ニッティ暗殺指令part2
エリオット・ネス
尋問を担当したエリオット・ネスは大した成果をあげられなかった。
映画とは異なり、彼は単なる若造だったし、口を割らせるノウハウももっていなかった。
彼は単なるビッグマウスだったのだ。
それから銃撃に関する調書が作成された。
ボディーガードのカンパーニャにエリオットは「それに署名して、必要なことだから。事務的なことだから」と話した。
しかしカンパーニャは「私はサインなどしない」うなった。
結局、警察はニッティを殺人未遂で起訴することを断念。
全員を浮浪罪と治安紊乱罪で起訴するに留まった。
6人はそれぞれ1,100ドルの保釈金を払って、すぐに釈放された。
紙切れの行方
ニッティが噛んでいた紙切れは、警察がノースウェスタン大学犯罪探知学部に送り、専門家が紫外線で処理した。
メモのかなりの部分は解読できたが、ニッティがメモを破棄しようとするほど重要なものは書かれていなかったそうだ。
その後、ニッティは死の縁から奇跡的に生還。
彼は、ハリー・ラングへの復讐に燃えていた。
ニッティは退院したその足で、警察署に直行。
ラングを殴った罪で再び逮捕された。
復讐
ニッティが裁判を受ける頃、サーマック市長はマイアミに行き、フランクリン・デラノ・ルーズベルト次期大統領のレセプションに参加していた。
サーマックは、シカゴで開催された民主党大会において、ルーズベルトの指名獲得に重要な役割を果たし、この時も大きな期待を寄せられていた。
ルーズベルトが水辺の公園に車を乗り入れた時、サーマックは自動車に近づき、うやうやしく挨拶した。
とその時、群衆の中から飛び出してきたジュゼッペ・ザンガラという男に撃たれてしまう。
サーマックは病院に運ばれたものの、21日後に息を引き取った。
ザンガラは、逮捕され死刑に処された。
実はザンガラはマフィアに雇わており、家族の面倒を見る代わりに殺害を引き受けたという噂が流れた。
しかし、真相は謎のままだ。
もし噂が本当ならば、依頼したのはニッティだったのかもしれない。
報復
1933年4月、ニッティはラング殺害未遂の裁判にかけられた。
そこではラ・サール通りの手入れに参加した警察官クリス・キャラハンが証言に呼ばれた。
彼はそこで、ニッティが銃を持っていなかったことを認めている。
ラングがどのように負傷したかという質問に対しては、こう述べた。
「あそこで発射された銃は1丁だけだった。ラングが自分で撃ったに違いない 」
ラングも証人席に呼ばれ、こう話した
「自分の証言が証拠になるかもしれないので回答を拒否します」
しかしラングはマフィアのボスを撃ったことで、英雄視されていた。
功労賞として300ドルも受け取ったほだ。
しかし一転、ラングはニッティに対する暴行の罪で起訴された。
1933年9月、ニッティは法廷で、キャラハンが自身のの手首を掴んでいる間に、ラングが3回撃ったことを証言。
キャラハンはその話を裏付け、ラングは有罪となった。
ラングは再審を請求したが、却下され、警察を去った。
ニッティをハメたニューベリーも只では済まなかった。
1933年1月7日、インディアナ州ベイリータウン近くの排水溝でニューベリーが発見された。
彼の体はショットガンの銃弾で、ズタズタだったという。
その後、ニッティは1943年までボスとして君臨した。