三分で学ぶマシンガンマクガーン
三分で学ぶマシンガンマクガーン
目次
今回は格好いい異名を持つ色男、〝マシンガンマクガーン〟ことジャック・マクガーンを紹介していきます。
マシンガンマクガーンの生い立ち
マクガーンは1902年7月にシチリアに産まれ、四歳の時にニューヨークへと移住。
産まれた時の名はヴィンチェンツォ・アントニオ・ギバルディといい、ブルックリンで悪ガキ達に揉まれて育った。
14才の時、父が人違いの結果ギャングに射殺され、家族はシカゴへと移住。
その後、ボクサーとして活動するようになったヴィンチェンツォは、他のボクサー達に馴染めるよう、アイルランド風のジャック・マクガーンに改名した。
割と全うな暮らしをしていたマクガーンだが、ほどなくして初めてマフィアと対峙することになる。
ブラックハンドとマクガーン
マクガーンの母親は雑貨店を営む男と再婚していた。
しかし〝ブラックハンド〟と呼ばれるイタリア系ギャングに店は揺すられてしまう。
やがて、ブラックハンドは義父を殺害。
遺体の手には5セント硬貨が握らされていて、これは〝こいつの命は5セントの価値しかない〟という意味だった。
この事件はさらにマクガーンと暗黒街の因縁を深めることとなる。。
マクガーンの復讐
ボクサーとしては成功しなかった。
しかしマクガーンはアルカポネの目に止まり〝八百長ファイター〟として働くように。
やがてカポネの部下としてマフィア人生をスタートさせた。
19歳の時には、かつて住んでいたブルックリンに戻り父の敵を取り、21歳の時には義父の敵もとった。
そして1927年にはカポネの命令で大物フランキー・イエールを射殺している。
マクガーンは人を容赦なく殺せる才能の持ち主でした。
私生活のマクガーン
私生活ではプレイボーイで女にかなりモテた。
スポーツ、特にゴルフはプロ並みの腕前で、よくアルカポネとコースを回ったとか。
ちなみに異名の〝マシンガンマクガーン〟はマシンガンで撃たれても生き残ったから。と言われている。
ヒットマン連続殺人事件
フランキー・イエールを殺害する少し前、シカゴで不可解な連続殺人事件が起こった。
この時期シカゴのギャング達は休戦条約を結んでいたので、しばらく振りに起こった殺人事件は否が応でも話題に。
被害者となった四人は皆、シカゴ以外の土地からやってきた男で、派手な身なりをして銃を持っていた。
また、遺体の手には5セント硬貨が。
被害者四人はカポネを狙い送り込まれた殺し屋である事を突き止めた警察は、腕利きの殺し屋マクガーンに容疑者として尋問を行う。
しかし警察は最後までマクガーンと事件の関連を見つけられなかった。
マクガーンが犯人とは断定出来ませんが、この他にも同様の手口の事件が時々発生していました。
聖バレンタインの虐殺
1928年、カポネの右腕となっていたマクガーンは敵対するバグズ・モラン一味に襲撃されてしまう。
電話ボックスに居たところを撃たれたものの、一命は取り留めたマクガーンは復讐を計画。
カポネに〝皆殺しにするべきだ〟と進言し許可を得た。
そしてすぐさまマクガーンは殺し屋を集め復讐計画を建てた。
事件当日、マクガーンは金髪の恋人 ルイーズ・ロルフとホテルに宿泊しアリバイ工作。
このアリバイは後に〝ブロンドのアリバイ〟と呼ばれることとなる。
アルカポネもバカンスに出かけアリバイ工作。
その間に殺し屋達は、警察官に扮してバグズ・モランのアジトに乗り込んだ。
モランの手下7人を身体検査を装い壁に整列させ、まとめて蜂の巣にした。
この事件はマフィア界からも世間からも大きな反感を買うことになったあげく、肝心のバグズモランはその場に居らず、難を逃れていた。。
警察はルイーズに口を割らせマクガーンの尻尾を掴もうと厳しい尋問を行う。
しかしマクガーンはルイーズと結婚し〝妻は証言しなくても良い〟という法律を利用して捜査を煙に巻いた。
カポネはこの事件について、あらゆる方面から非難されることに。
落ち目のマクガーン
1930年4月、シカゴ犯罪委員会は〝パブリックエネミーリスト〟を発表。
四番目にリストアップされたマクガーンは目立つという理由と、あまり人望がなかった事から干されてしまう。
マフィア人生が行き詰まったマクガーンはプロゴルファーになろうと決意。
日々練習に励み、夜は遊び歩くという生活を送った。
この頃も常にゴルフバックにはマシンガンが入っていたと言われています。
プロゴルファー マクガーン
1933年8月25日、マクガーンはいよいよ選手権に出場。
素晴らしいスコアでプレイを進めていたものの、思わぬ邪魔が入る。
警察が監視にやってきたのだった。
選手権二日目。七番グリーンでマクガーンは逮捕、連行されそうになる。
しかしマクガーンは丁寧に「最後までプレイさせてくれ」と頼み込み、警官も了承。
警官を伴ってプレイを続けたマクガーンだったが、プレッシャーからかストレスからかプレイは乱れ、散々な結果となってしまった。
一方、その応援に来ていた〝ブロンドのアリバイ〟は警官にダイヤの指輪を見せびらかし、「この素晴らしい指輪は誰から貰ったと思う?」と自慢していた。
マクガーンの死
その後マクガーンは落ちぶれ、ケチな麻薬の売人として貧しい生活を送ることに。
そして聖バレンタインの虐殺から七年後の1936年2月15日、ボウリング場でボウリングを楽しんでいたマクガーンは何者かに射殺された。
死体の側にはバレンタインカードが置かれ、そこには〝あなたは仕事を失い、、宝石、車、そして家を失いました。
しかし、事態はさらに悪化する〟と記されていた。
さらに1936年3月2日、マクガーンの異母兄弟は「犯人を知ってるぞ!仇を取る」と語った後、マクガーンと同様の方法で殺害された。
このマクガーン殺害はバグズ・モラン一味の聖バレンタインの虐殺に対する復讐、もしくは元仲間のシカゴマフィアの犯行と言われているが未だに未解決である。。