三分で学ぶ! クレイジー・ジョー
三分で学ぶ! マフィア暗黒史
~クレイジー・ジョー編~
目次
こんにちは!
今回は、クレイジー・ジョーことジョーイ・ギャロについて解説していきます。
こちらは、ボブ・ディランがクレイジー・ジョーを偲んで作曲した〝joye〟
「キングオブストリート!」という箇所が印象的な一曲。
ちなみに、ジョーイの曲を造ったもののボブ・ディランとジョーイに面識はなかったそうです。
またゴッドファーザーpant3に登場するジョーイ・ザザはジョーイをモデルとしており、作中でもジョーイと同じく「差別なく黒人を雇うボス」と称えられている。
ジョーイ誕生
クレイジー・ジョーは1929年に、酒密売人の息子として産まれた。
少年時代、ジョージ・ラフト(バグジーの友人で俳優)に憧れてマフィアを志す。
後年も映画「死の接吻」を意識した服装をしたり仕草を真似たりしていて、マフィア映画好きで知られていました。
12才の時に偶然にも殺しの現場を目撃、暗殺者達が去ると、現場をくまなく調べノートにあれこれの書き綴った。
殺人の方法を少年なりに学ぼうとしていたのである。
やがて21才の時に逮捕され統合失調症と診断を受けた。
とにかく常識に捕らわれないジョーは、若くしてプロファチファミリーに加入、2人の兄弟、兄のアルバートと弟のラリーを仲間に引き入れ精力的に活動。
当初はファミリーの暴力的な仕事を専門にしていて、ジョー・コロンボと組んで荒っぽい仕事もしていた。
次第に実力を認められ賭博ビジネスや組合の恐喝などを仕切るように。
ちなみに、この頃ジョーイは〝クレオ〟というライオンをペットとして飼っていた。
アナスタシア暗殺
1957年、ジョーが28才の時にプロファチから〝アルバート・アナスタシア暗殺〟を請け負ったと言われている。
アンダーボスだったカルロ・ガンビーノが、ボスになるために自身のボスの殺害をプロファチに依頼したと言われています。
詳しくはこちら
翌年の1958年にジョーイと兄弟は、組織犯罪の調査を行っていたマクラレン委員会に召喚される。
映画「アイリッシュマン」で描かれた通り、ジョーイはロバート・ケネディに対して終始、馬鹿にした態度で情報は一切、漏らさなかった。
映画と同じくジョーイは、「ここのカーペットはサイコロ賭博にぴったりだな」と言い放ちました。
第一次コロンボ戦争
1961年2月27日、プロファチファミリーのアンダーボス(翌年ボスに昇格)のジョセフ・マリオッコ、プロファチの弟であるフランク・プロファチなど有力なメンバー4人が誘拐された。
この誘拐事件の犯人は、同じファミリーに所属するクレイジー・ジョーと弟。
ボスのプロファチは大盤振る舞いをする割りに部下には厳しく意見を聞かない事、上納金が課せられる事、刑務所にいる仲間の家族にしっかりと保証を行わない事にジョーイはかなりの不満をいだいており、この誘拐事件を画策。
ジョーイは「誘拐した一人を見せしめに殺して、身代金を要求しよう」と言ったが、ラリーの反対によりなんとか思い止まった。
ジョーイ兄弟とプロファチファミリーは、話し合いの末に人質を解放し、平和的に尊重し合うことを約束した。
しかし僅か5か月後、プロファチは、兄弟のラリーとジョーイの部下ジョイエリの殺害を命じる。
まずジョイエリが行方不明となり、次にバーへ呼び出したラリーを絞殺しようとするも、途中で警察官がやってきて失敗。 九死に一生を得たラリーは、犯人を見たが、証言はしなかった。
このラリーのエピソードは、後に「ゴッドファーザーpast2」の中で引用され有名になりました。
これに怒ったジョーイは反撃に出る。
両陣営の争いは激しさを増し、12人が死亡した。
泥沼の争いが予想されたが、この年の11月にジョーイは恐喝の罪で逮捕され、懲役7~14年の刑に服す事となった。
ジョーイと出会い
刑務所に収監されたジョーイは、黒人のギャング リロイ・〝ニッキー〟・バーンズと出会った。
ジョーイとバーンズは仲良くなり、〝効率的な麻薬ビジネスの方法〟や〝上手な組織運営の仕方〟などボス同士で情報交換を行ったりした。
さらにジョーイは刑務所で、読書の水彩画に出会う。
特に古典文学の魅力に目覚め、その後は生涯読書家で通しす事となる。
その他にジョーイは、火災現場を発見して子供を救出した。これはマスコミにも取り上げられ、ジョーイはヒーローとなった。
また、刑務所内で木工作業に従事していたジョーイは、作業場で暴動がおこり負傷した刑務官を囚人たちから守ってあげるなどの活躍も。
こうしてジョーイは更正した。と思われたかもしれないが、ジョーイはあくまでも〝クレイジー〟のままだった。
ちなみに1968年、ジョーイの服役中にラリー・ギャロは癌で亡くなりました。
第二次コロンボ戦争
出所した際のジョーイについて妻は「骨と皮だけになっていて、老人のように見えた。しかしハンサムだった」と語った。
1971年にジョーイが出所した時には既にプロファチは死去しており、次にアンダーボスだったジョセフ・マリオッコがボスになるも部下のジョセフ・コロンボの策略により失脚。コロンボがボスを勤めていた。
第一次コロンボ戦争はジョーイが服役した後、残ったメンバーがプロファチファミリーと平和協定を結び、終結していたが、ジョーイはこの平和協定は自身とは無関係だと主張する。
そしてコロンボに10万ドルで和解してもいいと提案。
しかしコロンボは提案を拒否。1971年6月28日にコロンボは黒人の若者に撃たれ、植物状態となる。
コロンボ狙撃事件は今も未解決だが、動機も黒人との繋がりもあったジョーイは暗黒街で一番の容疑者となった。
しかし、コロンボ暗殺はジョーイとコロンボファミリーを争わせるために、カルロ・ガンビーノが仕組んだという説も根強い。
ジョーイの野望
裏家業に励む一方、ジョーイは、刑務所で読書と本への愛に目覚めた事から自伝を書こうと決意していた。
ジョーイは友人のオーバック夫妻とともに本を執筆するつもりになっていたのだ。
夫のジェリー・オーバックはジョーイをモデルとしたギャング小説を出版し、映画化も。 その映画を見たジョーイは、夫妻に連絡を取り食事に誘った。 そんな事から作家とマフィアの友情が産まれたのだった。
後にジェリーの妻 マルタはジョーイについて「ずば抜けて賢い人物で驚いたわ」と語っている。
しかしジョーイの伝記が完成する事はついになかった。。
クレイジー・ジョー死す
1972年4月7日 この日ジョーイは自身の誕生日を祝うために妻、娘、妹、ボディーガードを連れてリトルイタリーのレストランへ食事に出かけた。
このレストランで、たまたまコロンボファミリーのメンバーが食事をしており、ジョーイに気が付くと、すぐさま仲間達へ報告。
近くの中華レストランで食事をしていた4人のコロンボファミリーのメンバー達は知らせを聞き、ボスへ判断を仰いだ。
するとボスは「直ぐに殺せ!」と命じたので、メンバー達は急いでレストランへ。
裏口から忍び込んだ四人は、ガロめがけて発砲、20発の弾丸を浴びたジョーイはまだ生きており、レストランの出口へ向かい、外に出た所で再び撃たれ死亡した。
外へ向かったのは、家族への流れ弾を心配したからと言われています。
ジョーイ暗殺には単独犯説も。
こちらは映画「アイリッシュマン」で描かれた通り、暗殺は入念に計画され、フランク・シーランがジョーイを殺した。という説。
突発的な犯行という説よりも、信憑性が高いとされています。
アルバート・ギャロのコロンボ戦争
ジョーイの葬式の際に妹は「ストリートは血で染まるだろう」と宣言。
そして弟のアルバートは、この宣言を実行するべく二人のヒットマンを雇う。
二人のヒットマンはコロンボファミリーのたまり場となっているレストランへ行き四人を狙撃、内二人を射殺した。
しかし、この四人はマフィアとまったく関係のない一般人だった。。
その後もジョーイ派の残党とコロンボファミリーの争いは続いたが、1974年に和解し、ジョーイ派残党はジェノベーゼファミリーへ移籍。
こうして遂に、コロンボ戦争は終結してのであった。