三分で学ぶ! 禁酒法時代 マフィアの気配り編
三分で学ぶ!マフィア暗黒史
禁酒法時代
~マフィアの気配り編~
今回は、「三分で学ぶ!禁酒法時代」第二段です。
マフィアは、脅して酒を売り付けるばかりではなく、マフィアは様々な工夫をしてスピークイージーを人気のスポットにして行きました。
お客様のおもてなし
初期のスピークイージーでは、ほんどがバーカウンターで飲むお店でした。
しかし女性客にとってバーカウンターはあまり居心地がよくない事に気がついたマフィアは、テーブル席を用意するようになったのです。
これによりいまで言う〝女子会〟のお客さんも増えたました。
ちなみに禁酒法時代は、イタリア料理が人気に。
これはスピークイージーのオーナーのほとんどがイタリア系ギャングで、彼らはワインとイタリア料理が一番合うと思い、メニューにイタリア料理を揃えたからです。
音楽はやっぱりJazz
スピークイージーといえば、Jazzのイメージがあります。
スピークイージーでJazzが演奏され始めたそもそもの理由は、「地下の隠れた店の雰囲気に合う音楽だったから」。
意外と安易な理由で、演奏され始めたJazzですが、やがてスピークイージーの店舗数が増え、人気のスポットになるにつれてJazzの人気も増していきます。
スピークイージーは、多くのジャズマンに仕事を与えました。
ジャズマンが増え、演奏の機会も増え、その過程でJazzは洗練され、スピークイージーには欠かせないモノとなったのです。
また地下に生きるモノ同士のマフィアとジャズマンには友情が芽生えるケースも多く、両者は持ちつ持たれつの関係でした。
もちろんマフィアにもジャズファンは多かったです。
有名な所だと、アル・カポネ。
彼はジャズが大好きだったし、ジャズマンとの交流も多かった。
カポネは、音楽を聞いている時が一番幸せだと語っています。
Jazzの人気は、コイン式蓄音機(後のジュークボックス)の人気へ繋がり、レコードで音楽を聴くときう文化を急速に広めました。
もちろんレコード業界やジュークボックスにもマフィアの手が及んでいたので、Jazz業界は間接的にマフィアに恩返しをしたと言えるかもしれません。
バーレスクとマフィア映画
音楽だけではなく、ステージショーを披露するスピークイージーも多くありました。
この中でも有名なのが、アメリカンバーレスク。
アメリカンバーレスクの定義は、少々小難しいのですが、社会を風刺した劇や性的な劇が上演されました。
聞くより見た方が分かりやすいので写真をいくつか
現在もアメリカには、当時のままのスタイルを維持しているスピークイージーが多くあります。
マフィア映画
禁酒法時代は〝マフィア映画〟も産みました。
1928年に最初のマフィア映画(ギャング映画) 「ロマンス・オブ・ザ・アンダーワールド」が公開。
そして1931年「民衆の敵」「民衆の恥」(現在の暗黒街の顔役)が公開されマフィア映画は一つのジャンルとして不動のものとなりました。
ちなみに、「暗黒街の顔役」の脚本を書いたベン・ヘクトは、アル・カポネの部下に脅迫された。
2人乗りマフィアがヘクトの自宅に押し掛けて、「この映画はアル・カポネがモデルなのか? 」としつこく確認してきたが、ヘクトは「違うよ、モデルはオバニオンやワイスさ」と答えてなんとか乗り切ったとか。
「ゴッドファーザー」もそうだったようにマフィア映画を撮影するとマフィアとは無関係ではいられないのかも。
禁酒法のなごり
禁酒法は、1933年に廃止されましたが、完全に無くなったわけではありません。
アメリカは地域によって法律が異なるので、ややこしい事に。
なんとミシシッピ州は1966年まで、禁酒法を維持していました。
また、2002年には日曜日のアルコール飲料の販売を禁止する法律が16の州で可決されました。
禁酒法再び!?
これだけでなく、現在もケッタッキー州やアラバマ州、テキサス州などの多くの市や街では依然として、アルコール飲料の販売や購入、飲酒は軽犯罪扱いです。
また、連邦法にも禁酒法のなごりがあります。
自宅でアルコール飲料を作ることは合法ですが、蒸留酒の製造、バスダブでのアルコール飲料の製造は当時のま重罪となっています。
そして忘れてはいけない禁酒法の遺産は〝マフィア〟です。
禁酒法をきっかけに勢力を伸ばしたマフィアのファミリーは現在も存続しています。