トミー・ルッケーゼとピンゾーラ

トミー・ルッケーゼとピンゾーラ

トミー・ルッケーゼの名前

誰もが彼をトミー・ブラウンと呼びましたが、それは実際の彼の名前ではなかった。

この男はマフィアボス、トーマス・ルッケーゼ。イタリア語での彼の名前は Gaetano Lucchese で、それに最も近いのは Guy Lucchese ということになる。名前は英語に直すと「ガイ ターノ」に近い。

ではどうしてトーマスと名乗ったのだろうか。

一説にはターノがなまって、トミーと間違えられたとされている。またブラウンの方は、ある人物が『野球選手のモルデカイ・ブラウンみたいに指が3本ある』と彼の欠損した指をからかったのが由来とされている。

彼には他の名前もたくさんある。トム・ブランダ、トーマス・アラなどだ。

さらに彼の家族は奇妙なことにルッケーゼをトーマス・ルクセスという名前で埋葬している。いくつかの情報源によると、これは墓を特定されないための措置だったという。

謎多きルッケーゼだが、公式文書で明らかにされている事柄もある。1950年代初頭、ニューヨーク犯罪委員会は彼を「ニューヨークで最も重要な犯罪人物」と考えていた。公聴会の1つで、連邦麻薬局の伝説的な捜査官ジョージ・ホワイトは、「ルッケーゼが麻薬密売組織の総大将である」と主張している。

マフィアのボスながら経歴が謎で、重罪での逮捕歴もないルッケーゼの素顔を垣間見れる、貴重な証言である。ただし、麻薬密売に実際に従事していたのかは、証拠がないので定かではない。

また、ルッケーゼにはこんな疑いもある。

ハーレムの1番街と118番街の角で3人の男がギャングを射殺した。

警察は3人の男を、ルッケーゼと、仲間のジョー・ロザート、殺し屋のジョン・“チャーリー・スクペーテ”・ガウディオとみた。なお、二つ名のスクペーテとは散弾銃を意味するイタリア語またはシチリア語の俗語であり、彼が好んで散弾銃を使用していたことから名づけられたようだ。

ボナベントゥーラ・ピンゾーラ

ボナベントゥーラ・ピンゾーラはシチリア島セッラディファルコで生まれた。1906 年にアメリカに入国したとき、彼は 19 歳であった。彼は血縁関係のあるマフィアを頼り生活をスタートし、2年後にはニューヨークのローワー・イースト・サイドに移住。さまざまな闇ビジネスに手を出した。

詳細は定かではないが、ある時は40世帯以上が暮らす長屋の建物をダイナマイトしようとして捕まっている。もしかすると地上げ行為の一環だったのかもしれない。

ピンゾーラは最高5年の懲役刑を受け、シンシン刑務所に服役する。

彼の唯一の写真はこの時撮られた。ピンゾーラを逮捕した2人の警察官は、チャールズ・コラオ刑事とジョー・ペトロシーノ警部補。乱闘の中で、ペトロシーノはリボルバーをピンゾーラの頭に激しく突きつけた。その際に頬を貫通し、この分厚い包帯を巻いた顔ができあがった。

出所するとピンゾーラは、1916年にカルメラ・リッコボーノと結婚。
表向きは木材請負業者として暮らしつつも、マフィア内での地位を高めていった。

その後、ピンゾーラが歴史の表舞台に姿を現すのは1930 年 2 月 26 日のことである。ピンゾーラは敵対するマフィア組織のボス、ガエターノ・レイナを射殺したのだ。これにより激しい抗争が始まった。

レイナに変わって敵対組織を率いたのは、ナンバー2だったトーマス。ルッケーゼ。

2人は激しい抗争を繰り広げたが、ルッケーゼに軍配があがった。

1930年9月5日、ピンゾーラはローワー・マンハッタンのホテルに滞在していた。その早朝か午後早く、何者かが部屋に侵入しピンゾーラを射殺した。数時間後の夜の9時頃、オフィス清掃員のデリア・マギー夫人とヘンリー・ウォルターズ夫人の2人が彼の遺体を発見した。複数回撃たれ、机の近くでうつ伏せに倒れた状態だったという。

警察は彼のスーツのポケットから、1600ドル(現在の通貨でほぼ3万ドル)のロールを発見している。

週末にかけて、警察は手がかりを追っており、ルッケーゼが要注意人物であると発表した。するとルッケーゼは元判事の弁護士を伴って地方検察庁に出頭した。警察は殺人容疑で彼を逮捕したが、検察は大陪審を招集して起訴するのに十分な証拠を提出できず、最終的に起訴を取り下げた。

にピンゾーラが死亡した時、マフィアのジョー。バラキはこう振り返っている。

「彼の巨大な口ひげと周りに漂っていたニンニクの臭いは忘れられそうにない」

またラッキー。ルチアーノもこう話したという。

「あの男は太っていて、醜くて、汚かった。あの野郎が風呂に入らなないのは日常茶飯事だった」

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