オウニー・マドュンとコットンクラブ
オウニー・マドュンとコットンクラブ
今回は後のショービジネス界に大きな影響を与えたコットンクラブと産みの親を紹介していきます。
オウニー・マドュンの生い立ち
1891年に産まれ、1902年にマドュンと家族はイギリスからニューヨークへと移住。
ニューヨークではストリートギャングのメンバーとなり、強盗や窃盗で50回以上逮捕されながらも、逞しく成長した。
警官を殺して奪った制服を着て出掛けるなど少々狂った行いと、凶暴さでマドュンは頭角を表して行く。
鳩を殺された事から警官嫌いになったと言われています。
1910年代にはライバルギャングとの抗争により八発の銃弾を浴び、医者は助からないと診たが、奇跡的に生還。
しかし腸が歪んでしまい、コルセットを着けて生活しなければならなくなってしまった。
その後は、1914年に殺人罪で逮捕され、シンシン刑務所で20年の懲役を言い渡された。
コットンクラブとの出会い
1923年、マドュンは特赦で釈放されると再び暗黒街に戻った。
翌年には、〝マドュンズNo.1〟というオリジナルブランドの密造酒の販売を始める。
そこでフランク・コステロなどのマフィア達と知り合いました。
密造酒でたんまり儲けたマドュンは、ハーレム142丁目とレノックス・アヴェニューにあったジャズハウス「クラブデラックス」をジャック・ジョンソンから買取り、店名を「コットンクラブ」と改めて再オープンした。
マドュンのコットンクラブ
マドュンはコットンクラブの運営には、かなりのこだわりを持って臨んだ。
店の客は白人のみ。ステージに上がるのは黒人のみとした。
また、コーラスガールは21才未満の色の薄い美人のみを雇い、露出度の高い衣装を着せ、男性のダンサーも優れた人材を雇うことに。
もちろん、メインとなるJAZZバンドにもこだわりを、コネを使ってデューク・エリントン、ルイ・アームストロングなど一流の音楽家を採用。
コットンクラブへ行く事はニューヨーク社交界のステータスとなり、多くのギャングや著名人が訪れた。
店は警察官からも見逃される上に、用心棒としてギャングのダッチ・シュルツやマッドドッグ・コールを雇うなど万全の構えだった。
ちなみにこの頃、俳優のジョージ・ラフトはギャングとしてマドュンに雇われていました。
マドュンのその後
マドュンはギャングとしても、アトランティックシティ会議に出席、ルチアーノに正式にボスとして認められるなど成功を収め、1931年には密輸ビジネスをやめ、ボクシング興行に進出。
しかし1935年に警察の手が迫ると、コットンクラブなどの資産を売却し、ニューヨークを去った。
その後もマフィア達との付き合いは続き、マイヤーランスキーと共同で競馬場を運営、ホットスプリングスでカジノを運営するなど活躍。
1936年には追われる身となったラッキー・ルチアーノがマドュンを頼って訪ねてきて、ルチアーノを匿ってやった。
1965年肺気腫で死去するまで、優雅な暮らしを続けた。
コットンクラブは1935年のハーレム人種暴動により、ブロードウェイの48番街に移り営業を再開。
しかし1940年に閉店。
だが、その後もコットンクラブの名は広がって行く。
シカゴにもコットンクラブが開店していて、アル・カポネの兄弟ラルフ・カポネが運営。
アルカポネも大のジャズファンで、こなりのこだわりを持って、コットンクラブを運営していた。
こちらのコットンクラブにもアームストロング、エリントンなどが出演していた。
さらにポーランドとラスベガスにもコットンクラブが開店した。
また、1984年にはフランシス・コッポラ監督により映画「コットンクラブ」が製作。
日本の東京にもコットンクラブの名を冠したジャズ があったりと未だに大きな影響力を持ち続けている。