三分で学ぶ パープルギャング

三分で学ぶ パープルギャング

三分で学ぶ パープルギャング

デトロイトのオークランド・シュガーハウス・ギャング、通称パープル・ギャングは、当時最も暴力的で残忍なギャングのひとつだった。

パープル・ギャングの主なメンバーはユダヤ人で1910年頃から1930年代半ばまで活動。

全盛期は1920年代後半とされている。

禁酒法時代、メインのビジネスはデトロイト川の対岸にあるカナダからアル・カポネのために酒を密輸することだった。

カポネや他のマフィアはカナダから大量の酒を購入していたが、パープル・ギャングはその主要な仲介役だったのだ。

夏にはカナダから船で酒を運び、川を渡ってわずか10分ほどで仕事が終わる。

また、冬で川が凍っているときはトラックで氷の上を走っていたという。

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そして案の定こうなりました

パープルギャングの歴史

その成り立たちは禁酒法以前にさかのぼる。

ミシガン州が1916年に酒類の販売が禁止デーモン法という州法を採択。

しかし、この法律はカナダが近くにあり、近隣の州でも酒類の販売が合法であったためほとんど意味をなさなかった。

裁判所も違反者には寛大な態度で臨んだ。

そこでギャングたちは酒の密売組織を立ち上げる。

これが後のパープル・ギャングである。

1919年にはこの法律は違憲であると宣言されパープル・ギャングは仕事を失ってしまう。

だが翌年1920年に禁酒法として知られる憲法修正第18条が施行されると活動を再開。

多くの人が予想していたように、アメリカは新法を無視して酒を飲みたがった。

アメリカ中のギャングがその欲求を満たそうとする中、デトロイトのギャングは先手を打っていた。

デイモン法のおかげで、彼らはすでにカナダに供給者と配送ネットワークを確立していたのだ。

だが新たな問題が起こる。

禁酒法が施行されライバルが増えた事でビール戦争が始まったのである。

パープル・ギャングの初代メンバーは、デトロイトのローワー・イーストサイドにあるヘイスティング・ストリートの出身だった。

彼らは1881年から1914年までの大移民時代にアメリカにやってきたロシアやポーランドを中心とした東欧からの移民の息子たち。

ギャングを率いていたのは、エイブ、ジョー、レイモンド、イジー・バーンスタインの4兄弟で、両親はニューヨークからデトロイトに移住してきたばかりだった。

エイブ

彼らは、最初はケチな泥棒やゆすり屋だったが、やがて武装強盗やゆすりなど、より利益の大きい分野に進出していく。

また、その野蛮さで瞬く間に暗黒街に名を轟かせた。

パープル・ギャングという名前の由来には諸説あるが最も広く受け入れられているのはこうだ。

ある店主が警察に言った。
「この子たちは他の年頃の子供とは違う。”彼らは汚染されていて、色がない。腐っていて、悪い肉の色のような紫色をしている。彼らは “パープル・ギャング “だ」と。

暴力の評判が高まるにつれ、人々はこのギャングを恐れ、距離を置くようになった。

シカゴのアル・カポネでさえギャングには不信感を抱いていたし、軽蔑の眼差しで見ていた。

しかしアル・カポネは、自分の事業を拡大するチャンスだと考え、すぐにパープル・ギャングの供給ルートや人脈を利用してビジネスを展開することにした。

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マイヤー・ランスキーとも取引がありました

一方、パープル・ギャングに恐れ多くも戦争を仕掛けた者がいた。

それは後の大統領の父であるジョセフ・ケネディ。

ジョゼフケネディ

禁酒法時代、ケネディはイギリスやアイルランドから仕入れた酒類をカナダで密造していた。

近い縄張りで活動するケネディとパープルギャングは対立。

パープルギャングはケネディに殺し屋を差し向けた。

これに恐れをなしたケネディは、シカゴのマフィアであるジョセフ・”ダイヤモンド・ジョー”・エスポジートを頼る。

エスポジートが介入してケネディ暗殺司令はなんとか撤回された。

ケネディは何とか殺されずに済んだが、エスポジートはそれほど幸運ではなかった。

シカゴ19区の有力な区長でもあったエスポジートは、カポネの強力なサウスサイド・ギャングをはじめ、リトル・イタリーの密造酒ギャングを政治的に保護していた。

しかしエスポジートは1928年に自宅の階段で2人の幼い姪の前で銃殺されたたどこている。

ただしこの事件は未解決のままである。

クリーニング戦争

1924年、デトロイトのクリーニング業界はマフィアに乗っ取られそうなほど、不安定で苦しい状況にあった。

競合する企業は、顧客を獲得するために価格を利益水準よりも下げ、量をこなして経費を捻出しようとしていた。

さらに仕立て屋はクリーニング代を払わずにクリーニング屋を転々とすることが多かった。

その結果、クリーニング店と仕立屋は大混乱に陥り、組織化を図り価格の基準や管理を行う機会を模索していた。

これをデトロイトに組織犯罪の拠点を作るチャンスだと考えたデトロイト労連のフランシス・X・マーテルとパープルギャングは、シカゴのマフィアであるベン・エイブラムスにギャングの隠れ蓑として使える組合の設立を依頼。

エイブラムスは価格をコントロールして市場を安定させ、仕立屋が理由もなくクリーニング会社を変えることを防ぐことを誓う「卸売りクリーニング業者協会」を設立した。

エイブラムスはシカゴに戻る前に、チャールズ・ジャコビー・ジュニアを新協会の会長に指名する。

ジャコビーはパープルギャングのリーダーであるバーンスタイン兄弟の義理の兄だった。

ところが卸売りクリーニング・ダイアーズ協会は、ランドリー業界の改善にはほとんど貢献しなかった。

それどころか組合費をパープル・ギャングの不正活動に流していただけだった。

しかし、会費を払えば組合員はパープルギャングから保護される。

組合への加入を拒否した者は、ギャングから嫌がらせを受け、警告としてランドリー施設に悪臭爆弾を投げ込まれたり、窓ガラスを割られたり、工場の設備を壊されたりした。

だがそれはまだいいほうである。

中には拷問を受けるものもいたし、1925年10月26日には組合に反対していた2つの企業が爆破され中にいた者が死亡している。

爆破された建物

1928年、チャールズ・ジャコビーJr.は、エイブとレイモンド・バーンスタイン、アーヴィング・ミルバーグ、エディ・フレッチャー、ジョー・”ハニーボーイ”・ミラー、アーヴィング・シャピロ、エイブ・カミンスティ、エイブとサイモン・アクスラー兄弟とともに、組合に関連して金銭を強要したとして起訴された。

しかしすべての被告は無罪判決を受け、無罪となった。

この裁判により組合ビジネスは終了。

これを機にパープル・ギャングはこれまで稼いだ金を使って新たなビジネスを始めた。

詐欺や企業経営などパープル・ギャングは物凄い勢いで勢力を拡大してゆく。。

暗殺事件

1920年代半ばになると、パープルギャングはかつてセントルイスで活躍したアイルランド系ギャング イーガンズ・ラット のメンバーだったフレッド・”キラー”・バークとガス・ウィンクラーと手を結んだ。

この2人はアル・カポネとも仕事をしており、聖バレンタインデーの虐殺に参加したとも言われている。

バークとウィンクラーは、何人かの仲間と一緒にパープルギャングの酒の流通を監督し仕事を手伝うようになった。

バーク(左)ウィンクラー(右)

1926年のクリスマスの夜、酒場経営者のジョニー・リードが、デトロイトのイースト・グランド・ブルバード3025番地のアパートの裏で射殺された。

リードは、イーガンズ・ラッツの元メンバーでもあり、パープル・ギャングの酒ビジネスを長年担当していた人物。

その年の初め、リードと数人の仲間はマフィアのマイク・ディピサと銃撃戦を繰り広げていた。

リード達は相手を打ち負かしたが、ディピサは復讐を誓いリードに殺し屋を放ったのだった。

実はリード暗殺には別の説もある。

シカゴの宝石泥棒でデトロイトに移ってきたフランク・ライト説だ。

ライトは殺人事件の直後から、ニューヨークの2人の強盗、ジョセフ・ブルームとジョージ・コーエンとともに、身代金目当てにデトロイトのギャンブラーを誘拐し始めた。

誘拐された人々の多くはパープルギャングと関係があり、バーンスタイン兄弟の目に留まった。

そして1927年2月3日、バーンスタイン兄弟の長年の仲間であるパープルギャングの麻薬密売人ジェイク・ワインバーグを銃殺した時、彼らはついに一線を越えてしまった。

バーンスタイン兄弟は決断を下すことにしたのだ。

バークとウィンクラーは、ライトの友人であるマイヤー・”フィッシュ”・ブルームフィールドを誘拐。

身代金とマイヤーを交換しようと誘い出した。

1927年3月28日の午前4時30分、待ち合わせ場所のアパートの一室にライト、ブルーム、コーエンが到着。

彼らが308号室のドアをノックすると、廊下の突き当たりにあった防火扉が開き、3人の男がピストルとサブマシンガンを発砲。

3人は全員被弾したがライトだけは裏階段から逃げ出した。

後に検死官が言うには、「彼らは銃弾にまみれていて、それぞれが何回撃たれたのか正確には判断できなかった」そうだ。

驚くべきことに、ライトは14発の銃弾を受けながらも生きていた。

通りで倒れ病院に運ばれたライトは犯人を見たかと聞かれても「機関銃が効いた」としか答えず、午前0時を過ぎた頃に亡くなった。

この銃撃事件はデトロイトのギャング殺人事件で初めてサブマシンガンが使われたということもあり、新聞の見出しを飾った。

308号室の捜査ではエディ・フレッチャー、エイブとサイモン・アクスラー兄弟、ジョー・”ハニー・ボーイ”・ミラー、ジョン・トルズドルフなど、複数のパープル・ギャングのメンバーと関連付ける証拠が見つかっている。

大虐殺の翌朝、デトロイトの警察官3人がウッドワード通りで車を止め、エイブ・アクスラーとフレッド・バークを逮捕した。

フレッド・バークが機関銃を担当。
アクスラーとフレッチャーがそれを補佐していたと考えられている。

ちなみにアクスラーとフレッチャーは、いつも一緒に仕事をしていて、仲間以外にはほとんど姿を見せないことから「シャム双生児」と呼ばれていたそうだ。

結局、逮捕されたメンバーは起訴はされなかったものの、この事件をきっかけにパープル・ギャングは全国的に有名な存在となったのだが。。

崩壊

エイブとフレッチャー

虐殺事件をきっかけにパープル・ギャングは警察を恐れなくてもいいようになっていた。

大抵の目撃者はパープル・ギャングを恐れ、証言を拒否したからである。

無敵となったパープル・ギャングは派手な服装をし、夜な夜なナイトクラブで金と権力をひけらかすようになった。

これにより世間はギャングに反感を抱き始め、逆に警察には街の犯罪要素を一掃するよう圧力がかかるようになっていっく。

さらにパープル・ギャング内では嫉妬が渦巻き、内部抗争が始まる。

撒かれた火種

前述した通り、パープル・ギャングの初期のビジネスは酒の密輸だった。

やがて禁酒法時代が始まると同業者との“ビール戦争”が勃発。

パープル・ギャングは他のギャングから酒類を強奪しまくった。

やがてパープル・ギャングは酒を強奪するだけでなく、他のギャングを傘下に加え始める。

その一つは”リトル・ジューイッシュ・ネイビー “と呼ばれる小さなグループ。

このグループは、カナダから船で酒を密輸する役割を担っており、シカゴの元泥棒であるジョセフ・”ニガー・ジョー”・リーボウィッツ、ハーマン・”ハイミー”・ポール、イサドア・”イジー・ザ・ラット”・サトカーの3人が所属していた。

やがて、3人は独立した勢力としての地位を確立しようとし始める。

彼らは「サード・アベニュー・テラーズ」と名乗り、パープル・ギャングの縄張りの一部を奪おうと画策した。

緊張が高まる中、パープル・ギャングのリーダーであるレイ・バーンスタインは彼らを排除することを誓う。

そこでギャングの仲間であるソル・レヴィンを呼び寄せた。

レヴィンは両組織の親友であり、自信は調停役を務めると思っていたのだが。。

コリングウッド・マナーの大虐殺

コリングウッド・マナー

会議は1931年9月16日に招集され、レヴィンに付き添われた3人は、コリングウッド・アベニュー1740番地の211号アパートに向かった。

部屋に入ってから両組織は共存方法について語り合った。

やがてバーンスタインは自分の車から荷物を持ってくるといって席を外した。

バーンスタインは車に乗るとクラクションを鳴らして、アパートに残っていたハリー・キーウェル、アービング・ミルバーグ、ハリー・フライシャーの3人のパープルギャングに合図を送った。

何の前触れもなくフライシャーは立ち上がり、リボルバーを取り出してリーボウィッツを至近距離から銃撃。

ミルバーグとキーウェルも立ち上がって他の2人に向けて発砲を始め、キーウェルはサトカーを、ミルバーグはポールを撃った。

その間、レバインはただただ呆然としていたという。

その後、3人はアパートを出て、バーンスタインの車に乗り込み4人で走り去った。

警察が到着したときレヴィンはまだ現場におり、本部に連行されて事情聴取されることに。

レヴィンは厳しい取り調べを受け、犯人の名前を挙げた。。

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後にこの事件はコリングウッド・マナーの大虐殺と呼ばれることになります

パープルギャングの最期

レヴィンが告白した直後、警察に匿名の電話がかかってきた。

その電話の主は「コリングウッドの殺人事件で指名手配している2人がカルバート2649番地にいる。彼らは1時間以内に街を出るだろう」と語った。

警察は重装備の元、その場所に急いだ。

その場所とはパープルギャングのメンバー チャールズ・アーバックが所有する建物。

バーンスタインとキーウェルは警察が到着した時、パジャマ姿でトランプをしていた。

ミルバーグも翌日の夜、街を出ようとした所を逮捕された。

銃も回収され、検査によって凶器であることが証明され、警察は銃撃犯と武器を結びつけることができた。

1931年9月30日に公判前整理が開始。

レヴィンは、バーンスタイン、キーウェル、ミルバーグ、フライシャーの4人を指して、レボウィッツ、ポール、サトカーを殺した犯人だと名指しした。

新聞記事によると、レヴィンは証言中、検察官にのみ注目し被告人の男たちには一度も目を向けなかったという。

しかし、バーンスタイン、キーウェル、ミルバーグ、フライシャーの4人は証言中ずっとレヴィンを睨みつけていた。

1931年10月2日、男たちはドナルド・ヴァン・ザイル判事の前で罪状認否を受けた。

弁護側の申し立ては却下され、4人は保釈金なしで拘束されることになる。

一方、レヴィンは10人の武装した刑事に守られながら証言を始めた。

それから銃声が聞こえた直後に男たちがビルから逃げ出すのを見たと証言する数人の目撃者が続いた。

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陪審員は1時間37分かけて有罪判決を下しました。

それぞれ仮釈放なしの終身刑。

彼らが送られたのはミシガン州の最高セキュリティ施設であるマーケット刑務所だった。

刑事部長のジェームズ・E・マッカーティは裁判について報道機関に対してこう語っている。

「この有罪判決は、ここ数年で最大の成果です。この有罪判決は、ここ数年で最大の成果だ。”パープルギャングの葬っただけでなく、デトロイトではもう殺人は許されないということを、他のギャングたちに知らしめたのだ」

この有罪判決を機に、パープル・ギャングは他のギャングに狙われ始めた。

刑事部長の言葉に反して殺人は増加したのである。

その後、多くのメンバーは街から逃亡。

パープル・ギャングは消滅した。

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