三分で学ぶ!トニー・プロ
三分で学ぶ!トニー・プロ
トニー・プロとは?
トニー・プロは映画「アイリッシュマン」でスティーヴン・グレアムが演じたマフィア。
チームスターズ内で強力な地位を築いたことで知られいる。
映画で描かれたようにホッファとは犬猿の中だった。
トニー・プロの生い立ち
1917年5月7日、トニー・プロことアンソニー・プロベンザーノはシチリア移民の両親の元、マンハッタンに誕生した。
多くのマフィアと同じようにプロは学校を中退し15歳で働きに出る。
18歳の時にチームスターズのトラック運転手の仕事に就いた。
そこからトニー・プロはどんどんとチームスターズ内で出世してゆく。
31歳にして560支部の支部長に就任。
マフィアとチームスターズの二足のわらじで権力を拡大していった。
暴君トニープロ
1961年6月、サルヴァトーレ・ブレグリオに命じライバルとなりそうだった部下を殺害。
「アイリッシュマン」で描かれたように彼の死体はウッドチッパーにかけられ粉々にされた。
マフィアの組織では幹部として安定した地位にいたトニー・プロだったが、チームスターズの支部長はあくまでも選挙で選ばれる不安定なもの。
権力を奪われる不安に刈られたトニー・プロはライバルを次々と殺害。
さらに組合の要職に兄弟を指名するなどの政策をとった。
しかし無茶をし過ぎたトニー・プロは1963年7月12日、恐喝の罪で有罪判決を受けてしまう。
7年の懲役を宣告されたプロはルイスバーグの連邦刑務所へ投獄された。
ここで偶然にも旧友ジミー・ホッファと再会を果たす。
ホッファはチームスターズの元会長であり服役中も実質的にトップの座を維持していた。
詳細は定かではないが、そこでプロはホッファに逮捕された事で取り消された年金を受け取れるようにして欲しいとお願いしたという。
しかしホッファをプロをあしらい「イタ公め」と暴言を吐いた。
二人は取っ組み合いの喧嘩を繰り広げ以後口を聞かなくなった。
出所後、プロはニクソン大統領に圧力をかけ、ホッファの仮釈放について組合の活動に参加できないという条件を課せさせるなど妨害活動を行っている。
選挙
1973年、出所したホッファがプロを訪ねてきた。
要件はチームスターズの会長選で支援して欲しいというもの。
しかし刑務所での一件を根に持っていたプロは頼みを拒否し「お前の孫の腸をほじくりだしてやる!」と脅迫。
実は会談の模様はFBIに盗聴されており、証拠にはならないものの後にプロへの疑惑を強める材料となってしまうのだった。。
ホッファ失踪
ホッファがいない方がチームスターズで幅を聞かせられると考えたプロは一計を講じる。
ホッファの選挙をあらゆる方面から妨害し、マフィアの仲間内にホッファを消すべきだと訴えたのだ。
ホッファ自身が向こう見ずなやり方で多くのマフィアの不興をかっていた事もあり、ホッファの抹殺は容易に実現した。
1975年7月30日、トニー・プロと和解するために会談へと出向いたホッファは永久に姿を消した。
殺害実行チームにはプロが信頼する殺し屋のサルヴァトーレ・ブレグリオがいたと言われている。
FBIの捜査
ホッファ失踪についてFBIはすぐにプロをマークし始めた。
ホッファ失踪から2ヶ月後、プロがチームスターズ会長となったフィッツ・シモンズ、ニクソン大統領と共にゴルフを楽しむ姿が目撃されている。
この事からもFBIはプロへの疑惑を深めた。
しかしホッファの死体はおろか、プロが関わったという証拠さえFBIは見つけることが出来ない。
そこで疑わしいものを別件で逮捕し絞り上げるという作戦に出た。
1975年12月9日、プロはチームスターズの年金を違法に融資しキックバックを得た疑いで逮捕されてしまう。
さらに支部長選挙のライバルを殺害した罪でも起訴され終身刑が言い渡された。
加えて1979年5月にも駄目押しでRICO法違反により20年が追加されました。
最期は1988年12月12日、心臓発作で死去した。
プロは最期までホッファ暗殺について明かそうとはしなかった。
また、プロはケネディ暗殺でも直接的な関与があったと言われているがそちらも未解決である。