詳しくわかる!パブロ・エスコバル

詳しくわかる!パブロ・エスコバル

パブロ・エスコバルとは?

夢は大統領

1949年12月1日、パブロ・エミリオ・エスコバル・ガビリアは、コロンビアのアンティオキア県リオネグロで生まれた。

彼の父親は小さな農家で、母親は教師であったという。

1966年、17歳の誕生日直前に高校を中退し、2年後に高校に戻ったものの盗みなどの問題行動を繰り返した。

教師たちも彼を目の敵にするようになり、結局エスコバルは学校を中退する。

その一方でエスコバルはこんな夢を持っていた。

「いつか大統領になって、尊敬されたい」

そのためには大学に行くのが不可欠である。
エスコバルは高校卒業資格を偽造して大学を受験。

見事試験には受かったが、学費が足りず追い出されてしまった。
エスコバルは盗みなどで金を稼いでいたが、それにしても学費は高すぎたのである。

諦めた夢

大学を中退したエスコバルはギャング仲間を集め、墓石を盗み仕事を始めた。

墓石に刻まれた文字を削り取り、新品として転売するのである。
とんでもない転売ヤーだ。

それからエスコバルは車の盗み、さらには誘拐と、どんどん危険な商売に手を出していった。

彼の最も有名な誘拐の被害者は実業家のディエゴ・エチャバリア。
1971年の夏に誘拐され、家族かが万ドルの身代金を腹ったにもかかわらず彼は殺されている。

殺したのはエスコバルではないとされているが、責任が彼にあるのは間違いない。

メデジン・カルテル

1970年代半ばになるとにコロンビアでコカイン取引が休息に広まった。

そこでエスコバルはコカインの売買に手を出すのだが、すぐに逮捕されてしまっている。

1976年5月、コロンビア保安庁(DAS)は、エクアドルからコカインを仕入れてきたエスコバルを逮捕した。

エスコバルの車のスペアタイヤからは39kgのコカインが見つかっている。

エスコバルは逮捕され裁判にかけられるのだが、ここで÷自絵を働かせる。

エスコバルは札束を積んで判事を買収。
無事、釈放された。

普通ならこれでよしとするが、エスコバルはそうではなかった。

翌年、エスコバルは自分を逮捕した捜査官に殺し屋を差し向け暗殺。
以後エスコバルは殺しと賄賂を駆使して、警察を支配するようになっていく。

また、エスコバルはコロンビアの公務員や政治家候補に賄賂を贈り、受け取らなければ殺すという戦略に出た。

このやり方は「金か死か」と呼ばれている。

ライバルとの争い

この頃にはエスコバルが率いる一味は、メデジン・カルテルとして知られるようになっていた。

そしてメデジン・カルテルには、カリ・カルテルというライバル組織があった。
両者は同じ時期に結成され、武力、政治への影響力などで拮抗していたのだ。

だが扱うコカインの量ではメデジン・カルテルが勝っていた。
1978年末までにエスコバルは約19,000キロのコカインをアメリカに輸送したという。
しかもこれらのコカインはエスコバルが自前の工場で生産したものであった。

その頃、アメリカではコカインの需要が大幅に増加しており、エスコバルは南フロリダ、カリフォルニア、プエルトリコなどで売買するようになった。

流通網の図

エスコバルはフロリダ沿岸から南東に約350km離れたバハマ諸島のノーマンズ・ケイと呼ばれる島で、新たな積み替え地点を開発した。

エスコバルは島の土地の大部分を購入し、1kmの滑走路、港、ホテル、家屋、さらにはコカインを保管する冷蔵倉庫を建設した。

1978年から1982年まで、ここはがメデジン・カルテルの中心的な密輸ルートとして使われることとなる。

このルートが生み出す莫大な利益で、気をよくしたエスコバルは大豪邸を建て権力を誇示した。
彼が建てた豪華な邸宅には、動物園、湖、闘牛場などが備わっていた。

民衆の味方のエスコバル

エスコバルは慈善事業にも参加。
メデジンの最も貧しい地域の開発に数百万ドルを費やした。

また、彼は集合住宅、公園、サッカースタジアム、病院、学校、教会を建設した。

そしてエスコバルはついに自分の夢を叶える事にする。
1980年代、エスコバルは政界にも進出し、コロンビア自由党の結成に参加。

1982年に出馬すると補欠議員として当選した。

当選したエスコバル

すぐに大統領とはいかなかないわけだが、エスコバルは上機嫌だった。

コロンビアの法律により、エスコバルに議員特権と外交パスポートの権利が与えられることに。

同時に、エスコバルは慈善活動にいそしむ議員として有名になっていた。

その頃メディアのインタビューを受けた際に、エスコバルは慈善事業に投じている金の出所を尋ねられ「財産は16歳のときに設立した自転車レンタル会社からもたらされた」と話している。

暗雲

ところが当選からわずか数カ月で雲行きが怪しくなっていく。

法務大臣ロドリゴ・ララ=ボニージャはエスコバルが犯罪者であるとして激しく非難したのだ。

実はロドリゴは過去に仕事仲間の刑事をエスコバルに殺されたことがあり、憎んでいた。

この影響は大きく、エスコバルは党から追放され、辞職を余儀なくされてしまう。
エスコバルはこの腹いせとしてララ=ボニージャに殺し屋を差し向けた。

1984年4月30日、彼が車に乗っていると2人乗りのバイクが横付けしてきた。
バイクの背後に乗っている人物が銃を取り出し発砲。
ララ=ボニージャはほぼ即死だった。

政府VSエスコバル

1980年代半ば、コロンビア政府はエスコバルをパブリックエネミーとして検挙しようとした。
これまで買収されていた政治家や警察官も世論に推され、エスコバルは孤立無援となってしまう。

そして1985年の秋、ついに政府はエスコバルを指名手配、アメリカへの身柄引き渡しはしないと約束する代わりに出頭するよう呼びかけた。

だが、これに応じるエスコバルではない。
1989年11月27日、エスコバルはコロンビア大統領が搭乗予定の飛行機を突き止め、爆弾を仕掛けさせる。
爆弾は爆発し118人が死亡。
ところが大統領は偶然にも飛行機に乗り遅れてしまっていた。

さらに事態は悪化する。
飛行機にはアメリカ人が2名乗っており、アメリカ政府はなんとしても自国でエスコバルを裁きたいと考えるようになったのだ。

アメリカ政府は一刻も早くエスコバルを逮捕して引き渡すように求め、警察も躍起になってエスコバルを探し始めた。

その頃、好機と見たライバルのカリ・カルテルは、政府にエスコバルの情報を流し始めた。

加えてメデジン・カルテルのメンバーを次々と襲撃。
ビジネスを奪い取ろうとしていたのだ。

助け舟

追い詰められたエスコバルは、とある場所へ向かった。
それはコロンビアの反政府組織のアジト。

そこのリーダーはかつてエスコバルの妹を誘拐した因縁深い相手であったが、過去に捕らわれている場合ではなかった。

エスコバルは彼らに資金を提供し、「ロス・トラディタブルズ」という組織を結成させる。

彼らの最初の仕事はコロンビア最高裁判所に乗り込み、エスコバルの犯罪に関する書類をすべて処分することであった。

攻撃の 1 週間前である 1989 年 11 月、彼らは旧型のバスを購入。
これに大量の爆薬を搭載した。

参加した殺し屋によると、バスの車体は爆発物の重量に耐えられるように改造されていたとか。

それから職員を買収して内部の地図を入手すると、いよいよ決行の時を迎える。

1985 年 11 月 6 日午前7時32分。DAS(治安維持を担う警察やスパイのような組織)の建物ににバスが突っ込み大爆発を引き起こした。

爆発により建物は破壊され、深さ4メートル、直径13メートルのクレーターが残された。
また、衝撃波は約3km先に居ても感じられるほどだったという。

しかし、これは陽動に過ぎなかった。
武装集団は200以上の裁判所、70の検察庁を襲撃し破壊。

同時に本体が最高裁判所へと乗り込み、証拠書類の焼却を始めた。

最高裁判所

混乱の最中、機動隊が最高裁判へ到着する。
対する武装集団は300人を人質としつつ、銃撃戦に持ち込んだ。

戦いは28時間に及び118名が死亡。
武装集団の大部分は、無事に逃走した。

1986年末、コロンビア最高裁判所は暴力に屈したのか、アメリカとの引き渡し条約は違法であると宣言した。

しかし次の選挙で新大統領のヴィルヒリオ・バルコ・バルガスが誕生すると、改めて引き渡し条約を結んでいる。

ラ・カテドラル刑務所

1991 年、遂に逃れられなくなったと悟ったエスコバルは妙案を思い付く。

自分で刑務所を立てて、そこに服役すればいい。

そして建設されたのがラ・カテドラル刑務所である。

そこにはサッカー場、バー、ジャグジー、滝などが備えられており、
時にはプロのサッカーチームが試合をしに来ることもあったという。

加えて看守もエスコバルの手下。
何をしてもとがめられることはなかった

1992年7月22日、ラ・カテドラル刑務所の内情が報じられると、コロンビア政府はエスコバルを別の刑務所に移送しようとした。

「車が何台も近づいてきます」

そう述べたのは見張り台の看守。
知らせを聞いたエスコバルは部下とともに秘密の通路に入り、そのままジャングルに姿を消した。

エスコバルの最期

1993年12月2日、エスコバルはメデジン市内の住宅に身を隠していた。

そこで家族に電話をかけたのが運の尽きであった。

コロンビア特殊部隊はエスコバルの通話を傍受し居場所を特定。

住宅に突入し銃撃戦に発展した。

その最中、エスコバルは屋上にのぼり逃げようとしたのだが、あえなく射殺された。

彼は胴体と足、頭に銃弾を受けていた。

思わぬ余波

生前、エスコバルはアシエンダ・ナポレスの私設動物園で4頭のカバを飼っていた。

エスコバルの死後、警察はカバを捕まえて移動するのは困難と考え、放置してしまった。

すぐに死ぬと思ったのかもしれない。

ところがカバは 16 匹に増え、近くのマグダレナ川に出没するようになった。
そして2009年、人間が襲われてしまい死亡する事件が起こる。

その後人間を襲った1頭は射殺された。

しかし、カバは現在も増え続けており、2014年の時点で40頭が存在していると報告されている。

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実はエスコバルの死には隠された秘密がありました。
詳しくはXにて、、、
5/5に投稿します。

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