クリーブランド会議

クリーブランド会議

クリーブランド会議

今回はマフィア全国会議の一つ。

クリーブランド会議についてお知らせしていきます。

集まった男達

1928年12月5日の早朝、クリーブランドのダウンタウンをパトロールしていた警官のフランク・オソウスキーはホテルスタトラーの異変に気がついた。

ホテルスタトラー

スタトラーは1912年にオープンした全国チェーンのホテルで、ビジネスマンや旅行者に親しまれていた。

しかしこの朝、ホテルには大勢の柄の悪い男達がおり、物々しい雰囲気を醸し出していた。

オソウスキーはこの日の様子をこう振り替える。

「最初はあまり気にしませんでした。
朝はたくさんの人がホテルにやってくる。
しかしあんなにタフガイが集まっているのは妙だなと思ったんです」

タフガイの一人がチェックインした後、オソウスキーはホテルのレジから名前を確認し探偵局に身元を調べさせることに。

探偵はこの名前に心当たりがあった。

彼はシカゴからアルカポネの部下の何人かが会議のためにクリーブランドに旅行しているという電報を受け取ったばかりで、男はカポネの部下だと判明した。

オソウスキーは75人の警官を集めホテルへと急行。

合計23人のタフガイの身柄を拘束した。

彼らは皆身なりがよく、そのうちの17人はピストルを持っていたという。

怪しい人物

警察はタフガイ達を不審者として拘束し写真を撮影した。

この騒動はマスコミも嗅ぎ付けており、クリーブランド会議は全国的に報じられた。

探偵は容疑者に尋問を行ったが彼は頑として会議の存在を認めない。

そこで警察は入国管理局を呼び国外追放にするぞとタフガイ達を脅すことにした。

しかしタフガイ達は誰一人口を割らない。

結局、タフガイ達は保釈金を支払えば解放されるということになった。

金額は22人で$ 200,000。

拘留されたタフガイの一人、サム・ティロッコは、クリーブランドファミリーのボス ジョー・ポレロに頼み込み保釈金を集めてもらった。

12月7日までにタフガイ達は1人を除いて釈放された。

釈放されなかった一人はニュージャージー州から来たのサルヴァトーレ・ロンバルディーノ。

彼には未解決の殺人事件で逮捕令状が出ていた。

集まったマフィア達

ヴィンセント・マンガーノ

この時代にマフィアの存在は公に認められてはいなかったが、このタフガイ達の正体は“マフィア”に他ならなかった。

集まったメンバーは以下のとおり。

ニューヨーク州バッファロー
サルヴァトーレ“サム”ディカルロ

フロリダ州タンパ
ジュゼッペ・ヴァグリカ

インディアナ州ゲーリー
ポール・パラッツォーラ

ニュージャージー州ニューヨーク

エマニュエル・カンマラタ

ヴィンセント・マンガーノ(後の五大ファミリーのボス)

ジュゼッペ・マリオッコ

ジュゼッペ・プロファチ

ジュゼッペト・レイナ

アンドリュー・ロンバルディーノ

サルヴァトーレ・ロンバルディーノ

ジュゼッペ・パレルモ

マイケル・ルッソ

クリーブランド

サムティ・ロッコ

シカゴ
フランク・アロ

トニー・ベラ

ジュゼッペ・ジュンタ(アルカポネに殺害される)

ジェームズ・イントラビア

パスクアーレ・ロロルド

サム・オリベリ

ジュゼッペ・サッコ

セントルイス

ジョバンニミ・ラベラ

カロジェロ・サンフィリッポ

このクリーブランド会議の議題は「サルヴァトーレ・ダキーラの殺害」についてと「シカゴでの殺し合い」の2つ。

加えてこの会議の三ヶ月前に殺害されたトニー・ロンバルドの後任を選ぶことにあった。

プロファチ

一方、プロファチはキーフォーヴァー委員会の証言でこう説明している。
「私はオリーブオイルや石油を売るためにそこにいました。
食料品所有者に会ってそれらを売ろうとしただけだよ」と付け加えた。

会議のその後

警察がマフィア達を釈放した後、裁判所はほとんどの容疑を却下した。

出席者のほとんどはカステランマレーゼ戦争などの抗争で殺害されている。

ホテルスタトラーはその後数年で拡大し、最終的にはオフィスビルに、そして現在はアパートになっている。

コミッション設立以前に全国のマフィアが集結した数少ない例としてクリーブランド会議は現在も語り継がれている。

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