マイヤーランスキーPart1
マイヤー・ランスキーとは何者なのか?
目次
マイヤー・ランスキーはマフィアの中でも最もミステリアスな人物の一人である。
FBIのレポートによれば背丈は163.8センチ。
ランスキーを知る人物は「とても小さな男だった。本気で小さい。160センチを3センチも超えてなかった」と語っている。
マイヤー・ランスキーは厚底の靴を履いて身長を誤魔化していたのだ。
ちなみに自称は165cmである。
服装は常にスラックスとシャツ。
細身で大人しそうな人物に見えたという。
趣味は読書だった。
よく市民図書館に通い伝記や哲学書、ビジネス本などを借りた。
図書館の司書はこう振り替える。
「穏やかな人でしたよ。紳士的な人物でした」
ランスキーを知識欲は強く数学の家庭教師も雇っていた。
友人のバグジー・シーゲルやジョー・アドニスなど腕っぷしの強いマフィア達はランスキーの“マフィアらしからぬ人柄”が大好きだったという。
しかしランスキーは賢いばかりの男ではない。
1970年代、市民安全課のデビッド・グリーン軍曹は暴走族のような格好をして、老マフィアのランスキーに因縁をつけた。
この時ランスキーはあせる素振りも見せず“何者だ?”と尋ねたという。
ランスキーの親友ラッキー・ルチアーノも「ランスキーはどんなギャングよりもタフな男だった」と語っている。
さらに「ランスキーがマフィアの全てを手に入れた」とも。
小柄で読書好きのユダヤ人はいかにしてマフィアを作りあげたのかー。
その秘密を紐解いていきます。
ユダヤ人
1902年、マイヤー・ランスキーことマイヤー・スホフラニスキはロシアとポーランドの国境付近に位置するグロドノの町で誕生した。
誕生日は7月4日と言われているが実は定かではなくランスキー本人も知らない。
産まれたグロドノはロシア領だったこともあればポーランド領だったこともある。
スホフラニスキ家は中流家庭だった。
「祖父のベンジャミンは城と市場とを結ぶ通りの一つに居を構える実業家だった」
ランスキーはこの石造りのタウンハウスで弟のヤコブ、両親のマックスとイェッタ、そして父方の祖父母であるベンジャミンとバーシャ・スホフラニスキと共に9歳か10歳になるまで暮らした。
ランスキーが特に慕っていたのは祖父のベンジャミン。
祖父から教えられたビジネスのコツは生涯の指針となった。
また、祖父は慈善団体に多額の寄付をしており、地域の人々からも尊敬を集めていた。
ランスキーをユダヤ教の学校、チェダーへ初めて連れて行ったのも祖父だった。
学校でランスキーは使い古された聖書や祈祷書から祈りやヘブライ語のアルファベットを学んだ。
学校はストーブと木のベンチがあるだけの質素なものだった
ランスキーが4歳の時、迫害された数百人ものユダヤ人が強姦や殺人を逃れてグロドノの町へ押し寄せた。
それからロシア人達がグロノドに押し寄せユダヤ人に暴力の限りをつくした。
混乱の中でランスキーの愛する叔父は腕を切り落とされた。
新天地
グロドノのユダヤ人達はロシア人の暴力に暴力で対抗する事を決めた。
それにより治安は悪化の一途をたどり、
果てしなく続く暴力の中で一部のユダヤ人達は新天地への移住を考え始める。
マイヤー・スホフラニスキが生まれた頃のユダヤコミュニティは未来を不安視し、新たな方向性を模索している只中だったのだ。
選択肢は一つは約束の地 エルサレム。
もう一つは多くのユダヤ人が移住を始めていたアメリカ。
家族はよくどちらに移住するかで揉めていた。
私は子供ながらに二度と今までの生活には戻れないのだと悟った
祖父はエルサレムを目指したがった。
一方、ランスキーの父はアメリカを目指そうと言った。
これに対する祖父の意見は「どうせ隔離地区に入れられる」というものだった。
遂に家族の意見はまとまらず祖父は単身パレスチナを目指し家を出るもエルサレムに到着した途端に体調を崩し死亡している。
「年を取ってからも夜中に目が覚めることがある。
祖父の温かな気配を感じてね」
1909年ランスキーの父マックスは陸路と海路を経るアメリカへの旅に出た。
そこから二年後、マックスはアメリカで懸命に働き妻子の渡航費用を確保。
ランスキーは10歳頃の時にグロドノを発った。
しかし旅路は順風満帆ではなかった。
貨物車に揺られる不安や検疫所などの長い行列に辟易した母イェッタは、手助けを申し出てきたユダヤ人に荷物と蒸気船の乗船券を渡してしまったのだ。
例によってそのユダヤ人は荷物と乗船券を持ち逃げした。
アメリカへの道は絶たれたかと思われたが、幸いにもユダヤ人福祉団体の助けによって助けられ乗船券を用意して貰った。
乗船券が用意されるまで母と私は別々の場所で暮らした。
母を守るのは自分の役目だとわかっていたから私は決して泣かなかった
やっとの事で乗船したランスキーはひどい船酔いに襲われた。
船酔いしてベッドに横たわり死んだように過ごした。
気分が悪くなるとメインデッキに上がり、船の柵のあいだから頭を突き出して海に嘔吐したよ
1911年4月8日、2週間に及ぶ船旅の末、ランスキーはエリス島に上陸。
そこでは行列に並び身体検査を受けた。
ここでランスキーの母は疲れからか役人に「この子は8才です」と伝えた。
実際には10才だったランスキーはこの日以来2才サバを読んで生きることとなる。
第二の故郷ブルックリン
父の待つブルックリンに到着したマイヤー・ランスキーは驚きを隠せずにいた。
ブルックリンにはユダヤ人がたくさんいて故郷と似たような暮らしをすることができた。安息日に働くこともなかった。
アメリカに到着して三週間後の1911年4月26日、ランスキーは公立小学校84に入学。
公式の記録にはこの時初めて“イホフラニスキ”ではなく“ランスキー”の名前が登場する。
恐らくアメリカでの暮らしに馴染めるように両親が姓を変えたと思われるが真相は誰も知らない。
このからランスキーと名乗るのが定着していった。
話を戻すとランスキーは優秀な生徒だった。
当時の学校では英語を使っての授業しか行われていなかった。
ラッキー・ルチアーノが英語を理解できず挫折した事を思い出していただきたい。
しかしランスキーはあっという間に英語をマスターした。
先生たちは厳しかった。
ふざけることは許されなかった。
でも私は学校が大好きだったよ
通知評に並ぶA評価にランスキーは得意気だった。
さらにランスキーは毎年飛び級を果たし、1914年6月には6年生まで進んでいた。
学校では数学の時間は多かった。
数学は好きだったね。
歴史もよく学んだ。
ローマからアメリカまでいろんな歴史を学んだんだよ
もう1つランスキーには好きなものがあった。
シェイクスピアである。
特に“ヴェニスの商人”が大のお気に入りで、暗唱できるほどだった。
1912年、ランスキー家はピトキンから7ブロック南のロッカウェイ・アベニュー894番に引っ越す。
店舗を一階に構えた赤レンガ造り、階段なし3階建てのその建物は今も当時のまま建っている。
引っ越しの理由は家族が増えたことである。
生まれたのは三人の女の子、ローズ、レナ、エスター。
ローズとレナは幼くして亡くなり、エスターは成長にするにつれランスキーを尊敬するようになった。
私は両親にとても尽くしていた。
家族みんながお互いに尽くしていた。
生きていくのにギリギリの食料しかない時もあった。
大変な思いをしたけれど、楽しい時も苦しい時も家族の間には愛があった。
愛はあったがお金はなかった。
1914年の秋、ランスキー家はブラウンズビルを後にしてマンハッタンのローワー・イースト・サイドに居を移した。
イースト・サイドは貧困世帯が殆どだった。
どう考えてもいい引っ越しではなかった。
この頃から私は家族に良い暮らしをさせられない父を軽蔑していた
この幼い頃の貧困体験こそがランスキーの原動力となる。
私は大きくなったら必ず大金持ちになり、母にいい生活を保障するのだと自分自身に誓った
ギャンブルの天才
11歳ごろの時にマンハッタンに引っ越した
ランスキー一家の新しい住まいはグランド・ストリート546番の安アパート。
このアパートはブラウンビルの家よりさらに狭く、換気も悪かった。
夏に暑く、冬に寒かった。
家ではリラックス出来ないと思い、私は図書館に通い初めた
悪いのは換気だけではなかった。
近隣に広がるローワーイーストサイドは非常に治安の悪い地域で1日中、娼婦とポン引き、シャイロックと呼ばれる高利貸し、ギャンブラーで溢れていたのだ。
ギャンブラー達がこぞって行うのはサイコロ賭博。
ある日、通りでサイコロ賭博を目撃したランスキーは衝撃を受けた。
金を得る絶好のチャンスだと思ったからだ。
ランスキーの脳は瞬時にあらゆる計算式を、どうすれ勝てるのかを導きだしていた。
毎週、金曜日にランスキーが学校から帰ると、母はいつもあるお使いを命じてきた。
それはパン屋にチョレントを運ぶというもの。
安息日の昼食であるチョレントは牛肉、豆と大麦のシチューで、ロシアの貧民街や村のユダヤ人達は習わしとして毎週作っていた。
母はランスキーにパン屋の釜代金として5セントも手渡した。
ランスキーはこの5セントを大金に変えると誓う。
金曜日の夜になると道端にはサイコロ賭博に興じる男達で溢れていた。
歩道に積み上がった5セントや10セント硬貨はランスキーには大金だった。
そして5セントを儲けることは簡単なように思われた。
さっそく賭けに参加したランスキーはあっさりと5セントを失ってしまう。
ランスキーシチューの冷たい鍋を抱えて途方に暮れた。
それから何時間も近所を歩き回り、やっと帰宅し母に真実を告げると母はわっと泣き出した。
あの5セントはランスキー家の最後の硬貨だったのだ。
今でも思い出す。
土曜の昼、食卓にシチューはなく、家族は私を無言で睨んだ
リベンジ
本当のことを言えば、家族を落胆させてしまったことについては本当に悪いと思っていた。
だが、それ以上にお金を失ったことの方が心に引っ掛かっていた。
ランスキーの心に残ったのはギャンブルに参加した後悔ではなく、負けた悔しさだったのだ。
その日からランスキーは1日中ストリートでギャンブラー達を観察するようになった。
やがて見えてきたのはギャンブルの仕組みー、プレーヤーがゲームに加わると最初は面白いように勝つ。
やがてプレイヤーが大金を稼ぐと別のプレイヤーが現れ、ベットされた金をすべて巻き上げてしまう。
その別のプレイヤーは大抵、ずっと側で様子を見ている。
この別のプレイヤー、最後に金を巻き上げるのは決まった数名の人物である。
つまりイカサマだったのだ!
ランスキーはもう1つ大切な事に気がついた。
ギャンブラー達は毎日毎日、同じやり方で騙されている。
それでもギャンブラーは取りつかれたように賭場に戻ってくる。
ギャンブルとは男を惹き付ける麻薬のようなものなのだ。
こうして多くを学んだランスキーはリベンジマッチを挑むことを決める。
再びシチュー鍋を持ったランスキーは5セントを賭けた。
だが今回は闇雲ではなく、ちょうどサクラがやってきたタイミングで賭けたのだった。
サイコロが転がるギリギリまで待って、素早くサクラと同じ出目に賭けた。
サクラが私の方を睨んだことに気づいた。
でもそこで拒否すれば、見物人の不信を買うことになる
その晩マイヤー・ランスキーは5セント多く家に持ち帰り、翌日の礼拝後はちゃんと家族で温かな昼食を囲んだ。
私は学んだ。
運のいいギャンブラーなんてものは存在しないのだと。
存在するのは勝者と敗者だけ。
ゲームをコントロールする方が勝者だ
それからというもの、マイヤーはローワー・イースト・サイドのクラップスゲームを巡るようになった。
こっちで5セント、あっちで5セント。
サクラと確信できる者がいる時にしか賭けないように注意した。
そして顔を見られる前に勝負から身を引いた。
母のお金を賭博に使うことは二度となく、その必要もなかった。
マットレスの隅に拵えた穴の中に儲けを隠し、財源としていたのだ。
若干13才でギャンブルの必勝法を発見したランスキーはここから暗黒街に足を踏み入れて行くこととなる。
相棒 ベニー・シーゲル
ベンジャミン・シーゲルに初めて会った時のことは忘れられない。
ベニーはその時、喧嘩をしていた
街角の陣地を巡って敵対するクラップス賭博屋同士が衝突し、何かの拍子で拳銃が一丁、地面に落ちた。
ランスキーより4歳か5歳年下の整った顔立ちの少年がそれを拾おうとし、銃をつかんだその時に警笛が鳴り響いた。
銃の持ち主は、拾った少年に凄んだ。
警笛が近づくにつれ、もみ合っていた賭博屋たちは散り散りに逃げ出し始めた。
その中で少年は一人まるで意に介さない風に拳銃を目線の高さに掲げ、銃を奪ったその相手にゆっくりと向けた。
ランスキーが仲裁に入ったのはこの時だった。
「頭がおかしいのか」とランスキーは叫んだ。
それから少年の腕をつかみ、銃を落とさせ、二人で走って逃げた。
だが、せっかく助けてやったにも関わらずベニーは感謝も感心も見せなかった。
ただ「あの銃が必要だったのに」と怒っていたな
ランスキーはベニーと話すうちに、その人柄に惹かれ始めた。
ベニーは暴力的でクレイジー、行動力に溢れそれでいて可愛い笑顔していた。
内向的なランスキーとは正反対の人物だったが、そんな部分が気に入ったのだ。
ランスキー一味
1914年から1920年にかけて、ベニーと知り合ったことをきっかけにランスキーには不良仲間が増えていった。
仲間内で最も凶暴で最年少のベニー。
ランスキーの弟でのんびり屋さんのジェイク。
マイクと名乗っていたマイヤー・ワッセル。
通称“レッド”と呼ばれていたサミュエル・レヴァイン。
ランスキーのいとこのアービング・サンドラー。
巨漢で気の強いジョゼフ・“ドク”・スタチャー。
ジャック、マイク、レッド、タボにドクは控えめながら誠実なランスキーを慕っていた。
このような凶暴な連中に慕われるというのは一種の才能でもあった。
特にベニー・シーゲルは誰も手がつけられず「ベッドバッグ(南京虫)のようにイカれてる」と言われていたほどだ。
その悪口はやがて“バグジー”というあだ名に変わった
バグジーの名誉の為に言うならば、彼は狂っている一方で頭の切れる男でもあった。
特に喧嘩の駆け引きは見事なもので、ストリートでは無敵の不良だった。
こうして不良グループの束ね役となったランスキーは次に“あの人物”と出会うこととなる。
ユダヤ人とイタリア人
それはニューヨークの凍てつくような寒い冬の日だった。
「ユダヤ人の居住区はイタリア人とアイルランド人との間に挟まれていた。
私は気づくと若いイタリア人のギャングに取り囲まれていた。
リーダーは十代後半の若いシチリア人で、がっちりとした体格だった。
髪は黒くカールしており、唇は厚く、太く威圧的な眉毛をしていた。
ひどいニキビ面でなければ、もっとハンサムだったに違いない。
仲間からはチャーリーと呼ばれていた」
このチャーリーとは後のラッキー・ルチアーノである。
ルチアーノはユダヤ人をターゲットにカツアゲを行っていたのだった。
ルチアーノ率いるイタリア人グループに囲まれたランスキーは多勢に無勢であったにもかかわらず、「1セントも渡す気はない!くそくらえ!」といいはなった。
ルチアーノは小柄な少年の度胸に感心したようで、ランスキーもニキビ顔の少年から特別なものを感じ取っていた。
私たちが初めて協力したのはアイルランド人に対抗するためだった。
アイルランド人の少年たちは道でユダヤ人を呼び留めて、割礼しているかどうか見るために脱がせたりした。
さらにユダヤ人と見たら唾を吐きかけたり髭を引っ掴んだりしていた。
アイルランド人とイタリア人がもめたり、アイルランド人とユダヤ人がもめたりすると、警察はいつもアイルランド人の味方をした
こういう訳でランスキー一味とルチアーノ一味は共同戦線を張ったのだった。
ユダヤ人は毎日のようにアイルランド人達に痛めつけられていた。
私たちには選択肢があった。
逃げるか闘うか。
闘うとすれば、それは他にも色々なことが付随する。
堅気の生活
ランスキーは15歳の誕生日の数週間前に学校を卒業した。
同級生の多くは衣類製造業に就職したが父はこれに反対だった。
「お前にはあんな仕事をさせない。結核で早死にしてしまう」と父はいった。
意外なことにー、父には先見の明があった。
父はこれから自動車の時代が来ると見込み、親戚を通じて金型屋の仕事を息子に見つけてきたのだ。
しかも、いずれは整備士になれるという、当時にしてはなかなかの条件だった。
最初のころは1時間10セント、週に52時間労働だった。
いい待遇ではあったが、これは私の仕事ではないと感じていた
本当はー、私は勉強を続けたかった。学ぶ意欲はとてつもなかった。
工学を本格的に学びたかったが、境遇がそれを許さなかった
金型屋の親方はランスキーの器用さをよく褒めた。
「君は黄金の手を持っている。20年もたてばプロになって儲かるようになるよ。1時間に1ドルだって夢じゃない」と。
1ドルなどサイコロを振ればわずか数分で手にできると考えるランスキーにとって、20年後に1時間1ドルという目標は馬鹿げたものだった。
いつしかランスキーは街で見かけるハットにスーツを着たギャングたちを目で追うようになっていた。
自分のいるべき世界はあちらなのではないかと思い始めていたのだ。
しかし、ギャングになるという事は思っている以上に難しい事だった。
グレーの男
1917年、ランスキーは金型屋で働き、夜は終わったあとバーの階上で営まれるサイコロ賭博屋で働いていた。
ボスはそのあたりでいくつかの賭博場を兄弟経営していたユディーとウィリー・アルバートで、二人はランスキーに見張り兼用心棒を任せていた。
ある日、友人のダニエル・エイハーンとロシアン・バーで飲んでいたランスキーは、用心棒を探している組合オルグの男と知り合う。
ニューヨークの北、ハドソン川を30マイル遡ったピークスキルの工場で、組合が閉鎖しようとしている工場の中でスト破りが寝泊まりしているという。
そこで男はこう依頼した。
「ユダヤ人の整備士長がいる。
そいつを始末すれば生産速度が鈍る」
エイハーンとランスキーは仕事に取り掛かった。
エイハーンはこの仕事をこう振り替える。
「その整備士長の後をつけて、同じ電車に乗ったがグランド・セントラル駅で降りた後の人混みで見失った。
だが住所を知っていたので、タクシーでそこへ向かって待ち伏せることに成功した。
ターゲットはウィリアムズバーグ地区に住んでいた。
我々は道をはさんで家の反対側で待機していたが、彼がタクシーから降りても人目のある自宅前で襲うことはしなかった。家の中でやろうと決めた。
扉をノックすると、女性が『誰に用?どなたですか?』と聞いてきたので、『電報です』と答えると扉が開いた。
そこで押し入り、家の中に入っていってそこにいた男にマイヤーはすぐに襲い掛かった。
それが整備士長だった。
マイヤーは手に鉄パイプを持っていた。それで殴った。
やつは崩れ落ちた。」
この仕事で二人は組合から報酬をもらい、褒められた。
それからは似た仕事を引き受け続けた。
工場に侵入して機械を壊したり、商品に酸をかけたり、スト破りを襲ったりだ
それから二人はサイコロ賭博の仕事も始めた。
もめ事に目を光らせたり、警察が来ないよう見張ったり、そんな内容だ。
銃を持つこともあった。
報酬に加えて、経費が引かれた後の儲けが10%支払われた。
これだけでは空き足らずランスキーとエイハーンは窃盗にも乗り出す。
家の屋根裏に押し入り、盗んだものを次々と売り捌いたのだ。
1919年、やり過ぎたエイハーンは窃盗で逮捕され服役。
ランスキーはというと1918年10月25日に初めて逮捕された。
罪状は暴行罪だったがこれは不起訴に。
1918年11月15日には売春婦に迷惑行為を行ったとして二度目の逮捕を経験。
こちらは罰金2ドルを支払って釈放された。
ノーコメント
この一件についてランスキーは口を閉ざしているが、売春婦のポン引きをかってでた事からトラブルに巻き込まれたと見られている。
新しい時代
1920年1月、アメリカはボルステッド法により禁酒法時代へと突入。
バグジーやルチアーノ、その他のギャングは禁止法を千載一遇のチャンスと捉えた。
そしてランスキーも。
ランスキーは3年強続けた金型屋の仕事を辞め、一旗あげることを決意する。
これまで金型屋の仕事を続けていたのは生活の為であった。
実はこのケースは珍しいことではなかった。
当時は腰掛けの仕事をしながら“一人前”を目指すギャング志望が大勢いたのだ。
20世紀初頭、この果てしないニューヨーク暗黒街の頂点にいたのはユダヤ人のアーノルド・ロススタインだった。
ロススタインは幾つかの競馬場と豪邸、それにお洒落な内装の事務所を所有していた。
加えて、ロススタインは初めて“紳士的な服装”と“合理的な犯罪組織”をギャングに提唱した人物で、イタリア人を差し置きニューヨークの政治家をも握っていた。
ランスキーが帝王 ロススタインが出会ったのはブルックリンで開催されていた共通の知り合いの息子の成人式でのことである。
ランスキーは憧れの人物であるロススタインに自分を売り込んだ。
パーク・セントラル・ホテルでのディナーに招待された。
そこで6時間も座って話をした。
私にとっては驚きだった。
ロススタインははっきりと、私が野心的でハングリーだから選んだのだと言ってくれた
ロススタインは犯罪の才能がある者を見抜くのが上手く、見込んだものには金やコネを与え、後押しをしていた。
ロススタインが目をかけた若手ギャングはラッキー・ルチアーノ、ジャック・ダイアモンド、ダッチ・シュルツ、ワクシ―・ゴードン、アブナー“ロンギー”・ツヴィルマン、フランク・コステロなどの後の大物たち。
彼らはあくまでも後押しを受けるだけであったが、ランスキーは正式にロススタインに雇われ働くこととなった。
酒の密輸
ランスキーにあてがわれたのは酒を密輸する仕事。
密輸の拠点はローワー・イースト・サイドのキャノン・ストリートのガレージで表向きには車とトラックのレンタル会社だった。
ランスキーはパートナーとしてバグジーとモー・セドウェイを引き入れ仕事を始めた。
この時、金型屋で積んだ経験が活かされた。
当時、車とトラックのレンタル業はなかなか儲かる商売で、車を一日貸し出すと15ドルの儲け。
当時の15ドルは中々の金額だったのだ。
ロススタインは車の大量生産によってアメリカで色々なことが変化するだろうと私たちに教えた。
私も自分たちの業界でそれが重要な意味を持つことに気づいた
効率的な密輸は効率的な移動に尽きる。
キャノン・ストリートの“ランスキー・シーゲルガレージ”は密輸酒やその他の違法な物品を運ぶのに最適なカムフラージュだった。
ニューヨークに密輸されてくる酒は主に二つのルートを辿ってくる。
まず、外国で登録された貨物船がアメリカの領海のすぐ外側、12マイルほどの沖合にいかりを下ろし、暗闇にまぎれて高速のモーターボートが領外地域へ急ぐ。
そして積み荷をロング・アイランドやジャージー・ショア沿いに点在する小さな港や入り江へと運ぶ。
それから積み荷を下ろし、トラックで目的地へと運送する。
酒を運ぶトラックがガレージに到着すると、モー・セドウェイが引導。
バグジーとランスキーは余計なことを尋ねずに車両を貸し出し、自分たちが配送をしなければならない時は友人に有償で運転を依頼した。
ちなみにこの依頼を最も多く受けたのは旧友のレッド・レヴァインであった。
ルチアーノとランスキー
ラッキー・ルチアーノの酒の密輸を引き受けたのもランスキーだった。
ルチアーノの仲間 フランク・コステロが警官たちを買収し販売ルートを保証。
ランスキーとバグジーが輸送ルートの安全を保証するという具合である。
ランスキー自身もブルーム・ストリートに酒密売店を構えた。
酒の需要は供給が追い付かないほどで、密売店はいくらあっても足りなかったほどだった。
しかし、ランスキーが本当にやりたかったのは酒の密売ではなくギャンブルビジネスだった。
酒の密売で資金を蓄えてランスキーは遂に自身のカジノを出店。
このカジノは小規模ながら酒が飲めるので大変、人気となった。
やがて事業が発展するにつれ、ランスキーの監督は行き届かなくなり、信頼のおけるパートナーを探す必要に迫られるた。
目をつけたのは弟のジェイク。
ジェイクは忠実で、兄のことを慕っていたし、口も硬い、正に適役だったのだ。
ジェイクは学校を卒業してから毛皮産業に就職していた。
衣類産業の中では毛皮は待遇は良かったが、次第にジェイクもより儲かる闇のビジネスに惹かれていった。
レストランの常連
ジェイクの日常はランスキーと会って話すことを中心に回っていった。
ランスキーはデランシ―・ストリートにあるラトナー・コーシャー・レストランの奥の一室を本部としたので、ジェイクも毎日そこに通う事になった。
デニッシュや緑色のピクルスを囲んでビジネスの話をするのはランスキーのお気に入りであった。
メンバーはランスキー兄弟とバグジー・シーゲル。
三人半朝食に集まり、ゴシップや笑い話をはさみながら資料を並べ、前夜に怪しいことがなかったか確認し、その日の予定を確かめたりした。
ちなみにランスキーの朝食は決まってはコンビーフ、昼食は牛タンのサンドイッチ。
コーヒーはあまり飲まなかったが、タバコは一日に三箱を吸うヘビースモーカーだった。
三人は仕事人間だったが、楽しく仕事をすることにしていた。
売り上げと散財とが継ぎ目なく織り込まれた日々は、普通の職業では得られないものばかり。
テーブルの砂糖容器越しに取引を考えたり、バグジーが買った帽子やコートやダイヤのタイピンを品定めするのは愉快だった。
ランスキーたちは9時5時で働くことはなく、ペーパークリップに触ることもない。
ラトナーのオーナーは三人が怪しげな人物であることには薄々感づいていたが、愛想が良いので気にしないことにしていたという。
「このスマートな出で立ちの若者たちが何か良からぬことに携わっていることは気づいていた。だがランスキー兄弟はいい顧客で、ウェイターに対しても感じが良かった。」
このようにビジネスを拡大していったランスキーはそのコツをこう話す。
色んな事業を手がけてきた男たちについて見聞きしたり読んだりしてわかったのは、最終的に上に行くのは誠実なやつだということだった
この言葉の通りランスキーは仲間にも取引相手にも誠実で、金をちょろまかさない。
そこでギャング達はこぞってランスキーにカジノを任せたり、酒の密輸を頼みたがったのだ。
私はチャーリーやベニーと違い派手な服や宝石に興味がなかった。
だから金の僕になることはなかった
ビジネスが拡大するにつれ、ランスキーは1日中ラトナーで過ごすようになっていった。
端からみるとランスキーは座ってタバコを吸っているだけであったが、その頭の中ではあらゆる取引が進行していた。
自分の記憶を信じることだ。
仕事のことは全部帽子の中に隠しておけ
ランスキーは遠隔で指示を出す分、雇うギャングには厳しい規律を課すことにした。
目立つ服は着ないこと、喧嘩したり派手な振る舞いはしないこと。
また、良い仕事をした者にはインセンティブを出すなどして士気を高めていた。
私はフォード・モーター・カンパニーのような仕事を心掛けていた。
人を撃ったり殺したりするのは効率が悪い。フォードの営業マンはシボレーの営業マンを撃ったりしない。競り勝てばいいからだ
撃たないに越したことはない。
道理に基づいて説得するか、それがダメなら脅しだ。
逮捕
1928年、ランスキーは釈放されたダニエル・エイハーン、バグジー、レッド・レヴァインと共にジョン・バレットをドライブに連れ出した。
バレットは片道のドライブに連れ出されたのだ。
車が山の中に入るとバレットは全てに勘づき、もの凄い早さで草むらを走り出した。
慌てた面々は次々に発砲したが、バレットは逃げきった。
後日、その時の怪我でバレットが入院したと聞きランスキーは行動に移る。
「いい案がある。モット・ストリートのイタリア人を知ってるから、そこで毒入りのチキンを手に入れよう。・・・彼のかみさんは俺が車に乗ってたのを知ってるから俺は無理だが、お前から渡せば疑われない。」とランスキーはエイハーンに持ちかけた。
エイハーンはこう振り返っている。
「そういうわけで、モット・ストリートで’毒入りのチキンを入手した。
当時はバレットに頭に来てたことを認めるよ。
確かグレイスという名前のかみさんに会って、『見舞いにいくようだから、これを渡してくれ。俺からだとは伝えるな。サプライズだ』と言うと、彼女はそれを受け取って病院へ向かった。
後で彼女とまた会ったら、俺に物凄い悪態をついてくる。
どうやら彼が、『誰からもらったチキンだ?』と尋ねたらしい。
彼女が俺からだと言うと、彼はチキンを窓から投げ捨てたんだと。」
1928年3月6日、ランスキー達はバレットに対する重暴行罪で逮捕されてしまう。
刑事ジョゼフ・P・ハインリヒが事情聴取を行うとジョン・バレットはすんなり口を割った。
バレットによると、事件の晩ルイス・“レプケ”・バカルターというギャングのの家で集会があった。
ある倉庫での窃盗をめぐって口論になり、バレットに警察にばらした疑いがかけられた。
そしてレプキの家を車で出た後に事件が起きたというわけだ。
しかし数週間後、怪我も治り法廷に立てるようになったジョン・バレットはすっかり気が変わっていた。
バレットは怯えランスキーに不利な証言をすることを拒否。
ランスキー達は無罪放免となった。
1918年10月から1931年11月のあいだにランスキーは7回の逮捕を経験した。
そのほとんどは微罪や不起訴、交通違反である。
1929年1月の六度目の逮捕ではバグジーと共に麻薬取締法で逮捕された。
だがこちらも不起訴となっと。
ちなみに、七度目は1931年11月で禁止法違反で100ドルの罰金を支払った。
1936年6月ごろ、ニューヨーク市警察は全てのマフィア関連書類を破棄、さらにランスキーも“都合の悪いことは忘れる病”にかかったため真相は闇の中だ。
全く知らないことばかりだ。
きっと青二才ゆえの不注意だったんだろう
ロススタインの死
1928年11月4日の夕刻、アーノルド・ロススタインはレストランのお気に入りのテーブルでいつものように仕事をしていた。
やがてロススタインに電話が一本入った。
それを受けたあとロススタインは七番街へ急いで出て、56ストリートのパーク・セントラル・ホテルに向かった。
電話の内容に思い当たりがあるか尋ねられたリンディズのレジ係エイブ・シャーは、何を話したか全く知らないと答えている。
「彼の話し方は、そばに立っても何も聞こえない。」
その晩、ロススタインはパーク・セントラル・ホテルの使用人入り口そばで倒れているところを発見された。
腹部に被弾しておひ病院に運ばれたが、警察に口を割らないまま息を引き取った。
「言うつもりはない。
君は自分の仕事を、私は私の仕事をする」
これがロススタインの最期の言葉であった。
動き出すマフィア
「ラッキー・ルチアーノは二つの世界を生きていた」とマフィアのボス ジョゼフ・ボナンノは後に語っている。
一つはユダヤ系の世界。
もう一つはイタリアマフィアの世界である。
今まで均衡を保ち両立していた世界はロススタインが去ったことで崩壊。
イタリアマフィアの世界では二大勢力 のサルヴァトーレ・マランツァーノとジョー・マッセリアの抗争が始まった。
彼らの世界はあまりに高潔で気にくわなかったね。
マフィアの奴らは自分以外誰も信用しなかった
平たく言うとランスキーはユダヤ系を見下す両勢力を嫌っていた。
そこでランスキーは新しい世代の価値観を共有するラッキー・ルチアーノがマフィアのトップに立つべきだと考えるようになる。
1931年初頭にはブルックリンやローワー・イースト・サイドには無数の死体が転がった。
マランツァーノの腹心だったジョゼフ・ボナンノは当時をこう語る。
「マランツァーノが交戦の前夜に武器に油をさし、弾薬や弾丸を量るのを間近で見ていた。
散弾銃用の弾丸を込める様子はまるで神聖な儀式のようだった。」
一方でマッセリアの腹心ラッキー・ルチアーノはボスに心酔してはいなかった。
ビジネスを辞めて戦争に明け暮れるなど正気の沙汰ではないと思っていたのだ。
そこでルチアーノとランスキーは一計を講じる。
1931年、ルチアーノはサルヴァトーレ・マランツァーノに会いに行った。
そこでルチアーノはマランツァーノの為にマッセリアを消すと提案。
ボナンノは語る。
「ルチアーノのことはよく知らなかった。それまでは彼はパートナーのマイヤー・ランスキーと独自で仕事をしていたから」
1931年4月15日、食事中のマッセリアはバグジー等によって射殺された。
これによりサルヴァトーレ・マランツァーノがニューヨーク暗黒街の覇権を握った。
マランツァーノの天下
マランツァーノは全米のマフィアを集め会議を開いた。
マランツァーノは飛行機をチャーターしてホテルの上空を旋回させ、集まったマフィア達に「飛行機には爆弾とマシンガンを搭載している」と告げた。
会議の間中、頭上を威圧的に旋回する飛行機のエンジン音が響き渡っていたという。
そこでマランツァーノは自らがマフィアを支配する“ボスの中のボス”になると宣言。
全員に忠誠を誓わせた。
ユダヤ人であるランスキーは招待もされず、忠誠を求められすらしなかった。
不満なランスキーとうんざりしたルチアーノはマランツァーノ暗殺に向けて根回しを始める。
殺し屋を手配したのはランスキーとバグジー。
二人のガレージで働くユダヤ系ギャング達は顔がバレていないので都合が良かったのだ。
選抜されたのは後にダッチ・シュルツのボディガードとなるエイブ・“ボー”・ワインバーグ、旧友のレッド・レヴァインなど。
ランスキーは殺し屋達に入念な指導を行い国税局の職員に化けさせた。
1931年9月、国税局の職員を装った殺し屋たちがサルヴァトーレ・マランツァーノは射殺。
こうしてルチアーノはランスキーと二人三脚で旧世代のボスを一掃し、覇権を握った。
もうひとつの戦い
1920年代後半、マイヤー・ランスキーは恋に落ちた。
三十を間近に控えて腰を落ち着けようと考え始めたマイヤーと時を同じくして、無謀にも思えることに、友人のベニー・シーゲルも同じ方向に動き出そうとしていた。
バグジーとランスキーはパートナーとしてキャノン・ストリートの密輸ガレージを共同運営しながら、恋の相手を探すにあたってもタッグを組んだのだ。
1972年に二人はローワー・イースト・サイドの出身であるアン・シトロンとエスター・クラッカワーと付き合い始めた。
二人はいずれも家族は東ヨーロッパのユダヤ系の出身で品のある女性。
ランスキーとバグジーは育ちの悪さを隠し、現金と新車を武器に二人を口説いたのだった。
努力の甲斐あってエスターがベニーの、アン・シトロンがランスキーの恋人となった。
二人の女性は金の出所を知らないわけではなかった。
アンはランスキーが運営するガレージが違法な商いに使われていることは知っていたが、あまり気にしないことにしていた。
むしろランスキーの手腕を誇りに思っていたのだ。
ランスキーがアンを選んだのはその性格から。
アンは明るく、内気なランスキーに活気を与えてくれる。
対してエスターは荒くれ者のバグジーを落ち着かせた。
エスターと付き合い初めてからのバグジーは女遊びを辞め、大人しくなったほどだ。
1929年、二つのカップルは結婚。
バグジーとランスキーはお互いの仲人を務めた。
二人の結婚までの数ヶ月は慌しかった。
ランスキーはアメリカ人として帰化する手続きを進め忘れており、いくつかの前科のせいで危うく市民権を失う恐れもあったのだ。
だが、なんとか帰化面接を突破したランスキーは無事アメリカ人となった。
1930年1月15日、アン・ランスキーは二人の第一子を出産。
子供は父親に似て利発ですばしっこくも、小柄な方だった。
若い夫婦は長男に、親戚の名前から取ってバーナードとアーヴィングという名を与えたが、すぐにバディの愛称で呼ぶようになった。
バディ・ランスキーはご機嫌な子供で、赤ちゃんにしては大人しかった。
だが6か月が経つとアンは我が子が他の子供と比べて発達が遅い事に不安を覚え始めた。
バディは座ることがなかなかできなかったし、ハイハイも遅かったのだ。
ランスキーの弁護士で家族ぐるみの付き合いもあったモーゼス・ポラコフは、バディが立ち上がらなかったことを記憶している。
「私が遊びに行くと、バディーはニコニコと健やかに笑っていたが、常にハイハイしていた」
バディを診察した医師たちが下した病名は脳性麻痺。
医師によると脳と運動神経の伝達がうまくいかない病気とのことだった。
ランスキーは大きなショックを受けた。
ランスキーは診断を受けた直後から三日間も行方をくらまし音信不通に。
それからランスキーはやっと子供と向き合う決心をした。
ランスキー親子
ランスキーは図書館へ通い、脳性麻痺の事を徹底的に調べ、それから治療を施せる医者を探し始めた。
1931年から1932年の間、ランスキーはこの病気の治療の権威を求めてニューヨークからカリフォルニアまで横断し、電話をかけ続けた。
その行脚には妻子も同行した。
ある時は新しい技術を開発したオーストリアの整形外科医ニューヨークへ呼び寄せた。
また、ある時はオウニー・マドゥンがアーカンソーのホット・スプリングスで鉱泉療法と高級違法カジノリゾートを経営しているというので、そこまで出向いた。
だがオーストリア人医師もアーカンソーの鉱泉も治療の鍵は握っていなかった。
これまで大抵のトラブルを金で解決してきたランスキーにとって、これは初めての挫折であった。
ユダヤ人の時代
話を戻すとサルヴァトーレ・マランツァーノが去ったあとラッキー・ルチアーノが暗黒街のリーダーとなった。
この意外な余波としてユダヤ人ギャングが次々と台頭し始める。
ルチアーノの相棒がユダヤ人であったことから、ユダヤ系ギャング達はマフィア組織の中で一定の地位を得たのだ。
ニューヨークではダッチ・シュルツ、ジェイク・シャピロ、バグジー・シーゲルが。
ニュージャージーではドク・スタチャーやアブナー・“ロンギ―”・ツウィルマンが、フィラデルフィアではハリー・ストロムバーグ、ミネアポリス・セントポール都市圏にはキッド・キャンがいた。
さらにさらにクリーブランドにはモー・ダリッツとそのパートナーのサム・タッカー、ルイス・ロスコフ、モリス・クラインマン。
シカゴではアル・カポネの右腕 ジェイク・“グリージー・サム”・グージックやマレー・“ザ・キャメル”・ハンフリーズが勢力を伸ばした。
さらにランスキーはマフィア界のトラブル処理組織“殺人株式会社”を立ち上げ。
ランスキーの運営していたガレージにいた荒くれ者たちの多くは殺人株式会社という殺し屋集団のメンバーとなる。
この殺人株式会社のリーダーに抜擢されたのもユダヤ人のルイス・“レプケ”・バカルターだった。
これまでマフィア界の主役はあくまでイタリア系だった。
しかし、ここからユダヤ系を中心に歴史が動いてゆくこととなる。