知られざる大物マフィアpart1
過小評価されすぎなマフィアpart1
今回はかつて悪名を轟かせたものの、歴史の波にのまれ、今や名前すら知られていない兵者たちをご紹介するコーナーです。
フランク・マーラーン
フランク・マッカーレーンは、シカゴ警察から「最もタフなギャング」と評されていた男で、サルティス・マクラーレン・ギャングのメンバー。
フランク・マカーレンは、禁酒法時代のシカゴで最も殺しを行ったギャングの一人。
さらに酔っぱらうと、いつ爆発するかやからない酒乱でもあった。
その為、ギャング達は彼を恐れ、街に出ない事を条件に週に数百ドルの年金を払っていたそうだ。
ちなみにマカーレンは襲撃対象が絶望的であることを表す “one-way ride “という言葉を生み出した人物でもある。
そんなフランクの生涯をざっと振り返っていこう。
風の街のギャング
1894年にシカゴで生まれたマカーレンは、10代後半には犯罪に手を染めていた。
禁酒法時代の1922年、相棒のジョセフ・ソルティスとともに、ジョニー・トーリオやアル・カポネが率いるアウトフィットに加入。
ビール戦争では、エドワード・”スパイク”・オドネルの部下3人を殺害し、容赦ない男であることを証明した。
1925年9月25日、マカーレンはオドネルを殺すためにトンプソンマシンガンを使用したのは有名な話である。
実はギャングがトンプソンを使用したのは、これが初めてだったといわれている。
トンプソンは、5秒間に45口径を100発発射できる軍用銃。
マカーレンはトンプソンを乱射したが、ことごとく外れ、オドンネルは一命を取り留めた。
トンプソンが次に使用されたのは、同年10月3日、52丁目のリーガンA.C.クラブハウスでのことだった。
この時のターゲットは、ギャングの“ダイナマイト・ジョー”・ブルックスだったが、またしても弾丸は外れ、近くにいた一般人だけが死亡した。
トンプソン関連では失敗続きではあるが、1926年の時点でマッカーレンは15人を殺害。
おまけに郵便列車から13万5千ドルを強奪したという凶悪犯だった。
逮捕されたマッカーレン
マッカーレンは一連の襲撃の報復として12回も銃撃を受けたが、どうにか死を免れた。
1927年、マッカーレンの弟ヴィンセントは、兄の身を案じ、精神病院に入院させようと考える。
だがマッカーレンは入院するための精神検査を拒否。
ギャングを引退する気はないと改めて示した。
一方、シカゴ犯罪委員会は、アル・カポネを筆頭とする28人をピックアップした「公共の敵リスト」にフランクを載せた。
さらに悪いことに、1931年10月、酔っ払ったマカーレンは、トンプソンを使って、義理の妻マリオンが乗った車の後部に銃弾を撃ち込み、マリオンと2匹の犬を殺してしまう。
マッカーレンは車を捨てて町を出ることに。
もちろん警察はすぐにマカーレンを犯人だと疑った。
あるニュースは、「フランク以外にこれほど残酷な人間はいない」と報じたという。
マッカーレンは8週間に渡り、ウィスコンシン州のマディソンで逃亡生活を送ったが、その後、自首した。
逮捕され裁判が始まると、検視官はマッカーレンが殺害したと主張。
しかし、目撃者がいなかったため、マッカーレンは無罪放免となった。
妻との関係性は謎に包まれているが、こんな夫婦間エピソードが残っている。
マッカーレンは妻マリオンと口論になり、彼女に足を撃たれて骨折してしまった。
マッカーレンはシカゴ病院に入院中することに。
その夜、銃を持った集団が病室にに押し入ってきた。
しかし、マッカーサーンは、枕元から拳銃を取り出して応戦、犯人たちを返り討ちにした。
マッカーレンの最期
年をとると共に、マッカーレンは凶暴な男になっていった。
強盗、暴行、脱獄幇助、殺人。
こうしたギャング的犯罪だけではなく、架空の相手と口論し、街中でショットガンを撃つという事件も起こしている。
この事件で警察に捕まった後、彼は「緑の蛇とピンクの象の大軍を見た」と語っている。
もちろん、意味はわからなかった。
晩年は、シカゴから遠く離れたイリノイ州西部のビアズタウンにあるハウスボートで、母親と暮らした。
1932年10月4日に肺炎で同地の病院に入院。
その4日後に死亡した。
晩年は貧乏だったので、安物の棺に埋葬された。
アイオワ州ウォータールーのクーリエ紙によると、彼の家族は「敵が遺体を傷つけようとするのではないか」という理由で、葬儀の場所を秘密にしていたという。
サルバトーレ&ロサリオ・マセオ
サルバトーレ “サム “マセオとロサリオ・マセオの兄弟は、1900年代初頭にシチリア島のパレルモから移民してきた人物。
マフィアの一員ではなかったが、成長過程でマフィアが身近にいたのは確かだ。
第一次世界大戦で陸軍に従軍した後、30歳のサムはガルベストンに戻り、ローズ(33歳)と一緒にマードッグス・ピアで床屋を始める。
代金は1カット25セントで生活が苦しかった。
1921年頃、ダッチ・ボイトという男が床屋の常連客となった。
ボイトはガルベストンのビーチ・ギャングと呼ばれる密輸業者のリーダーだった男。
ボイトはローズに1,500ドルを支払い、違法な酒のボトルを数日間隠すように頼んだ。
兄弟は、サムが桟橋でソーダスタンドを開き、それを隠れ蓑にして酒の販売をしようと考えた。
兄弟はビーチ・ギャングとそのライバルであるダウンタウン・ギャングを争わせることで、両者のリーダーを殺害。
2つのギャングはリーダーの死によって、力を失い他の地域に移った。
マセオ兄弟は、異例の短期間で密造酒の販売網を拡大し、「ハリウッド・ディナー・クラブ」という違法なギャンブルを提供する酒場を設立。
サムはギャングとしての表看板的な役割を果たし、ローズは控えめな執行者として活躍した。
1926年には「Maceo’s Grotto」という中華料理店をオープン。
1927年には、地元の保安官代理がハリウッド・ディナー・クラブを襲撃し、スロットマシンやルーレットなどのゲームテーブルを破壊するという災難に見舞われる。
だが、兄弟はすぐに密造酒とギャンブルを再開し、売春宿や賭博場にも手を広げ、市の役人も買収した。
全盛期
兄弟の密売ルートはいかのようなスキームだった。
桟橋の端を利用して、キューバから密造された酒を静かに降ろし、東はニューオーリンズ、北はクリーブランドまでトラックで運ぶ。
そして、自分達のレストランやその他の店に酒を卸す。
こうしたビジネスはガルベストンの住民の協力の元に成り立っていたとも言える。
サムは愛想がよく、親切で、服装にも気を配り、観光のメッカであるガルベストンを代表するスポークスマンとして有名になっていた。
おまけに街は“酒が飲める街”として知られ、観光客が集まり、経済効果ももたらしていたのだ。
きらびやかな桟橋の先には、ムーア人風のハリウッドの酒場があり、豪華な内装が施され、ヤシの木の並木道にはリムジンや高級車に乗った富裕層が列をなしていた。
そういう訳で、住人達は兄弟の違法行為を黙認していたのだった。
1932年、ハリケーンの被害を受けたグロットを復興するため、サムは中国をテーマにした高級カフェ「スイジェン」をオープン。
合わせて、ガルベストン湾に浮かぶヨットでのクルーズパーティーを開催しました。
こうした活動から新聞はサムを “ナイトクラブキング “と呼んだ。
1934年、サムはインタビュアーにこう話している。
「彼らが望むものを提供するんだ。
街が生き残るためには、悪徳業者のサービスを受けられなければならないだろう」
サムは、大人や地元の孤児のための大規模なクリスマスパーティーを開いたり、プロやアマチュアのボクシングの試合に資金を提供したり、地域のマイナーリーグ野球チーム「ガルベストン・オールスターズ」を所有したりと、人を喜ばせることに長けていた。
1937年、麻薬捜査官は、サムが1,000万ドル規模の全国的なヘロイン密輸シンジケートに参加し、外航船でニューヨークにヘロインを輸入し、ニューオーリンズ、ウェーコ、ヒューストン、サンアントニオで密輸していたと主張。
サムは、起訴された数十人のうち2人を知っていることは認めたが、関与したことは激しく否定した。
1942年、ニューヨークの法廷で陪審員に無罪を宣告されたサムは、妻のエドナとともに涙を流した。
晴れて無罪となった彼は、最高のナイトスポット「バリニーズ・ルーム」を建設。
これはディナー、ダンス、ギャンブルそして桟橋からのオーシャンビューが楽しめるプライベートクラブであった。
また、「スタジオ・ラウンジ」「ウエスタン・ルーム」「ターフ・クラブ」「クリスタル・パレス」「マードック・バスハウス・アンド・ピア」などの高級店の経営権も持っていた。
テキサス・レンジャーはバリニーズ・ルームを何度も襲撃したが、サムは準備を整えていた。
電気ブザーで警告を発し、スタッフはギャンブルテーブルを隠し、客には無邪気にチェッカーやドミノをさせた。
バリニーズ・クラブではフランク・シナトラやトニー・ベネットの公演も行われたという。
1940年代後半にはモー・ダリッツと共に、ラスベガスのホテル・カジノへの投資を行った。
1950年、サムはダウンタウンに新しいレストラン「ザ・コーナー」をオープン。
コーナーはタップダンスのショーに特化したクラブで、これまた大成功を収めた。
その翌年、消化器系の癌に侵されたサムは、ボルチモアのジョンズ・ホプキンス病院に入院し、手術の合併症で死亡した。
サムの死からわずか数週間後、テキサス州議会はサムの金銭的利害関係の調査を開始。
ローズらを召喚して証言させた。
その結果、マセオ兄弟はテキサス州で最大の違法賭博業者だったことが判明した。
議員たちの報告によると、彼らは1949年から1950年の間だけで560万ドル(2021年のドル換算で約6,000万円)の収益を上げていた。
そのうち460万ドルは、サイコロゲーム、チップブック、ビンゴ、500台のスロットマシン、5つのノミ屋などの違法賭博によるものだったという。
だが、兄弟が600人を雇用を創出し、100万ドルの給与毎月を支払っていたことも事実である。
その後、ローズは1954年に死亡。
1957年、州が違法なギャンブルを取り締まる中、マセオ兄弟が作り出した帝国ははついに崩壊した。
老舗クラブ「バリニーズ・ルーム」の新オーナーであるアンソニー・フェルティッタとヴィック・フェルティッタはクラブを売却。
アンソニー・フェルティッタは、その後ラスベガスに出て、「エル・ランチョ・ベガス」でグリーターとして働いていた。
ファーティッタの家族は、後にラスベガスで自らのカジノ帝国を築くことになる。