを崇拝しており、大統領の仇を討つためにオズワルドを撃ったのだ。

彼は若かった頃、シカゴで、シカゴのウェストサイドに住む多くの若者が関わっていたマフィアの、いわば「ナンバーズランナー」だったのです。

だからといって、彼がギャングだったわけではありません。

実際のところ、シカゴのFBIと警察の諜報員はルビーがダラスに移ったときに、警察にマフィアの情報提供をしたために、シカゴを追われたと言っています。

彼のFBIのファイルを見ると、「潜在的な犯罪者の情報提供者」と書かれているんですよ。

彼は国を愛していました。
彼はダラスの警察官とも友達でした。

彼のクラブはダラス警察署から1ブロックほどのところにあった。

彼はマフィアの端くれではなかった。

それはどうしようもなく誇張されている。

南部でストリップクラブを経営している他のナイトクラブのオーナーと同じように、彼も組織犯罪に対処していました。

ストリッパーと安い酒が手に入る唯一の場所は、それらすべてをコントロールしている南部のマフィアと取引することだった。

確かに、彼はマフィアを知っていました。

でもディーン・マーティンもマフィアを知っていました。フランク・シナトラもそうです。

誰もがナイトクラブ・ビジネスに関わるマフィアを知っていました。

でも、だからマフィアという訳ではない」

ルビーのもう一つの問題は動機。

なぜルビーがそこまでして復讐を果たしたのかについてもルッソは分析している。

「ルッソはJFKを崇拝していました。
すべての大統領を崇拝していたのです。
彼はダラスの街も崇拝していました。
警察を崇拝していました。
彼の財布には『名誉保安官、ジャック・ルビー』というカードが入っていました。
警察官は皆、彼のバーに行ってお金をもらっていました。
彼は事実上、警察署に住んでいました。彼はほとんど毎日、警察署にいて、警官たちと一緒に過ごしていました。
彼は敬虔なユダヤ教徒でもあった。

ところでダラスでは、地元の人々が『ユダヤがやった』と言われるのではと心配していました。
なぜか?
なぜかというと、ケネディが街に来た日の地元紙、ケネディを裏切り者と呼ぶ全面広告が掲載されていて、その費用はユダヤ人の姓を持つバーナード・ワイズマンという男が出していたからです。
そして、ルビーは暗殺後に、「彼らは私たちがやったと思うだろう。我々はケネディを崇拝していた。我々はやっていない』と話しています。

ルビーはその週末、警察署にいないときは、何時間もかけてダラス市内を車で走り回り、ワイズマンを探していました。

彼を殺そうとしていたのです。

そして、オズワルドを撃ったとき、大統領の仇を取るために、ユダヤ人がケネディを殺したのではなく、『我々が彼の仇を取った』ということを示すために撃ったのです。
そして、彼は死ぬまで日記や聞く人にそう言っていた。
彼はウォーレン委員会議長のアール・ウォーレンに、ダラスにユダヤ人に対する陰謀があって、それが我々がやったように見せかけていることを示すためにこれをやったのだ、と言おうとしました。
彼にとっては、ユダヤ教とJFKへの崇拝が目的だったのです」

また、ルッソはルビーがマフィアのヒットマンとして行動していたという考えを否定している。

「オズワルドが警察署から出てきたとき、ルビーは自分自身が非常に精神的に病んでいて、個人的な問題をたくさん抱えていました。
非常に短気で気性の荒い男で、数年前に強盗に遭ったことがあるので、いつもピストルを持ち歩いていました。
そのピストルがたまたまそこにあったのです。

彼はオズワルドを見て正気を失った。

そして彼は、一気に解決してしまおうと思ったわけです。

オズワルドを探していたわけではないので、10秒ほどの余裕を持って警察の地下にある現場に到着しました。

彼は他のことをするためにダウンタウンに行った。

彼はたまたまそこにいて、撃ったんだ」

弾道

1970年代にザプルーダー・フィルムがようやく公開されてから、第二のガンマン説が本格化したとルッソは言う。

「素人目には、ケネディが撃たれた時に頭が後ろに下がっているのが見えて、これは前から撃たれたに違いないと思ったんです。

そこから一気に話が進みました。

私もそれを信じていました。

私はまだ若かった。

頭が後ろに下がるのを見たから、前から撃たれたに違いないと思ったんだ。

実際に法医学者や弾道学者と話してみると、そうはいかないんですよ。

あんなに激しく頭が後ろに下がるのは、バズーカくらいのものだ。

弾丸はそんなことはしません。

弾丸はきれいに入って、反対側に吹っ飛びます。

特にこの特別な弾丸は、カートリッジが非常に大きく、非常に激しく転がっていました。

だから、ケネディの頭に後ろからきれいに入ったが、前から爆発を起こしたのだ」

ルッソはまた、オズワルドがあの距離からケネディを殺せなかったという考えを否定している。

「オズワルドは目的を成し遂げるのに十分な射撃の腕前を持っていた。
彼は5.6秒の間に3発の正確な射撃をしたと、陰謀論を唱えるライターや作家に言われていましたが、これは確かに不可能です。

実際には、約9秒間に2発しか当たっていないのだ。

時計の針がゼロの時、1発目が外れる。

最後のヘッドショットを見るまで9秒残っている。

その残りの9秒間に2回のヒットがあります。

あの狭い空間で、車がゆっくりと遠ざかっていく。

ほとんど動かない状態で、それは非常に簡単なことだ。

4倍のスコープでは、樽の中の魚を見逃すこともありません。

オズワルドは海兵隊で射撃の名手だった。

ボルトアクション式の武器で、200ヤードの距離から、50回の速射ブルズアイのうち48回命中させている。

ケネディはディーレイプラザではそれよりもずっと近くにいたのですが、オズワルドは夏の間ずっとボルトアクション式の速射砲を練習していました。

マリーナ(オズワルドの妻)によると、彼は小さなアパートの玄関ポーチに座って、通り過ぎる車に向かって速射砲で乾坤一擲の射撃をしていたそうです。

ライフル射撃場にも行っていました。

彼は9秒で2発の良い弾を撃つことができました。

陰謀があったと考える多くの人々はダラスに行ったことがない。

行ってみると、すぐに自分を変えることができます。

第一に、ダラスがいかに小さく、暗殺がいかに簡単だったかを知ることができます。

こんなに小さいとは思わなかった、とよく言われます。

もう1つは、草むらが彼の目の前にないことに気づくことです。

草むらはケネディに対して90度の角度を持っています。

もし弾がケネディの頭の右側に当たっていたら、ここ左側から出てきたジャッキーに当たる。

正面ではありません。

正面には鉄道の高架橋があります。

ですから、たとえ正面から撃たれたと考えても、そこは草むらではありません。

そこには十数人の鉄道員が立ってパレードを見ていたが、ライフル銃を持った人は見ていない。

そこに行ってみないとわからない。

考えてみると、車を見ていると、今まで言われていたことがすべて間違っていることに気づく。

草むらは横にあり、オズワルドは実質的に彼の上にいるんだ」

ポストスクリプト

ルッソは、自分の調査に基づいて、ケネディの死後の状況についても話している。

1963年11月22日の夜、ホワイトハウスでは、宣誓したばかりのジョンソン大統領が、他の国民と同様に困惑していたた。

しかし、その夜ジョンソンはさらに不愉快なニュースを聞くことになる。

CIA長官のジョン・マコーンは、ケネディ暗殺のわずか数週間前の9月に、暗殺者とされるリー・ハーヴェイ・オズワルドがメキシコシティのキューバ大使館を訪れたという極秘情報をジョンソンに伝えたのだ。

彼は1914年にセルビアで国家元首がオープンカーで暗殺されたことが第一次世界大戦の引き金になったことを思い出していた。

一方、米ソ両国は1年余り前の1962年10月、キューバのロシア製ミサイルをめぐる危機で核戦争をかろうじて回避したことは、まだ多くの人の記憶に新しかった。

ガス・ルッソによれば、リンドン・ジョンソン大統領は、キューバとその同盟国であるソ連との戦争を防ぐために、オズワルドとキューバが関係しているという情報を隠蔽することにしたという。

メキシコの当局は、メキシコシティでオズワルド容疑者と会ったとされるキューバ大使館員のシルビア・デュランを拘束。

ジョンソンは、メキシコ政府の長年の情報源や、メキシコシティに駐在するCIAやFBIの職員とも電話で話していた。

こうしてジョンソンは、ケネディの死後わずか数時間で、キューバの諜報機関とキューバの指導者フィデル・カストロがオズワルドと関係しているという厄介な話を知ったのである。

彼はこのつながりをアメリカ国民に明らかにすべきだったぁろうか?

ジョンソンは後に「ケネディはカストロを殺そうとしたが、カストロに先を越されてしまった」と何度も発言している。

ジョンソンのスピーチライターだったレオ・ジャノスによると、ジョンソンは友人のジョージア州の民主党上院議員リチャード・ラッセルに電話をかけ「やめておけ」と忠告したという。

上院議員は「外に出すな」と言った。

「漏らしたら第三次世界大戦になるぞ」と。

カストロとキューバ人が大統領殺害に加担したとアメリカ人が聞けば、軍事的報復を求める声が強くなりすぎて止められなくなり、キューバとの戦争に発展し、キューバの同盟国であり後援者でもあるソ連がエスカレートしてくる可能性があるとジョンソンは考えた。

ジョンソンは、ケネディ家がホワイトハウスでマフィアのような殺人株式会社を運営していたことが明らかになれば、保守派が選挙で民主党を葬ることになると恐れていた。

そしてジョンソンは、メキシコシティでのオズワルドの活動に対するアメリカの調査を中止した。

関連記事:ケネディ大統領とマフィア

関連記事:アメリカ大統領選へのマフィアの関与を徹底解説!

あわせて読みたい

カテゴリ